秋月散策 (1) 眼鏡橋、杉の馬場、黒門、垂裕神社
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2015年12月5日(土) 福岡県朝倉市秋月
▼秋月城下町
◆眼鏡橋
秋月城下町の入り口に架かる目鏡橋は、1810年に架けられた。
大きな洪水にも壊れない丈夫な橋を架けるために、長崎から技術者を招き、その指図によってオランダ風の橋を架けたという。福岡の文化財に指定されている。
◆◆秋月の紅葉
▼野鳥川
▼城下町・秋月の案内図
◆◆杉の馬場
秋月城の前のまっすぐのびた道路は、昔は武士たちの馬術の稽古に使われたので馬場と呼ばれていた。
江戸時代には道の両側に杉の並木があったが、明治時代になって町の人の手で桜の木が植えられて見事な桜並木に変わり、秋月の観光の名所になった。
桜並木が続く「杉の馬場」は、さまざまな飲食店が軒を連ねる華やかな通り。散策の合間に、ひと休みしながら、くず餅、抹茶やランチやスイーツが楽しめる。
◆くず餅と抹茶で、散策前にひと休み
◆杉の馬場の散策・再開
▼黒門茶屋
▼秋月「夢細工」
▼「種痘発祥の地秋月」の碑
◆瓦坂
瓦坂は、「秋月城」の正門に至る坂で、土砂の流れを防ぐ為に、瓦を縦に並べて敷き詰められている。
◆御門前の広場の、「勢溜」(せいだまり)の由緒書き
◆「秋月の由来」という由緒書き
【秋月の由来】
秋月という地名は正暦三年(紀元九九二年)九月二十日に筑前国府宛に太宰府 が出した官符 によると、紀元九四〇年代にこの地が筥崎八幡宮の荘園になった時に秋月荘と名付けられたからのようである。山に囲鐃されたこの盆地は外敵の侵入を防ぐには便利な土地である。従って昔から覇権を狙う者は根拠地とした。遠くは神功皇后 が古処山に拠った羽白熊鷲 を討たれた。 下っては鎌倉幕府の二代将軍源頼家 が、原田種雄 に建仁三年(紀元一二〇三年)に秋月荘を贈ったので、 種雄は秋月氏と称し古処山城を中核に覇を張り十六代三八五年間、天正十五年の豊臣秀吉 の九州征伐 まで盛衰の歴史を繰り返した。ここの地名は俗に梅園という。黒田長政 の死後、その三男長興が五万石貰って分封され秋月藩主となった。とき元和九年のことである。以来廃藩置県 まで十二代二四六年間、黒田氏はここの館に住んでいたのである。
▼黒田家職制
◆長屋門
秋月城跡の梅園の入り口に建つ長屋門。江戸時代初めに、御館奥御殿の御門として造られた。
門の両側に門番などが住む長屋が続いているのがこの門の特徴。この長屋門は福岡県の文化財に指定されている。
▼秋月中学校
▼垂裕(すいよう)神社の参道から眺めた秋月中学校
長屋門をぬけると、梅園または梅屋敷と呼ばれる館跡がある。これは藩主黒田氏の館跡で、秋月中学校側の表御殿と、一段高くなっている梅園側の奥御殿とに分けられていた。この奥御殿には、発掘調査の結果、礎石や水路・井戸・厠(かわや)などが残っており、明治維新当時の絵図面とほぼ一致することが確認されている。
◆垂裕(すいよう)神社の一の鳥居
▼垂裕神社の一の鳥居
◆黒門
垂裕(すいよう)神社の参道に建っているのが黒門。
この黒門は鎌倉時代に古処山城の城門として造られたが、江戸時代初めに秋月城の大手門として移築された。
そして明治時代からはお宮の神門に使われるなど700年の歴史をもつ古い御門で、福岡県の文化財に指定されている。
◆黒門付近の紅葉
◆垂裕(すいよう)神社の参道
垂裕神社の神門(黒門)を抜けると垂裕神社参道。石段を上っていくと、垂裕神社の二の鳥居が見えてくる。
この石段は旧秋月藩士達が中心となって整備したもので「士族坂(さむらいざか)」と呼ばれているそうだ。
▼垂裕神社の二の鳥居
◆◆垂裕(すいよう)神社
安政6年(1859年)、秋月藩第10代藩主黒田長元が初代藩主長興の200周忌を迎えるにあたり、その功績を記念するため秋月八幡宮宮司宮永保親に命じて京都の吉田家に神号授与を申請。吉田家より『垂裕明神』の神号を与えられ、神霊を八幡宮相殿に祀ったのが始まりである。元治元年(1864年)八幡宮から秋月城内の仮御殿に移し祀る。その後、明治5年(1872年)から3年がかりで現在地に社殿を建設【※注】。明治13年(1880年)に秋月城大手門(通称:黒門)を境内に移築。なお、社殿の建設工事及び境内の整備は旧秋月藩士達が中心となって実施したため、参道の石段は「士族坂(さむらいざか)」とも呼ばれる。昭和22年(1947年)、歴代藩主及びその夫人・公子、島原の乱~太平洋戦争の戦死者を合祀。