世界遺産シギリヤ・ロックと妖艶な「シギリヤ・レディ」
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<スリランカ紀行> 4日目
◆◇◆シギリヤ・ロック
シギリヤの遺跡は、5世紀にカッサパ1世(在位477〜495年)によって建造された、要塞化した岩上の王宮跡と、それを取り囲む水路、庭園、貯蔵施設などの都市遺構からなる。岩山の中腹には『シギリヤ・レディ』として知られるフレスコの女性像が描かれている。当初は500体ともいわれたが、風化が進み現在は18体だけが残る。
シギリヤロックは火道内のマグマが硬化して出来た岩頸で、形状は楕円柱、標高約370m、岩頸そのものの高さは約195m、全方位が切り立った崖になっている。
1982年世界遺産(文化遺産)に登録された。
シンハラ王朝の5世紀、ダートゥセーナ王の息子カッサパ1世は、王の甥であり軍指令官でもあったミガラの支援を得てクーデターを起こし、477年には父親から王権を奪取する。しかし平民出身の母親を持つカッサパ王は、王族出身の母を持つ弟モッガラーナに王位を奪還される事を恐れ、長らく首都であったアヌラーダプラを離れ、より安全なシギリヤへと遷都した。カッサパが在位にあった477年から495年の間、シギリヤは複雑な市街と防衛機能を併せ持つ都として発展し、即位から7年後にはシギリヤロックの頂上に王宮が完成する。
一方、兄カッサパからの難を逃れていたモッガラーナは、亡命先の南インドから軍隊を引き連れ兄に戦いを仕掛ける。当初はカッサパ王が優勢であったものの後に劣勢に転じ、観念したカッサパ王は喉を掻き切り自害、495年、シギリヤは陥落する。
王位についたモッガラーナはシギリヤを仏教僧に寄進し、再び都をアヌラーダプラへと移した。
こうして、打ち捨てられ忘れさられていたシギリヤの城塞都市が再び発見されるのは、19世紀後半になって、イギリス人が入植してからである。
建設から1400年の後、イギリス統治下の1875年に、イギリス人によって岩山に描かれたフレスコ画である"シギリヤ・レディ"が発見された。
▼シギリヤ・ロックへの道
▼シギリヤの入り口には貯水池などの遺構がある。
◆シギリヤ・ロックの入り口
ここから1200段の石段を登っていく・・・・
▼ちと休憩し、風景を眺める
▼螺旋階段も登る・・・
▼シギリヤ・レディを見学・・・「シギリヤ・レディ特集」は最後に掲載
▼ミラーウォールへ
◆◆ライオン・テラス
8合目あたりのライオン・テラスになんとか到着。ライオンの前足が彫刻された「ライオンの入口」のあるライオン・テラスに到着。ライオンテラスの標高が約310m 頂上宮殿が約370m。
以前は頭部もあり、ライオンが大きく口を開け王宮へと導いていたという。
ここで少し休憩。シンハラ語でライオンをシンハ、のどをギリヤといい、これがシギリヤの語源らしい。
◆最後の難関・・・・シギリヤ・ロックの頂上までもう一頑張り。
ライオンテラスの標高が約310m 頂上宮殿が約370m、標高差は約60m。
◆「天空の王宮」シギリヤ・ロックの頂上に到着!
1200段の階段を登り切り、「天空の王宮」のシギリヤ・ロック頂上に到着!
▼シギリヤ・の森と参道と白いシギリヤ・ブッダ
◆◆シギリヤ・レディー
岩山の中腹に美女のフレスコ壁画『シギリヤ・レディ』が迎えてくれる。
カッサパ王が父を弔うために描かせ、当初は500体あったようだが、風化により現在は18体が残るのみ。
花や草木などの顔料で描かれた美女たちは皆、妖艶・優美な姿である。
『シギリヤ・レディー』は、イギリス統治下の1875年に、イギリス人によって発見された。