シリアの旅 Syrian Arab Republic
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■ シリアの地図 「地球の歩き方」より掲載 ※クリックで拡大
■ シリアの歴史
紀元前3000年以降、アラビア半島から移住してきたセム系の諸民族がこの地域に住み着いたのが起源とされる。
その後、エジプト、ヒッタイト、アッシリア、新バビロニア、アケメネス朝ペルシャと支配民族が交代し、特に前4世紀のアレキサンダー大王の支配下のときに、交易が活性化し、ダマスカス、アレッポなどにヘレニズム文化が開花した。
紀元前3世紀にシリア砂漠に興ったパルミラは、東方貿易の重要なオアシス中継都市として繁栄した。 が、3世紀後半パルミラの女王・ゼノビアはローマ帝国に反逆するが、逆にローマ帝国によって徹底的に破壊され滅亡する。
7世紀には、ウマイア朝が支配し、ダマスカスをイスラム帝国の首都とした。750年にはアッバース朝が支配権を奪い、都をバグダッドに遷都する。このあと、小王国の抗争が続いた。
11世紀、12世紀とキリスト教の十字軍とイスラム軍との壮絶な宗教戦争の舞台になる。
13世紀からイスラムのマムルーク朝が支配していたが、16世紀以降はオスマン・トルコが支配し、その属州の1つになる。
20世紀になるとアラブ民族主義の勃興やオスマン・トルコ帝国からの独立運動が盛んになり、第1次世界大戦中、イギリス人「アラビアのロレンス」の支援する「アラブの反乱」となるが、イギリスとフランスは秘密協定を結び、戦後、シリアはフランスの実質的植民地となる。
第二次世界大戦後の1946年、シリアはフランスの委任統治から独立するが、イスラエルとの中東戦争で政情は不安定であった。1967年の第3次中東戦争の敗北で、ゴラン高原を喪失する。
1970年にアサド前大統領が無血クーデターで政権を握り、現在はその息子のバッシャール・アル・アサドが大統領に就任している。
・・・・・・・・・・・・・「地球の歩き方」より要約・・・・・・・・・・・・・
<シリアの旅 Syrian Arab Republic>
これからシリアの旅を紹介していきます。
まずは、ヨルダンとの国境を越えて、■ボスラ訪問 ■首都ダマスカス市内観光(国立博物館、アゼム宮殿、ウマイヤド・モスク、聖アナニアス教会、スークの市場など) ■シリア観光最大のハイライトパルミラ遺跡 ■マアルーラ村(イエス・キリストが話していた古代アラム語の村) と紹介していく予定です。 お楽しみに・・・・
まずは、シリアの旅のは、古代ナバテア人の都として栄えたボスラの観光から始めます。
< ボスラ Bosraのローマ劇場と路地裏の機織職人>
ヨルダンとの国境を越えて数十km、ボスラはシリアの南に位置する。その代表的な遺跡がシタデルCitadelと呼ばれる城塞と2000年近い歴史をもつ中東最大規模を誇るローマ劇場Roman Theaterである。
ボスラの人口は現在数千人だが、アレキサンダー大王の征服によって植民地になってヘレニズム化が進み、紀元前1世紀にナバタイ帝国の北の都になった。そのときの南の都がペトラなのである。 いまは都としての面影はほとんどなく、ひっそりと佇んでいる。
ボスラといえば、「ビザンチン時代にムハンマドがこのボスラにキリスト教を学びに来た」という伝説と十字軍の侵攻を阻止した城壁とそれによって守られ、世界でもっとも保存状態がよいと言われるローマ劇場Roman Theaterが有名なのである。
ローマ劇場もそうだが、街全体も黒ずんでいるのは、かつてこの地方が火山帯だったため、黒色の玄武岩が多く採れ、その黒い玄武岩を使って神殿や住居や劇場を建設したからという。
印象に残ったのは、下の写真の路地裏の狭い自宅の庭で働いていた機織職人さんの姿である。路地から見えたので、何かに吸い寄せられるように狭い路地裏の道を入っていった。 写真も喜んで撮らせてくれた。
こうゆう地道に黙々と働いている人の姿をみるとほっとするし、なぜかジーンとくる。
「軽佻浮薄」になりがちな心を戒めてくれる。
※ボスラ Bosraとは、[Nobody knows the future] という意味
■中東最大規模を誇るボスラのローマ劇場
■ボスラの機織職人さん ■古代からの貯水池