【祐徳稲荷神社】 本殿、石壁神社、そして奥の院へ
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祐徳稲荷神社は伏見稲荷大社などとともに日本三大稲荷の一つに数えられる。
年間300万人の参詣者が訪れる。これは九州の神社では太宰府天満宮に次ぐ参拝客数である。
衣食住、生活全般の守護神として、商売繁盛、家運繁栄などで尊崇されている。
貞享4年(1687年)肥前鹿島藩主鍋島直朝公の夫人花山院萬子媛が、朝廷の勅願所であった稲荷大神の御分霊を勧請された稲荷神社で、京都の伏見稲荷、茨城の笠間稲荷と並ぶ日本三大稲荷のひとつとされ、建物は総漆塗り極彩色は壮観で「鎮西日光」とも称されている。外苑には斉藤茂吉の歌碑等もある。
◆◆祐徳稲荷神社・御本殿
▼渡廊の石段を登り・・・
◆◇◆御本殿
祐徳稲荷神社は貞享4年(1687年)肥前鹿島藩主鍋島直朝公の夫人花山院萬子媛が、朝廷の勅願所であった稲荷大神の御分霊を勧請された稲荷神社。
現在の社殿は昭和の初期に新築された御本殿が、昭和24年5月15日の火災によって焼失した後昭和32年に再建されたものである。
建築は、日本建築工芸株式会社社長角南隆氏(伊勢神宮造営局長)の設計により、造営技師馬場伊勢吉氏指導のもとに竣工。その後、小西美術工芸社社長小西啅也氏によって総漆塗極彩色工事が行われ、現在に至っている。
神社の恒例祭典及び日常昇殿参拝者の玉串拝礼は、ここで行われる。
◆◇◆御祭神
◆倉稲魂大神(ウカノミタマノオオカミ)
一般に稲荷大神と呼称され、衣食住を司り生活全般の守護神として尊崇されている。
ウカノミタマノオオカミは、日本神話に登場する神。『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、『日本書紀』では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記する。
名前の「ウカ」は穀物・食物の意味で、穀物の神である。両書とも性別が明確にわかるような記述はないが、古くから女神とされてきた。
伏見稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されている。
伊勢神宮ではそれより早くから、御倉神(みくらのかみ)として祀られた。
◆大宮売大神(オオミヤノメノオオカミ)
天宇受売命(アメノウズメノミコト)、天細女命(アメノウズメノミコト)とも称され、天照大神(アマテラスオオミカミ)が天の岩戸にお隠れになった時に、その岩戸の前で舞を舞われた神で、技芸上達の神、或いは福徳円満の神として信仰されている。
◆猿田彦大神(サルタヒコノオオカミ)
天孫瓊瓊杵命(テンソンニニギノミコト)が高千穂の峯に天孫降臨をなさった際、その先導役をされた神で、その故事により水先案内の神そして交通安全の神として信仰されている。
▼祐徳稲荷神社・本殿①
▼祐徳稲荷神社・本殿②
▼祐徳稲荷神社・本殿③
▼祐徳稲荷神社・本殿④
▼祐徳稲荷神社・本殿⑤
▼祐徳稲荷神社・本殿⑥
▼祐徳稲荷神社・本殿⑦
◆本殿から石壁神社へ
◆石壁神社
祐徳稲荷神社を創建された、鹿島藩主鍋島直朝公夫人萬子媛(御神名萬媛命)をお祀している。
【祐徳稲荷神社のHPの説明】
『萬子媛は後陽成天皇の曾孫女で、左大臣花山院定好公の娘でありますが、寛文2年直朝公にお輿入れになりました。その折、父君の花山院定好公より朝廷の勅願所でありました稲荷大神の神霊を、神鏡に奉遷して萬子媛に授けられ「身を以ってこの神霊に仕へ宝祚(皇位)の無窮と邦家(国家)の安泰をお祈りするように」と諭されました。萬子媛は直朝公に入嫁されてより、内助の功良く直朝公を助けられ、二人のお子様をもうけられましたが、不幸にしてお二人共早世されたのを機に、貞享4年62歳の時此の地に祐徳院を創立し、自ら神仏に仕えられました。以後熱心なご奉仕を続けられ、齢80歳になられた宝永2年、石壁山山腹のこの場所に巌を穿ち寿蔵を築かせ、同年四月工事が完成するやここに安座して、断食の行を積みつつ邦家の安泰を祈願して入定(命を全うすること)されました。萬子媛ご入定の後も、その徳を慕って参拝する人が絶えなかったと云われております。
諡を祐徳院殿瑞顔実麟大姉と申しましたが、明治4年神仏分離令に添ってご神号を萬媛命と称されました。』
◆◆朱の鳥居と奥の院への道
◆命婦社(みょうぶしゃ) 御祭神命婦大神
稲荷大神の神令使(お使い)である白狐の霊を、お祀りしている御社である。
【祐徳稲荷神社HPの命婦社の説明文】
『光格天皇天明8年(1788)京都御所が火災となり、その火が花山院邸に燃え移った時、白衣の一団が突如現れて、すばやく屋根に登り敢然と消火にあたり、その業火も忽ち鎮火した。
この事に花山院公は大変喜ばれ、厚くお礼を述べられこの白衣の一団に尋ねられた。
「どこの者か?」
答えて言うには、
「肥前の国鹿島の祐徳稲荷神社にご奉仕する者でございます。花山院邸の危難を知り、急ぎ駆けつけお手伝い申し上げた だけでございます。」
公はいぶかしんでさらに尋ねられた。
「私の屋敷などどうでもよい。どうして御所に行かないのか?(御所の火を消さないのか。)」
一同が恐縮して答えるには、
「私達は身分が賤しく宮中に上がることは出来ません。」
とそう言い終るや否や、跡形もなく消え去った。
花山院内大臣はこれは不思議なことだ、奇蹟だと内々に光格天皇に言上されると、天皇は命婦の官位を授ける様勅を下され、花山院内大臣自ら御前において【命婦】の二字を書いて下賜されたといわれる。
※尚、この掛物は現在祐徳博物館にて所蔵。
その後石壁山山中に社殿を造り、命婦大神として御奉祀され、現在に至っている。』
◆◆奥の院(命婦社)
▼「奥の院」の脇の摂社
◆奥の院の鳥居の前の広場から有明海を望む。