トルクメニスタンの旅(22) 最後に タシケント観光、そして帰国
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2017年5月4日(木)
旅の7日目、最終回
▼ブハラの空港
▼タシケントの空港に到着
◆タシケント市内の風景
◆レストラン「ILMIRA」で昼食
▼この女性がレストランのオーナー
◆タシケント市内を走る
◆ ウズベキスタン歴史博物館
ウズベキスタン歴史博物館は、ウズベキスタンの首都タシケントの新市街にある。中央アジアでは最も大きい博物館で、ウズベキスタンの歴史を大まかに知ることができる。古くは石器時代から、最近ではロシア帝国の征服以後の歴史まで。
一階はエントランスで特に展示物は無い。
二階には石器時代からの鏃や土器、人骨、ゾロアスター教寺院の復元模型などが展示されている。
博物館のイチオシは、テルメズ近郊のファヤーズ・テペ遺跡から出土したクシャン朝時代の仏像で、穏やかな癒し系の顔立ちをしている。
三階はロシア帝国の征服以後の歴史、独立後の展示品が置かれていて、現代の産業についても見ることができる。
ということらしいが、疲れていたので、博物館見学はパス。
入口のロビーの土産ショップの横のソファーで眠っていたよ~ん。
▼土産ショップのスタッフ・・土産を買った記念にパチリと
◆ナヴォイ劇場
ビザンチン風建築のオペラハウス
中央アジアの中心地であるウズベキスタンの首都タシケント市にある総床面積15000平方メートル、客席1400席を有する煉瓦作り3階建てのビザンチン風建築のオペラハウス。正式名称は「アリシェル・ナボイ劇場」。 建物内部にはいくつかの間やパーティの部屋があり、壁装飾は中央アジアの各地域の特色を生かすよう工夫されている。
特殊任務に就いた捕虜の日本兵たち
オペラハウスの建設開始後、ソ連は、レーニンによる政権樹立を行なった1917年11月7日の革命30周年にあたる1947年11月までにこの劇場を建設することを決定して建築を進めていた。しかし、第二次世界大戦が始まったため、土台と一部の壁、柱などがつくられた状態で工事が止まっていた。そのため大戦後、日本人捕虜を活用して革命30周年に間に合わせることを命題とし、建築に適した工兵457人の捕虜の日本兵が強制的に派遣された。ソ連の捕虜になったのは合計60万人とも言われ、満州で捕虜となった日本兵はシベリアなどで森林伐採、道路・鉄道建設に従事しており、この劇場建設の任務は特殊業務であった。
劇場完成とウズベク人との交流
一級の劇場”ボリショイ”劇場としてモスクワ、レニングラード、キエフに続く劇場として、1947年10月に完成した。設計者はモスクワ・赤の広場「レーニン廟」を設計したシュシェフ氏。劇場建設での日本人捕虜の働きぶりを見ているうちにソ連の収容所長やウズベク人たちは次第に日本人捕虜に敬意を表し、心温まる友人関係も生まれたという。
タシケント大地震とナヴォイ劇場
劇場が完成してから20年後…1966年に起きたタシケント大地震市内では78000棟が倒壊する大惨事、未曽有の大災害だった。しかし、日本人が建設したこの建物は倒壊する事はなかった。ナヴォイ劇場は無傷だったため、市民たちの避難場所として多くの命を救ったという。
劇場裏手の記念プレートには以前ウズベク語とロシア語、英語で「日本人捕虜が建てたものである」と書かれていた。これをみた独立後大統領に就任したカリモフ大統領は「ウズベクは日本と戦争をしたことがないし、ウズベクが日本人を捕虜にしたこともない」と指摘し、「捕虜」と使うのはふさわしくないと1996年に新たなプレートに作り変えられた。「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォーイ名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。」とウズベク語、日本語、英語、ロシア語の順に刻まれている。
◆タシケント抑留日本人墓地
ウズベキスタンの首都タシュケントに日本人抑留者の墓地があり、この墓地がタシケント抑留日本人墓地と呼ばれている。場所は市の南東地区、ヤッカサライ(Yakkasaray)通りに位置する公営墓地の一角に、ドイツ人墓地が隣接している。
太平洋戦争終結直後、中国東北地方、樺太や北方領土にいた日本兵約57.5万人(平和祈念展示資料館)がソヴィエト連邦のスターリンの指示により強制的にシベリア移送、長年労働を強いられ、厳しい環境の下、約6万人の命が失われた。山崎豊子の不毛地帯はシベリア抑留を題材にしたものである。
詳しくは『Wikipedia』で・・・
◆スーパーで土産を購入
◆レストランで最後の夕食
◆タシケント空港のカウンターバーにて
最後もウオッカ
これで、トルクメニスタンの旅が終わった。いい旅だった。
翌日、成田に到着。午後福岡に無事帰還した。