霧島市の安良神社と勝栗神社
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蒲生八幡宮と日本一の巨樹・蒲生の大楠、そして照国神社参拝、
妙見温泉と熊襲の穴、最後に安良神社、勝栗神社を参拝。
◆安良神社
安良神社は、鹿児島神宮、霧島神宮、加治木春日神社、福山宮浦神社とともに大隅5社として崇められてきた。
祭神は安良大明神、十一面観世音菩薩、安良姫の母君など神・仏が一緒になった神社で、創建は和銅元年(708年)の頃とされる。
京の宮に仕えていた安良姫が、川で直垂(ひたたれ)を洗っているところへ白さぎが飛来し、その美しさに見とれた姫は、直垂の片袖を流してしまった。その罪により死刑に処せられるところを、平素から信仰を寄せていた十一面観世音に救われた。安良姫は横川まで落ちのびたものの、その後,母親が自分を探す途中で息絶えたことを知り,悲しみのあまり安良岳の山頂で自害した。これを哀れに思った村人は姫の霊を慰めるために安良神社を建てたという。
境内横には,樹齢400年の立派な御神木がある。
◆勝栗神社
勝栗神社は、栗野中央公民館の隣に鎮座されている。
1,260年余り前の和銅年間に建立された。慶応天皇、神功天皇、仲哀天皇をまつり、鹿児島神宮の正宮に対し、正若宮と称されている。神宝の銅鏡は県の重要文化財に指定されている。
隼人町の正八幡宮(鹿児島神宮)の社伝によれば、神領の四方に正若宮を建立し、北を栗野八幡として正八幡宮の境界の印とした。建久八年の大隅国図田帳に「栗野院六十四丁正宮領」と記載され、創建の古さを証している。
古くは正若宮八幡社と称し、明治三年六月勝栗神社と改称した。この社名は、島津義弘公が文禄の役の折り「野も山も みな白旗と なりにけり 今宵の宿は 勝栗の宿」と、詠んだ故事に由来すると言われている。
八幡の祭神は、神武天皇が御東征の時、海路の神として祖父彦火火出見命を祀られた事に創まり、やがて神武天皇から仲哀天皇、応神天皇、神功皇后に置き代えられて八幡と呼ぶに至った。本殿正面には菊の御紋があり、社格の高さを誇っている。それ故古来武士の信仰が厚く、領主北原氏、藩主島津氏の社殿再興や寄付の金品多く、中でも銅鏡四十面は昭和二十九年五月二十四日県文化財に指定された。
現在の社殿は明治三十四年、昭和五十三年に修理された。
境内の四社は、四所之宮(祭神・彦火火出見命 玉依姫命 鵜茅葺不合命 豊玉姫命)、武内宮(祭神・武内宿袮)、早風宮・雨宮社(共に祭神不詳)である。
尚、別当寺は蓬莱山梅中寺であったが、その守護神の仁王像(昭和五十二年町文化財指定)だけが鳥居前に現存している。