【柞原八幡宮】 豊後一之宮、そして伝承樹齢3000年の大楠
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大分県大分市大字八幡
2017年3月12日(日)参拝
この日は大分の春日神社と豊後一之宮の柞原八幡宮を参拝。
そして最後に別府の竹瓦温泉に入湯。
◆柞原八幡宮 (ゆすはらはちまんぐう) 豊後一之宮
大分市街地西方の二葉山(八幡柞原山とも)山麓に鎮座する。境内入口の長い階段を上ると南大門が南東向きに建つ。社殿は、回廊のある桜門と垣に囲まれており、桜門の奥に、拝殿、申殿と繋がり、その奥に、瑞垣に囲まれて八幡造の本殿がある。
※柞原八幡宮の【柞原】「ゆすはら」は、「ははそ‐はら」とも読み 、柞(ははそ)の多く生えている原の意味。和歌では母の意を含むことが多い。
【柞】( ははそ) の意味
1 コナラの別名。古くは近似種のクヌギ・ミズナラなどを含めて呼んだらしい。
2 《語頭の2音が同音であるところから》母の意にかけて用いる。
【御祭神】:
仲哀天皇,応神天皇,神功皇后
【由緒】:
鎌倉時代に書かれた社伝には、天長4年(827)、延暦寺の僧・金亀(こんき)が宇佐八幡に千日間籠り、「天長7年3月3日に八幡神が豊前国に垂迹する」との神託を得た。
天長7年7月7日、大分郡賀来郷に白幡が飛び渡った。金亀はこのことを朝廷に奉上し、承和3年(836)、仁明天皇の命により豊後国司・大江宇久が社殿を造営し、宇佐八幡の別宮の一つとして崇敬を受けた。
▼柞原八幡宮一の大鳥居
神社はここから約4kmも先の、二葉山(八幡柞原山)の麓に鎮座している。
▼神社入口の注連柱と石段
▼朱の鳥居が見えてきた。
▼2000年5月に奉納された朱の鳥居
▼石段をさらに登ると南大門が見えてくる。
▼南大門の左手には樹齢3000年の大楠
◆◆南大門 (日暮し門)
この重厚な門は元和9年(1623)に府内城主・竹中重義が造営したと伝えられる。幕末に老朽化したため改修の寄付を募り、明治3年に落成した。門には随所に見事な彫刻が施され、一日中眺めても飽きないので「日暮し門」と呼ばれているそうだ。
▼南大門の木鼻の象と狛犬
▼南大門の扉と彫刻
◆南大門 (日暮し門)の見事な彫刻
◆南大門を通りぬける。
◆南大門から先は平坦な参道が続く・・・・
▼参道を振り返る・・・
▼鬱蒼とした森が明るく開けると・・・
▼右手に朱の神門が迎えてくれた。
◆朱の神門
【御祭神】:
仲哀天皇,応神天皇,神功皇后
【由緒】:
鎌倉時代に書かれた社伝には、天長4年(827)、延暦寺の僧・金亀(こんき)が宇佐八幡に千日間籠り、「天長7年3月3日に八幡神が豊前国に垂迹する」との神託を得た。天長7年7月7日、大分郡賀来郷に白幡が飛び渡った。金亀はこのことを朝廷に奉上し、承和3年(836)、仁明天皇の命により豊後国司・大江宇久が社殿を造営し、宇佐八幡の別宮の一つとして崇敬を受けた。長徳4年(998)からは宇佐八幡と同様に33年ごとの社殿の造営(式年遷宮)が行われるようになった。
金亀の法統を継ぐ者は宮師(みやし)と呼ばれ、当社の実質的な支配者であった。国府に近いことから特に国司の崇敬を受け、中世以降は大友氏ほか歴代の領主の崇敬を受けた。戦国時代には領主・大友義鎮(宗麟)がキリスト教を信仰したことから排撃を受けたが、江戸時代には歴代府内藩主の厚い保護を受けた。
中世以降、豊後国一宮を称するようになり、それ以前から一宮を称していた西寒多神社との間で近世まで論争があった。当社を一宮と称した最初のものは、嘉応3年(1171)3月の『宮師僧定清(じょうせい)解』にある、「右、大菩薩は、是れ日本鎮守、百王守護の神霊なり、(中略)豊州の中心に垂迹して、当国の一の宮となる」というものである。
◆◇◆柞原八幡宮・社殿
中央の高い建物が左右廻廊付きの楼門で、左側の屋根が拝殿。参拝は右の廻廊入口から履き物を脱いで上がる。
▼拝殿
▼拝殿から臨む、申殿本殿正面
▼大絵馬が奉納されている廻廊
▼左が拝殿で、右奥が二棟が連結された典型的な八幡造りの本殿。安政年間(1854~1859)に再建されたという。
▼右が拝殿で左奥の二棟が八幡造りの本殿。
◆柞原八幡宮の伝承樹齢3000年の大楠
参道石段を上ると、途中に日暮門(ひぐらしもん)と呼ばれる南大門があり、その少し手前、向かって左手に国天然記念物の大楠が立っている。
八幡宮の創建よりはるか昔から自生し、伝承樹齢は3000年。
樹高:30m、幹回り:18.5m、根元回り:37m
環境庁の調査では、県内では最大の大きさで、楠では全国第7位、全樹種を通じて第8位
◆柞原八幡宮のホルトノキ
表参道の石段を上っていくと「南大門」の少し手前の右側に目立って立派なホルトノキが聳えている。
「柞原八幡宮のホルトノキ」は樹齢400年、樹高25m、目通り幹周4.8mと記される県指定特別保護樹木である。この木の名の「ホルトノキ」は享禄天文のころ、豊後国主大友宗麟が盛んに外船を引き、神宮寺浦(今の春日浦)において外国貿易を営んだ際、ポルトガル人が持って来て移植をしたものなので、その名をとって樹の名前にしたという。実際はポルトガル原産ではないらしい。