アルジェリアの旅(15) 世界遺産ティパサ遺跡を歩く・・・
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①アルジェからマウレタニア王家の墓へ
②マウレタニア王家の墓
③シェルシェル ④世界遺産ティパサ遺跡
▼アルジェ→シェルシェル→ティパサ遺跡
◆アルジェを出発・・・シェルシェル、そしてティパサへ
今日から本格的なアルジェリア観光が始まる。朝8時にアルジェのホテルを出発。
まずはマウレタニア王家の墓へ走る。
1時間程走り、9時すぎにヘラ-ルという小さな村の丘の上のマウレタニア王家の墓に到着。
マウレタニア王家の墓をゆっくり観光。
そのあと西に約30km移動しマウレタニア王国の首都カイサリアの都市遺構であるシェルシェルへ
シェルシェルでは博物館、ローマ広場、ラマハーン・モスク、円形闘技場、フォーラムなどを見学した。
シェルシェル散策が終わり、ティパサへ走り、まずシーフード・レストランで昼食。
昼食のあと世界遺産ティパサ遺跡の観光
◆◇◆世界遺産ティパサ遺跡
アルジェリアのティパサ遺跡は1982年にはユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。また2002年〜06年の間は「危機遺産」として登録されていた。
ティパサ遺跡は、アルジェリアの首都アルジェから西へ70kmの地中海岸にある フェニキアとローマ時代の古代遺跡で、紀元前6世紀からカルタゴ時代の地中海の東西をつなぐ貿易の中継都市として栄えた。紀元前146年、ローマ帝国とカルタゴとの間の地中海の覇権を争ったポエニ戦争でカルタゴが滅亡した後、古代ローマ帝国は地中海世界にあった北アフリカを徐々に属州に組み入れ、ティパサもまた古代ローマ帝国の植民都市として新たに整備されることになった。
ユバⅡ世の治世、マウレタニアの港町として発展を遂げ、第4代皇帝クラウディウスの時代には古代ローマの軍事拠点とされた後、市になった。全盛期には1万人ほどの人口だったそうだ。
キリスト教の伝来も早く、3世紀には司教座となった。ティパサには、大バシリカ(教会堂)、アレクサンデル大聖堂、聖サルサ大聖堂の遺跡があり、その繁栄を伝えている。
その後のティパサは、ビザンチン帝国の一部となるが、他のローマ都市と同じく、5世紀、ゲルマン人の一派だったヴァンダル人の破壊活動によって衰退。そして、6世紀には街は歴史から姿を消した。
7世紀になってアラブ人が入ってきた。アラブ人が到着した時には、町は荒廃していたのでティパサ(「荒廃した町」という意味)と呼ばれ、アラブ人たちはこの町には定住しなかった。
以後、人々の記憶からも消え去り、1856年になってフランスの考古学者によりやっと発掘された。
アルジェリアが独立した1962年以降も遺跡の大部分はまだ発掘が行われていないという。
古代ローマ都市は、南北にカルド通り、東西にデクマヌス通りを敷き、その交差点にローマ神話の最高神ジュピターを祀る神殿を置く。そして、その前にフォーラムを造って、フォーラムの周りに議会などの重要な施設を置く。さらに民衆に欠かせない浴場や円形劇場、闘技場などを配置するのが町作りの特徴である。
ここ、ティパサ遺跡も基本的な構造は他のローマ遺跡と同様だが、特筆すべき点は真っ青な地中海とのコントラストの美しさにある。地元の人々も沢山散策に訪れる「海辺の遺跡公園」の趣となっている。
◆ティパサ遺跡の観光ルート
ティパサ遺跡にはマグリブ諸国でもユニークな、先住民ベルベル、フェニキア(カルタゴ)、ローマ、キリスト教、ビザンチンと紀元前6世紀から紀元後6世紀までの歴代文化遺産が同時に見られるという特徴がある。
居住区跡はざっと60㌶。全長2300mの城壁が町を囲み、数か所には門や塔が設けられた。城壁の内側にはバシリカ大聖堂、フォーラム(公共広場)、カピトリウム神殿、浴場、円形闘技場、住宅などが相次いで建設された。
町には当時、1万人以上のローマ人が住んでいたといわれる。
入口→デクマヌス通り(東西の通り)→闘技場→ローマ時代の旧フォーラム→旧神殿→新神殿(ユピテル神)→カルド通り(南北の通り)→アーケード商店街跡→海岸沿いの大邸宅→浴場→漁醤工場→軍港→軍馬舎→餌倉→生簀→軍兵舎→大聖堂跡→外壁と城壁→共同墓地(ネクロポリス)→ノーベル賞作家カミュの石碑→プール付大邸宅→円形劇場→ネンフィウム(噴水広場)→新フォーラム→ドキュマヌス通り→フリータイム
◆闘技場
ティパサ遺跡最大の建造物で最大直径は80m。3000人を収容できたという。東西に門がある。
▼南側から眺めた闘技場
▼闘技場の生死をかけた戦いのために、動物や奴隷たちが通ったと思われる闘技場への西の入場門
▼闘技場の傍のデクマヌス通り(東西の通り)を西へぽれぽれと・・・
▼いい笑顔に出会えました。
▼闘技場の傍の花
◆旧フォーラムから新神殿へ
北側の新しい神殿には、ユピテル、ユノー、ミネルヴァの3神を祀っていたとのこと。基台しか残っていないが、階段の前には生け贄台だという、大きな石が鎮座している。
南側の古い神殿は、よくわかっていないそうだ。どちらも2世紀ごろに造られたと推測されている。
▼旧フォーラム
▼旧フォーラムに面した新神殿はユピテル神を祀っていた。
◆カルド通りから海岸へ
デクマヌス通りから地下に下水道が通り、両側にはアーケード商店街があったという南北のカルド大通りを北に進み地中海の見える海岸へ歩く・・・
▼デクマヌス通り(東西の通り)・・・東へはアルジェの町へ続いているそうだ。
▼これもデクマヌス通り(東西の通り)・・・西方向の風景
▼北へ行くと海へ
▼南北のカルド大通りを北へ歩く・・・
▼突然、公認の芸術家のおじさんが登場。
▼芸術家のおじさんの彫刻作品・・・遺跡の管理事務所の許可を得ているそうだ。
▼南北のカルド大通り・・・地下には下水道が通り、両側にはアーケード商店街があったそうだ。
◆海岸沿いの大邸宅跡と地中海
他の城塞都市と違ってここは商業都市として栄えた。海上交易で財を成した海岸沿いの富豪の大邸宅の遺跡をぽれぽれと歩いた。・・・海の見える大邸宅。ローマに住むより贅沢だったかも。
▼大邸宅跡と地中海
▼大邸宅跡と地中海
▼大邸宅跡と地中海
▼大邸宅跡と地中海
▼大邸宅跡と地中海
▼大邸宅跡と地中海
▼大邸宅跡と地中海
▼大邸宅跡と地中海
▼ティパサ遺跡の赤い花
▼海岸で寛ぐ若い女性たち