【綿津見神社】 海神・竜神の綿津見神と神功皇后伝承と「三苫」
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◆ 鎮座地は福岡市東区三苫(筑前国糟屋郡三苫郷)
綿津見神社の神紋は「右三つ巴」。右三つ巴は宇美八幡宮と織幡神社の神紋と同じ。
香椎宮、筥崎宮、宇佐神宮、住吉神社(福岡)、志賀島神社、志式神社の神紋は「左三つ巴」
綿津見神社には
海の主宰神・守護神である綿津見神(志賀三神)と海神の娘の豊玉姫命がご祭神とて祀られている。
綿津見神は、伊邪那岐(イザナギ)命が、妻の伊邪那美(イザナミ)命に追われて黄泉国から現世へ逃げ戻って、死の国の穢(ケガレ)を祓うため禊(ミソギ)をしたとき、水(海)の中で生まれた三神の総称であり、「海の霊」(海神)を意味し、海を統括し守護する神である。
綿津見神は龍宮(海)に棲む竜神ともいわれ、八大竜王(竜王)と称され、
境内には神功皇后伝承所縁の海神・龍神の「八大竜王神」の扁額を祀る祠がある。
もともと「龍王社」であったのが、明治初年に神仏分離令により「綿津見神社」になったという。
全国の綿津見神社は福岡市東区志賀島の志賀海神社を総本社とする。
総本社の志賀海神社の祭神である綿津見三神は、
「ちはやぶる 金の岬を 過ぎぬとも 吾は忘れじ 志賀の皇神」 (万葉集1230)の歌で有名なように、尊称して「志賀の皇神(すめがみ)」と呼ばれた。
綿津見神は阿曇氏の祖神とされ関わりが深い。
境内社には、
[竈門神社]沖津彦神、沖津姫神 [黒津神社]武内宿禰 [須賀神社]須佐之男神
[稲荷神社]保食神が祀られ、
[虚空像堂]には不動明王立像、吉祥天立像、伝虚空蔵菩薩立像、伝薬師如来坐像
[大日堂]には如来形立像(伝大日如来像)を祀っている。
虚空蔵菩薩木像は最澄が唐から古賀市の花鶴浜(かづるがはま)に到着して一か月滞在した折に彫ったものだと伝えられている。
綿津見神社の裏の三苫の丘稜からは玄界灘を眼下に見下ろし、西に志賀島、北に相ノ島を望むことができる。
【鎮座由来・縁起】(三苫の由来)
香椎宮旧記に神功皇后征韓御渡航の際、対馬を発船された時俄に大雷雨大風涛起り御船危殆に瀕す。
此時、御船の苫三枚を海中に投入し、何れの時何れの処にあれ此の苫の流れ寄らん地に社を建て拝祭せんと海神に祈られし処、立処に風涛治り征韓の大業を易く終え給い、凱旋後苫の漂着せし地に三枚の苫を神体とし社を建て海神を拝祭された。此の神社なり。此の縁により地名を三苫という。
古来香椎宮神輿渡御報賽の儀あり中古より神使の発地となり現在に至る。
香椎宮 宮司 木下 祝夫 叢
◆綿津見神社・参道
▼一の鳥居
▼一の鳥居の扁額
▼一の鳥居と参道
▼参道
▼常夜灯と一体となった狛犬の像
▼常夜灯と一体となった獅子(狛犬)の像
▼注連掛石(しめかけいし)
▼神門と参道
▼神門と二の鳥居
▼阿形の狛犬
▼吽形の狛犬
◆◇◆綿津見神社・祭神
【祭神】 綿津見神(志賀三神) 豊玉姫命
◆◆綿津見神(志賀三神)◆◆
底津綿津見神 中津綿津見神 上津綿津見神 の三神を総称して
綿津見神(志賀三神)という。
日本神話で最初に登場するワタツミの神は、オオワタツミ(大綿津見神・大海神)である。
神産みの段で伊弉諾尊 (伊邪那岐命・イザナギ)・伊弉冉尊 (伊邪那美命・イザナミ)二神の間に生まれた。神名から海の主宰神と考えられている。
イザナギが黄泉から帰って禊ミソギをした時に、ソコツワタツミ(底津綿津見神)、ナカツワタツミ(中津綿津見神)、ウワツワタツミ(上津綿津見神)の三神が生まれ、
この三神を総称して綿津見神と呼んでいる。
この三神はオオワタツミとは別神である。
この時、ソコツツノオノミコト(底筒男命)、ナカツツノオノミコト(中筒男命)、ウワツツノオノミコト(表筒男命)の住吉三神(住吉大神)も一緒に生まれている。
