笠沙の岬(1)・・・邇邇藝命(ニニギノミコト)の神話の地を訪ねて
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笠沙は、鹿児島県薩摩半島の西南部の、鹿児島市から西へ50Kmの野間半島の野間岬に位置し、三方を東シナ海に囲まれ、急峻な断崖が多く、変化に富んだリアス式海岸は絶景となっており、 昔から焼酎の杜氏を輩出してきた黒瀬集落、石垣の集落をはじめ農村と漁村の両方が点在している。
「笠沙」の地名は、「古事記」天孫降臨の段に登場する「笠沙之御前」(笠沙の岬)に因んだものである。町名になる以前には、この一帯に「笠沙」という地名は、字としても広域地名としても存在していなかったが、多くの伝承や逸話がこのあたり一帯を指し示しており、歴史的研究の対象地名とも重なる地域である。
黒瀬の海岸には「ニニギノミコト上陸地」の碑があり、野間岳の山腹にある宮ノ山遺跡には、この地に上陸したニニギノミコトが宮居を定めた場所と伝えられる遺跡がある。
▼笠沙の位置
◆◆【天孫降臨】
天孫降臨(てんそんこうりん)とは、天孫の邇邇藝命(ニニギノミコト)が、葦原の中つ国を治めるために天降(あまくだ)ったこと。
邇邇藝命は天照大御神から授かった三種の神器をたずさえ、天児屋命(あまのこやねのみこと)などの神々を連れて、高天原から地上へと向かう。途中、猿田毘古神(さるたひこのかみ)が案内をし、邇邇藝命は筑紫の日向(ひむか)の高千穂に降り立ったという、『記紀』に記された日本神話である。
天照大御神の命令を受けた建御雷神と天鳥船神が大国主から国譲りを受けて葦原中国の統治権を確保する。 その後に天照大御神の命により、ニニギノミコトは葦原中国を統治するため高天原から地上に降りたという。これを天孫降臨と呼ぶ。『古事記』では、この降臨の地については「竺紫の日向の高千穂の久士布流多気(くしふるだけ)に天降りまさしめき」と記述している。『日本書紀』では、「日向襲之高千穗峯」あるいは「筑紫日向高千穗」と記述している。
この降臨の経路の解釈ついては、日向国の高千穂峰に降り吾田国(現在の鹿児島県南さつま市)の長屋の笠狭碕に到達したとする説が有力である。日向(ひむか)の歴史はかなり古く、鹿児島県大隅地方もその昔は日向と呼ばれていた。行政上、日向国が設置されたのは7世紀になる。
◆野間池漁港の朝の海
鹿児島県の薩摩半島の西の端に野間岬(野間半島)がある。 そこの付け根の北にあるのが野間池。野間池という地名であるが、池ではなく入江で海と繋がっている。 その入江を取り囲むように漁業関係の集落の家が建っている。ここは見るからに波の静かな天然の良港と分かる。
昨夜はこの野間池漁港の駐車スペースで一泊させてもらった。
さて、これから笠沙の岬の旅をはじめよう。
▼野間池漁港の朝
▼野間池の海と朝日
▼野間池の海
▼波静かな天然の良港・・野間池漁港
◆峠を越え、黒瀬、笠沙美術館へ
黒瀬集落は「杜氏の里」として有名で、焼酎造り伝承展示館がある。その入口近くに川田順さんの歌碑があり 「冬知らぬ薩摩野菊の咲くところ神代の跡のいそにおりたつ」と刻んである。
▼峠を越え、野間半島の西海岸に到着
▼野間半島の西の海
◆笠沙美術館
地域の芸術家育成や活動拠点を主な目的に平成10年4月にオープンした美術館。「黒瀬展望ミュージアム」の別名を持ち、館から望む東シナ海や複雑な岩場など美しい眺望も作品のひとつのようになっている。もともとこの美術館は展望所として計画されたものであるという。ちなみに、建物のデザインは「つばめ」や「指宿のたまて箱」など、JR九州の多くの車両や駅をデザインしたことで著名な水戸岡鋭治氏によるものらしい。
