【パキスタン】 インダス文明のハラッパ遺跡と博物館
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今日はラホール市内観光の予定を変更して、インダス文明の都市遺跡ハラッパ遺跡観光へ。片道約170km、3時間ほど南へ走り、ハラッパ遺跡へ。
お昼頃、ハラッパ近郊のレストランでランチ。
1時過ぎハラッパに到着。まずハラッパ博物館へ。遺跡で発掘された土器や装飾品、印章などの展示物を見て廻った。次に猛暑と人混みを考慮して、車で遺跡の反対側まで行き、そこから入口までハラッパ遺跡の歩道をガイドのアズマットさんとガードの警官の三人で歩いてぽれぽれと観光していった。
博物館もハラッパ遺跡もラマダン明けの休日ということで、家族連れやグループで賑わっていた。
◆ハラッパ博物館 Harappa Museum
ハラッパ遺跡から出土した発掘品を展示した小さな博物館。各地への交易で重要な役割を果たした印章、ハラッパ人が身に着けていた装飾品などが展示されている。遺跡からはサイコロやチェスを思わせるものが発掘されている他、現在のパキスタンでは見られない鹿、熊、うさぎ、サイなどの意匠が見られることから、当時は湿潤な環境だったことが推測されている。
内部の展示品の写真撮影は禁止されている。
▼ハラッパ博物館の建物
▼見知らぬ案内人(笑)
◆ Harappa.comの資料 Harappa.comのホーム・ページ
▼Bull seal, Harappa.
▼Seals & tablets
▼Tokens or tablets, Harappa.
▼Cubical Weights, Harappa
▼5000-year-old skeletons of adult man, Harappa
◆ハラッパ博物館前の公園と中庭
ラマダン明けの休日ということで、家族連れやグループで賑わっていた。
◆◆ハラッパ遺跡 (Harappa)
ハラッパ (Harappa) は、インダス文明の都市遺跡。パキスタン北東のパンジャブ地方ラホールの南西約200kmのラーヴィー川左岸に位置し、モヘンジョダロと並び称される標式遺跡として知られる。ハラッパ遺跡は東の城塞区と西の市街地からなり、最盛期には2万人の人々が暮らしていた。
◆この遺跡は、1826年にチャールズ・マッソンが発見し、1853年にアレキサンダー・カニンガムによって発掘され、特殊な印章が出土する遺跡として1875年に学会に報告されていたが、当時はまだ特定な文明の遺跡としては知られていなかった。
1921年に、R.B.D.R.サハニの発掘調査によって、未知の文明の都市遺跡であることが明らかにされた。その後のサハニによる数次わたる調査とほぼ同時期に行われたモヘンジョダロの調査によって、インダス文明の存在と性質が位置づけられ、インダス文明の別名として知られる、「ハラッパー文化」の命名の起源になった。
1926年~1934年までM.S.ヴァッツらによる発掘調査、1946年~1947年には、M.ウィーラーによる発掘調査が行われた。1986年以降は、G.F.ディールズ、R.H.メドー、J.M.ケノイヤーらによるアメリカ隊が組織的な発掘調査を行っている。
遺跡のレンガ石を周辺住民が利用したり、東インド会社の鉄道敷設などで遺跡全体の保存状態は悪い。
◆紀元前3300年~同1700年前後にわたって、居住が確認され、古い順から、ラーヴィー期、コト・ディジ期、インダス文明期、変移期、H墓地期の5期にわたる文化層が確認されている。
ラーヴィー期の集落は、遺跡の北側の下層から発見され、手づくねの多彩文土器を伴うのが特徴である。すでに紅玉髄や凍石製ビーズの生産を行っていて、後のインダス文字の起源と考えられる文字が土器の表面に線刻されている。コト・ディジ期になると、遺跡の南東部などに集落は拡大し、周壁が築かれるようになる。
インダス文明期になると、「城塞」と城門によって隔てられた二つの「市街地」の区分けが明確になり、さらに「城塞」の北側には、床面積800m²強の2列にならんだ「穀物倉」と、径3.5mの「円形作業台」18基などが造られる。「円形作業台」の中央には、木製の臼をおいて作業をしたと推定され、脱穀場という説もある。
「城塞」は、南北約400m、東西約200の南北方向に長い平行四辺形で、「城壁」は、焼成煉瓦で被われた日干し煉瓦で築かれ、その基部の厚さは12m、北西と南東の隅に「見張り台」を置き、北側と西側に「城門」を設けている。
「城塞」の南側150~200mの地点には、土坑墓からなるR37墓地が営まれた。焼成煉瓦を多用し、インダス式土器一式のほか印章や、紅玉髄を始めとする各種貴石製ビーズ類が出土している。
◆ハラッパ遺跡見学
ハラッパ遺跡の歩道をガイドのアズマットさんとテロ対策のガードの警官の三人で歩いてぽれぽれと観光していった。
◆居住エリア
ハラッパ遺跡は東の城塞区と西の市街地からなり、最盛期には2万人の人々が暮らしていた。
市街地の職人街でインダス式印章が発見されたという。
鉄道工事でハラッパ遺跡の煉瓦などが大量に使われ破壊が進んだが、今も保全・保護の対策が遅れているように見えた・・・
◆作業エリア
「円形作業台」18基などが造られている。「円形作業台」の中央には、木製の臼をおいて作業をしたと推定され、脱穀場という説もある。
◆穀物倉エリア
床面積800m²強の2列にならんだ「穀物倉」
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▼16世紀、ムガール時代のモスク
▼排水システムの跡
◆城塞エリア
「城塞」は、南北約400m、東西約200の南北方向に長い平行四辺形で、「城壁」は、焼成煉瓦で被われた日干し煉瓦で築かれ、その基部の厚さは12m、北西と南東の隅に「見張り台」を置き、北側と西側に「城門」を設けている。「城塞」の南側150~200mの地点には、土坑墓からなるR37墓地が営まれた。焼成煉瓦を多用し、インダス式土器一式のほか印章や、紅玉髄を始めとする各種貴石製ビーズ類が出土している。
また公共の井戸や浴場、排水システムの側溝などが発掘されている。
▼遺跡見学の途中、暑かったのでパキスタンのアイスを食す。
◆ハラッパ遺跡見学の人々