また、綿津見神の子のウツシヒカナサク(宇都志日金析命)が阿曇連(阿曇氏)の祖神であると記している。
またイザナギが黄泉から帰って禊ミソギをした時に、
アマテラス(左目)、ツクヨミ(右目)、スサノヲ(鼻)の三貴子(みはしらのうずのみこ)も生まれている。
◆◆豊玉姫命◆◆
豊玉姫神(トヨタマヒメ)は、『古事記』上巻、山幸彦と海幸彦神話に登場する女神。
▼『わだつみのいろこの宮』 青木繁 石橋美術館所蔵
▲画面上部、木の枝に隠れて座るのが山幸彦。
左側の赤い衣をまとい、山幸彦と視線を交わすのが豊玉姫。右側の白い衣の女性は、姫の侍女。
兄・海幸彦に借りた釣針をなくしてしまった山幸彦は、途方に暮れながら綿津見(わだつみ)の宮を訪れ、そこで豊玉姫と結ばれる。
豊玉姫神(トヨタマヒメ)は海神・綿津見神(海若)の娘。
天孫・邇々芸命(ニニギノミコト)が大山津見神の娘・木花佐久夜毘売(コノハナノサクヤヒメ)との間にもうけた火遠理命(ホオリのミコト)(=山幸彦)と結婚し、鵜茅不合葺命(ウガヤフキアエズノミコト)を生む。
出産の際に『古事記』や『日本書紀』一書では八尋和邇(やひろわに)の姿、『日本書紀』本文では龍の姿となったのを、火遠理命(ホオリのミコト)(=山幸彦)が約を違えて伺い見たため、綿津見神の国へ帰っていった。
鵜茅不合葺命(ウガヤフキアエズノミコト)は、トヨタマヒメの妹・玉依姫神(タマヨリヒメ)に養育され、後に玉依姫神と結婚し、五瀬命(いつせ)、稲飯命(いなひ)、御毛沼命(みけぬ)、若御毛沼命(わかみけぬ)の四子をもうけた。御毛沼命は常世へ渡り、稲飯命は母のいる海原へ行った。
末子の若御毛沼命が、のちに神倭伊波禮毘古命(カムヤマトイワレヒコノミコト)=初代天皇・神武天皇となる。
◆綿津見神社・拝殿
▼拝殿①
▼拝殿②
▼拝殿③
▼拝殿④
▼拝殿⑤
▼拝殿⑥
◆綿津見神社・本殿
▼綿津見神社・本殿①
▼綿津見神社・本殿②
◆◆綿津見神社・境内
◆「八大竜王神」の扁額を祀る祠
神功皇后伝承所縁の海神・龍神の「八大竜王神」の扁額を祀る祠
もともと「龍王社」であったのが、明治初年に神仏分離令により「綿津見神社」になった。
【「八大竜王神」の扁額を祀る祠の由緒】
綿津見神社は中古より八大竜王また龍王と稱(称)す 此(の額はその遺跡なり。香椎宮編年記に九月十日大宮司斎戒沐浴して 神体を神輦に移し祠官音楽を奏し了て、十一日の暁に三苫郷龍王の社に遷幸す 此れ皆な大菩薩征西の時 加護し玉ひし神なれば也とあり 明治初年神仏分離の際 龍王の社名は綿津見神社に復元せられると雖も往古の貴重なる実績なれば謹みて茲に顕彰するもの也
◆虚空像堂
不動明王立像、吉祥天立像、伝虚空蔵菩薩立像、伝薬師如来坐像を祀っている。
【綿津見神社の仏像群】の解説はこちら 福岡市教育委員会編
虚空蔵菩薩の木像は最澄が彫ったと伝えられている。最澄が唐から古賀市の花鶴浜(かづるがはま)に到着して一か月滞在した時に彫ったものだそうだ。
◆◇◆三苫の丘から海を眺める
綿津見神社の裏の三苫の丘稜からは玄界灘を眼下に見下ろし、西に志賀島、北に相ノ島を望むことができる。
神功皇后が征韓の渡航の際、対馬沖で暴風雨に遭い、その航海の無事を海神に祈って苫を海中に投入し、その苫が三枚漂着した場所がこの「三苫」の浜だと思うと感慨深くなってくる・・・
▼この海に面して建っている鳥居を通って三苫の丘をおりていく・・・
▼歩いてすぐに「三苫」の海が見えてくる。
▼日常的に風が吹上げてくるのか、
浜の木々がパタゴニアの浜の木々のように、風の吹き抜ける方向に曲がっている。
▼「三苫」の浜からは、志式神社や大嶽神社が鎮座する松林の丘と、鳴き砂で有名な奈多の「吹上浜」が見え・・・
▼北には相島が見え・・・
▼西には、後漢の光武帝から授かった「漢委奴國王」の金印の出土地であり、また「ちはやぶる 金の岬を 過ぎぬとも 吾は忘れじ 志賀の皇神」 (万葉集)の歌で有名な志賀島神社の鎮座する志賀島が・・・・