<水島夫妻のバイクの旅> ボリビアのサンタクルス到着
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昨日サウナに入って、指をマッサージしたら指が曲がるようになりました。もう大丈夫だと思います。 アクセルを吹かすには中指が重要なので、よかったです。
今日は晴天。雨が降らない所にきての雨、くさっていたのですが、やっと暖かくなってきました。
写真整理しましたので送ります。
■南米をバイクで縦断中の水島さんから、ボリビアのサンタクルス到着のレポートが
9月1日届きました。 写真は送られて着き次第、編集して掲載します。
・・・・・・・まずは水島さんのメールから ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ポトシを25日に立って、5日間、昨日ボリビアの東部、セルバ(森林地帯)に属する唯一の大きな都市で、ラパスとほぼ同じ人口を有する、サンタクルスに着きました。
ポトシを発つときは、酸素が薄くて、二人乗りフルパッキンでは、もしかすれば越えられないかもしれない、そのときは4WDを調達して、安子に荷物を持ってもらってとおもっていたのですが、エンジン回転数をほぼ3500にミートして、停まることなく走ったら、寒さに泣き、右薬指の折れていたところが凍傷になったくらいで、ポトシからウルロー、ウルローからコチャバンバに抜ける4500~5000メートルの峠も何とか越えられました。
そして、その後はインディヘナなどの民宿に泊めてもらい、日本人移住地のコロニアル・サンファンに行って、駅伝の行事をみてそして同じ日本人の移住地、コロニアル・オキナワにいって、いままの苦労話やら、現在の課題などをきいて、昨日当地につきました。
でも今回の山越え、すこし厳しかった。安子は寒いアンデスを下りたとたんすっかり元気になって、酸素が濃くなったせいもあるのか?今は私よりも元気になって、アンデスの山越えでは、寒い 寒いと 泣いてばかりいたのに!!
ここでは凍傷を治し、体調を整え、ブラジルに抜ける準備を と思っています。
○サンタクルスからバイクを貨車にうまく載せてもらえるのか?
○ポルトガル語が全然駄目でもうまく入国できるのか?
○アマゾンの源流域をうまく越えられるか?
○パンタナール湿原の横断は大丈夫か?
○ブラジル中央部の横断は大丈夫か?
煮詰めが出来ないようなことばかりでうまくサンパウロまでいけるのか不安一杯ですが、それでもまた厳しいアンデスを越えてチリに戻る気も起きないので頑張るしかないと思っています。
写真を撮るような余裕があまりなかったので、送れるか心配なのですが、整理できたら送ります。
▲[コロニアル・サンファン]
日本人移住50周年祝賀駅伝(サンファン・オキナワ・サンタクルス対抗駅伝大会)
・・・・・・◆<サンタクルスと日本人移住地の概要◆・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■サンタ・クルス について
酸素の薄い、4500~5000メートルの赤茶けたアンデスの山々、寒さに泣き(ポトシの山越え、コチャバンバの山越え、うしろの安子おとなしくなって声がしないと思ったら、泣いていたとのことであった)骨折していた右薬指が凍傷になってしまった雪山を抜け、5日間。
そんな風景にも徐々に木が加わり、緑が目に映りだす。やがて日差しや植物も常夏のそれにかわった。
ボリビアの"あたらしい"都市、サンタ・クルスへ到着。
街のいたるところに椰子の木が茂り、赤や黄色の花が咲き乱れる。高原の多いボリビアにあって、サンタ・クルスはセルバSelva(森林地帯)に属する唯一の大きな都市である。
サンタ・クルス州は、ボリビアの東部、ブラジル・パラグアイ、アルゼンチンとの国境沿いに位置し、標高437メートル面積はほぼ日本と同じくらいで、国内でも最も大きな州である。中心地サンタクルス市の人口は、ラパスとほぼ同じのおよそ100万人とのことである。
最近までは交通が不便であり、孤立都市のイメージが強かった。そのため混血しないスペイン人が多く、スペイン人の美人が多いまちとしても知られているところだ。近年は周辺の都市から空路で2時間あまりでこられること、ラパスより標高が低くて気候がいいことなどから、ボリビアの商業の中心地となりつつある。
第二次世界大戦前後のゴムの景気にあおられて、多くの日本人が夢を託して南米にやってきた。ここボリビアにも多くの移民が流れ込み、彼らはアンデスを越え、少しでも過ごしやすい気候のサンタ・クルス近郊に移り住み、コロニアル・サン・ファンやコロニアル・オキナワを築いた。
このあたりの農業地帯は、サンタ・クルス・デ・ラ・シエラSanta Cruz de la Sierra(山脈地区)といわれ、年間平均気温24度、ボリビアの中にあって過ごしやすい気候である。
■コロニアル・サン・ファン
サンタクルスの南西、124キロのヤパカニ川沿いに開かれた日本人移住地。1955年7月に16家族88名が入植したのを皮切りに1992年6月までに53次にわたって移民の入植がつづき、現在は232所帯770名の日系人とそれを上回るボリビア人が暮らしている。
今年で50周年を迎え、今回幸運にも同じ入植地のコロニアル・オキナワとサンタクルスに住む、サンタクルスの対抗駅伝の開催日に入ることができた。
日系人は長崎県をはじめとする九州出身者が多い。住民のほとんどが農業に従事し、陸稲、大豆、ポンカンなどの柑橘類などの栽培を行なうほか養鶏、畜産もおもな産業にしている。
■コロニアル・オキナワ
第二次世界大戦後、悲惨な地上戦によって荒廃した沖縄からの移住者を受け入れて発展したコロニアル。
風土病の発生や土地問題などによって何度も移転を重ねたあと、ウランデ川の西岸に落ちつき、現在はオキナワ第一、第2、第3の3つの移住地に分かれて発展している。
ここもサンファンと同様に農業が盛んで、小麦、大豆、トウモロコシなどをの穀物を栽培している。とくに小麦は有名で{小麦の首都Capital de Trigo}と呼ばれるほどとのことである。
第一オキナワ移住地にはオキナワ日本ボリビア協会や学校、病院、二系人経営の食堂があり、沖縄の文化や風習が根付いているとか、であった。
幸い、駅伝でお会いした会長の中村さん、お伺いした次の日にもお会いすることができて、苦労話、現状の問題点などを聞かせてもらえ、大変有意義な時をすごせた。