トルクメニスタンの旅(17) 世界遺産メルブ遺跡 キズカラ
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2017年5月2日(火)
旅の5日目
7時40分ホテルAK ALTYNアカルティン出発。8時アシハバード空港到着。9時40分トルクメニスタン航空TS129便で出発。約40分のフライトで10時40分マリィ空港到着。
まずはマリィ地域博物館を見学。12時30分ホテル・マリィ Hotel Mary に到着し、チェックイン。
13時30分レストラン「クリスタル」で昼食。14時40分地元のスーパーマーケットに立ち寄り、15時20分頃からバザール見学と買い物。
16時30分から世界遺産メルブ遺跡観光。大キズカラ、小キズカラ、エルク・カラ、グヤウル・カラ、スルタン・サンジャール廟などを見学。19時過ぎ、民家にて夕食。21時40分ホテル・マリィ Hotel Mary に到着。
▼マリィからメルブへ向かう
▼メルブの「ミレーの世界」に出会う
◆◆世界遺産 メルブ遺跡
メルヴは、ムルガーブ川のデルタに発達したオアシス都市で、シルクロードの重要な隊商都市だった。紀元前6世紀〜紀元後12世紀までの、5つの異なる時代(紀元前6〜4世紀のアケメネス朝、紀元前4〜3世紀のセレウコス朝、紀元前3世紀〜紀元後3世紀のパルティア帝国、3〜7世紀のササン朝、11〜12世紀のセルジューク朝)の町の跡を同時に見ることが出来る。メルヴは中央アジア最大の遺跡で、1999年、トルクメニスタン初の世界遺産に登録された。
◆キズカラ (紀元6世紀・ササン朝ペルシャ)
メルブに残る代表的な建造物で、ササン朝時代の裕福な人の邸宅と言われている。キズ=乙女 カラ=城という意味だそうだ。
キズカラは大小二つあり、6〜7世紀のササン朝時代の建物跡で、豪族の居城だったとか、メドレセ(神学校)だったとか、スルタンのハーレムだったとか、諸説ある。大キズカラは、別名「乙女の城」と呼ばれている。これは、モンゴル軍の襲来の時に、乙女達がここに立て籠もり、モンゴルの手に落ちる前に自決したからだと伝わっている。小キズカラは、別名「男の城」と呼ばれている。「男の城」からリンゴを投げ、「乙女の城」に届いたら、結婚出来るという伝説が伝わっている。
大キズカラは現在は壁しか残っていないが,日干しレンガ製で当時は2階建てで,高さは20m,屋根が付いていたという.現在見えている壁の途中に2階の床があったのではなく,現在1階部分は砂に埋もれているのだそうだ。小ギズカラとともに、「スルタン・カラ」の城壁の外、南西の地点に築かれている。
▼ササン朝ペルシャ
12世紀末も、ホラズムシャー朝支配下の重要な都市として繁栄を続けたが、1218年に、チンギス・ハーンの要求を伝えた特使を殺害したため、1221年に、チンギス・ハーンの末子トルイ率いるモンゴル騎馬団が復讐のために攻め込んで、100万人を数えたという住民を一人残らず皆殺しにしたという。メルブの町は廃墟と化し、二度と復興しなかった。
▼モンゴル帝国
▼ 大キズカラと小キズカラの位置
▼キズカラ全景
左手前が小キズカラ、奥が大キズカラ
◆大キズカラ
キズカラは大小二つあり、6〜7世紀のササン朝時代の建物跡で、豪族の居城だったとか、メドレセ(神学校)だったとか、スルタンのハーレムだったとか、諸説ある。大キズカラは、別名「乙女の城」と呼ばれている。これは、モンゴル軍の襲来の時に、乙女達がここに立て籠もり、モンゴルの手に落ちる前に自決したからだと伝わっている。小キズカラは、別名「男の城」と呼ばれている。「男の城」からリンゴを投げ、「乙女の城」に届いたら、結婚出来るという伝説が伝わっている。これは民族舞踊のテーマにもなっているようだった。
大キズカラは現在は壁しか残っていないが、壁の高さは20m近くあり、幅は40m、奥行きは30mくらいある。かつては2階建てで17もの部屋を持ち、屋根もあったと考えられている。32本(16×2)の柱のある壁は波形をしているが、これは強度を増す造りなのだそうだ。
下の方には矢狭間も見られる。ボツボツと穴が開いているのは、モンゴル軍に攻撃されたときの物だそうだ。
現在は1階部分は砂に埋もれ、壁は崩壊している。モンゴルの攻撃にも地震にも耐えたそうだが、自然の砂嵐などには勝てなかったようだ。
現在、修復中で内部は立ち入り禁止だった。
◆小キズカラ
キズカラは大小二つあり、6〜7世紀のササン朝時代の建物跡で、豪族の居城だったとか、メドレセ(神学校)だったとか、スルタンのハーレムだったとか、諸説ある。小キズカラは、別名「男の城」と呼ばれている。「男の城」からリンゴを投げ、「乙女の城」に届いたら、結婚出来るという伝説が伝わっている。これは民族舞踊のテーマにもなっているようだった。
◆キズカラ近郊の風景