【追憶のアルメニア】 アララト山とノアの箱舟伝説
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現地ガイドのバラさんの話では、アララト山は非常な恥ずかしがり屋のため1年のうち40日程度しかその姿を見せてくれないそうで、この日も朝は空模様が怪しく、どうなるか心配だったが、次第に雲が切れ、青空になって、雲の切れ目から万年雪の白いアララト山の姿が見えたときには、感動しましたね。
アルメニアにきた甲斐があったというものです。
やはり、ヤスコヴィッチさんは持っていますね。日頃のこころがけが良いせいでしょう。(笑)
▼ノアの箱舟が大洪水の後、流れ着いたとされるアララト山 (標高5,137m)
◆『創世記』のノアの箱舟とアララト山
神は地上に増えた人々が悪を行っているのを見て、これを洪水で滅ぼすと「神と共に歩んだ正しい人」であったノア(当時500~600歳)に告げ、ノアに箱舟の建設を命じた。
箱舟はゴフェルの木でつくられ、三階建てで内部に小部屋が多く設けられていた。箱舟の内と外は木のヤニで塗られた。ノアは箱舟を完成させると、家族とその妻子、すべての動物のつがいを箱舟に乗せた。洪水は40日40夜続き、地上に生きていたものを滅ぼしつくした。水は150日の間、地上で勢いを失わなかった。その後、箱舟はアララト山の上にとまった。
40日のあと、ノアは鴉を放ったが、とまるところがなく帰ってきた。さらに鳩を放したが、同じように戻ってきた。7日後、もう一度鳩を放すと、鳩はオリーブの葉をくわえて船に戻ってきた。さらに7日たって鳩を放すと、鳩はもう戻ってこなかった。
ノアは水が引いたことを知り、家族と動物たちと共に箱舟を出た。そこに祭壇を築いて、焼き尽くす献げ物を神に捧げた。神はこれに対して、ノアとその息子たちを祝福し、ノアとその息子たちと後の子孫たち、そして地上の全ての肉なるものに対し、全ての生きとし生ける物を絶滅させてしまうような大洪水は、決して起こさない事を契約した。神はその契約の証として、空に虹をかけた。
— 旧約聖書『創世記』より
▼ホルヴィラップ修道院とアララト山
アララト山は、トルコ共和国の東端にある標高5,137mの山(成層火山)。トルコ語ではアール山と呼ぶ。主峰の東南にあたる標高3,896mの頂上を小アララト山と呼んでおり、それに対して標高5,137mの主峰は公式には大アララト山という。アルメニアとの国境から32km、イランとの国境から16kmである。
『旧約聖書』にでてくるノアの箱舟が大洪水の後、流れ着いたとされる山と目されて、12世紀以降にヨーロッパ人によりアララト山と命名された。
アララト山は古くからアルメニア人の多く居住してきた地域(大アルメニア)の中心にあたり、アルメニア民族のシンボルとされる。オスマン帝国がこの地域を支配した時代まではアララト山の麓にはクルド人やトルコ人と入り混じりながらも数百万人のアルメニア人が暮らしてきたが、オスマン帝国末期、とくに第一次世界大戦中の強制移住によりトルコ領内からはほとんどアルメニア人はいなくなってしまった。このとき、相当の数のアルメニア人の人命が失われ、アルメニア人ジェノサイドとして国際的非難を浴びたが、トルコ政府はジェノサイドの事実を否認しており、長らく論争となっている(アルメニア人虐殺)。
その後、1920年のセーヴル条約に基づき、旧ロシア帝国領側に住むアルメニア人がアララト山の麓まで領土に含めたアルメニア国家を独立させる運動に乗り出したが、旧オスマン帝国領側に獲得した領土はトルコ革命軍によって奪還されてしまい、ロシア側も赤軍の侵攻によってソビエト連邦に組み入れられた。これ以降、アララト山はトルコ領となるが、1991年のソ連解体によって独立したアルメニア共和国はこのトルコとソ連によって引かれた国境を承認していない。アルメニア・ソビエト社会主義共和国時代においてもアルメニア人のシンボルであることは変わらず、国章にアララト山が用いられていた。現在の、独立後のアルメニアの国章についても盾の中央にアララト山をあしらっており、アルメニア人虐殺とあいまって、領土要求を警戒するトルコとの間で水面下の対立が続いている。 『Wikipedia』より
▼ホルヴィラップ修道院とブドウ畑とアララト山