展示品は笠沙町出身の画家 黒瀬道則氏の寄贈作品がほとんどという。朝早く訪れたので閉館だったが、展望台から美しい眺望を十分堪能することができた。
▼笠沙美術館①
▼笠沙美術館②
▼展望台の方位案内図
▼沖秋目島
この島は別名 枇榔(ルビ/びろう)島とも呼ばれているらしい。 かって映画「007は二度死ぬ」で悪の結社のアジトの舞台として登場したという。
◆◇◆宮ノ山の「神代笠沙宮跡」を散策
宮ノ山は、標高240m。その傾斜地に京塚のほかに「ドルメン」と思われる岩窟が3ヶ所、住居跡と思われる積石塚が3ヶ所ある。また、ニニギノミコトが初めての宮居である「笠沙宮」を定めたところともいわれ、地元では神聖な場所として扱われているという。
▼登山口にある案内板
【笠沙宮跡案内図の宮ノ山由緒】
皇孫ニニギノミコトが宮居を定めるべき地を探し求めて吾多の長屋の笠沙の御前においでになり、塩土の翁から領地の献上を受けられ「ここは韓国に向かい、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり、いとよきところ。」といたく気に入られ、ここに宮居を定められた神代笠沙宮の古址と伝えられている。
古事記、日本書紀によりますとニニギノミコトはあるときに笠沙の御前で麗しき美人い出会いその名をたずねると大山津見神の娘で神阿多都姫またの名をコノハナサクヤヒメといい、この姫を妃に迎えることになります。やがて二人の間には3人の皇子が誕生し、長子は火照命といい隼人の阿多君の祖となり、末子は火遠理命またの名を天津日高日子穂穂手見命といい天皇家の祖となったと伝えられており、ここ宮ノ山は皇孫発生の大ロマンの可能性を秘めた実に神聖で由緒ある地とされています。
◆◆皇孫・邇邇藝尊御駐鼻の地
皇孫ニニギノミコトが宮居を定めるべき地を探し求めて吾多の長屋の笠沙の御前においでになり、塩土の翁から領地の献上を受けられ「ここは韓国に向かい、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり、いとよきところ。」といたく気に入られ、ここに宮居を定められた神代笠沙宮の古址と伝えられている。
▼「皇孫・邇邇藝尊御駐鼻の地」への道案内
▼石碑が見えてきた。
◆「皇孫邇邇藝尊御駐鼻の地」の碑
◆宮ノ山をぽれぽれと下りる・・・
▼宮ノ山の風景
◆神話のふる里の碑と海の風景
▼神話のふる里に捧げるの碑文
【神話のふる里に捧げるの碑文】
神話の古里に捧げる
陽光照り映える野間の霊峰
奇岩百態海浜に林立す
遥かなり雲煙の中に浮ぶ宇治の島々
紫紺の海玲龍として海鳥空に乱舞する
三千有余年前の春三月
櫻花繚乱として山を覆う
何処より参り給うぞ神渡りの岩根
横臥岩礁に戯れる男波女波
咲耶姫窈窕絢爛たり天女の如し
調べゆかり太古の唄
青嵐に萌える野間の山岳茜する
海に倒影す
厳頭変幻自在なり南薩の果に聳立つ
夢の如し点在する小島を眼下に見渡せば
悠遠なり笠沙路に相集う人々の憩い
おのずから安泰なり
久遠の光 宮前の際に輝き
笠沙路の村落の平和張る
紫雲棚引く南海の島山に
眞紅斜陽妖婉たり
幽かなり海岸に奏でる漣の調
夜の帳に人々の心 仄仄と和む
昭和五十年三月 作詞大迫亘
◆「神話のふる里」の碑
日向の高千穂の峰に降臨された天孫・邇邇藝尊は笠沙の御前で出会った国っ神の麗しい女・木花咲耶姫を妃とされ笠沙の地に宮居を定められた。やがて全国統一をめざす大和進発への胎動が日向三代の物語としてここ笠沙の地からはじまる。
郷土の歴史と文化を築きあげてきたエネルギーの根源はこの地に語り継がれている神話でもあった。
美しい自然とともにわがふる里に残る神話とそれにまつわる遺跡を保存し後世に伝えるべくこの碑をここに建立する 昭和五十年二月 笠沙町
◆◆「神話のふる里」の海