【世界の砂漠】 バユーダ砂漠とクシュ王国の都メロエ遺跡
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◆カリマからアトバラ経由でメロエまで
カリマ(マラウィ)に3連泊し、クッル遺跡、聖なる山ジュベル・バルカル、ヌーリ遺跡、オールド・ドンゴラのドンゴラ遺跡の見学が終り、この日はアトバラ経由でメロエへ走る。メロエ到着後、クシュ王国の都メロエ遺跡群の見学と夕陽観賞という予定。
▼カリマからアトバラ経由でメロエまでのルート
◆バユーダ砂漠を走る・・・・
▼朝8時にカリマの宿舎を出発。4WDに分乗しバユーダ砂漠を東へ走る。
▼バユーダ砂漠①
▼バユーダ砂漠②
▼バユーダ砂漠③
▼バユーダ砂漠④
◆ちょっくら休憩
▼さあ、再出発
◆マトバラからメロエへ
▼マトバラでランチと休憩のあと13時50分にマトバラを出発。メロエへ向かう。
▼大型トラックをよく見かけるようになった。
▼砂漠の小さな竜巻に遭遇
▼メロエのピラミッドが見えてきた。
▼メロエ王国の“ロイヤル・シティ”遺跡前に到着。
▼ロバと少女
◆クシュ王国とメロエ
メロエは、紀元前6世紀から紀元後4世紀にかけてナイル川中流域、現在のスーダンの首都・ハルツームの北東に繁栄した黒人による文明、またはその中心となった都市。紀元前568年ごろにクシュ王国がメロエに遷都して以降を「メロエ王国」と呼ぶ。鉱物資源や農産物に恵まれ、アビシニア(エチオピア)からインド洋へ通じる交易路の結節点として栄えた。アッシリアから導入した製鉄技術が高度に発達し、アフリカ大陸全土に広まった。350年ごろ、アビシニア高原(エチオピア高原)に興ったアクスム王国の侵攻を受けて滅亡した。
紀元前10世紀ごろから、現在のスーダンのナパタ(ジュベル・バルカル)周辺でエジプトの影響を受けたクシュ王国が繁栄していたが、紀元前6世紀に鉄器で武装したアッシリアの侵攻を受けてメロエに遷都した。ナイル川とアトバラ川の合流点に近いメロエは鉄鉱石や樹木が豊富で、クシュ人自らも製鉄を行いアフリカ黒人の歴史上最初の鉄器製造の中心地となった。メロエには小型のピラミッドが数多く建造され、ヒエログリフをもとにしたとみられるメロエ文字が発明されるなど、クシュ王国同様エジプトの影響を色濃く受けていた。
▼メロエ遺跡のロイヤルシティのアモン神殿の羊の参道
メロエ遺跡は、
アモン神殿と王宮跡の残る「ロイヤル・シティー」と北・南ピラミッド群のある「ベグラウィア」の2つの部分に分かれる。
【ロイヤル・シティー】
まずはメロエ遺跡のロイヤル・シティーを観光。アモン神殿(メロエ最大規模の神殿)、羊の参道、ローマ浴場跡、アマニシャヒド神殿などを見学。
◆アモン神殿跡
ガイドの話によるとアモン神殿はエジプト25王朝の最後の王がメロエに地に建立したもので、羊の参道、一般人の参拝広場、貴族の参拝広場、神官の参拝の場、王族の参拝の場、王と女王の場、祭壇と戴冠式の玉座(B.C.350年)の順に見学したが、崩壊が著しく、往時を想像するのが難しい状態だった。
▼アモン神殿の羊の参道①
▼アモン神殿の羊の参道②
▼アモン神殿跡 これが祭壇と戴冠式の玉座辺りかな・・・
▼アモン神殿跡
▼メロエ遺跡のロイヤルシティのアマニシャヒド神殿跡
◆アマニシャヒド神殿跡
ガイドの話によると、アマニシャヒド神殿はメロエ王国の片目と頭に切り傷のある戦闘的な女王の神殿(B.C.25)で、ローマ軍と戦い勝利したときに、持ち帰ったローマ皇帝アウグストゥスの彫像の頭部をこの神殿の階段下に置き、毎日踏みつけていたという。現在この頭部オリジナルは大英博物館に、レプリカがハルツームの国立博物館に展示されている。
▼メロエ遺跡のロイヤル・シテイ
▼メロエ遺跡のロイヤル・シテイ
▼メロエ遺跡のロイヤル・シテイ
▼メロエ遺跡のロイヤル・シテイ
◆ローマ浴場とサウナ
ローマの情報をもとにヌビア人が造ったらしいという浴場とサウナ。
▼メロエ遺跡のロイヤル・シティー
▼メロエ遺跡のロイヤル・シティー見学もこれで終了。