中欧の旅 ウィーン (4) トラムでウィーン・プチ散策
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2009年3月21日ウィーン観光
◆ハプスブルグ家の夏の離宮・世界遺産シェーンブルン宮殿を観光。トラム(路面電車)にも乗車し、ウィーン市内をプチ散策。土産物屋に寄った」あと、維也納大飯店のレストランSino-Wienで中華のランチ。そのあとスロバキアのプラチスラバへ向かう。
今回はプラハとブダペストがメインで、ウィーンはというと1992年以来の再訪なので軽く流すような感覚でいた。実際も、ま、そんな感じだった。(笑)
『ウィキペディア(Wikipedia)』のウィーン・ガイドを参照しながら・・・・トラムからの風景を眺めましょう。
▼トラム(路面電車)、コイツに乗車。

◆トラムの車窓から

ウィーン (独: Wien) は、オーストリアの首都。人口は約170万人(2009年9月30日)。都市単独で一つの連邦州である。クラシック音楽が盛んで「音楽の都」・「楽都」とも呼ばれる欧州有数の世界都市である。


ローマ帝国の宿営地ウィンドボナ (Vindobona) をその起源とし、かつてヨーロッパの数カ国を支配したハプスブルク家のオーストリア帝国の首都であった。マリア・テレジア女帝時代に栄えた市街は、フランツ・ヨーゼフ1世の治下で整備された。リンクと呼ばれる環状道路は、ウィーンの近代化を実現するために、19世紀の後半にかつて旧市街を囲んでいた堀を埋め立てて造られたものである。

シュテファン寺院をや旧市街をふくむ歴史地区は、「ウィーン歴史地区」の名称で2001年にユネスコの世界遺産に登録された。ここには旧王宮(ホーフブルク、現在は大統領官邸や博物館、国立図書館などとして使用)・ウィーン国立歌劇場・ブルク劇場・自然史博物館・美術史博物館、南駅に近いベルヴェデーレ宮殿などが含まれる。
▼ 国立オペラ座前を通過

ウィーンは、そもそもの成り立ちが2つの道が交差するところに生まれた町であった。ドナウ川に沿ってヨーロッパを東西に横切る道と、バルト海とイタリアを結ぶ南北の道(「琥珀街道」)である。そこはゲルマン系、スラヴ系、マジャール系、ラテン系のそれぞれの居住域の接点にあたり、歴史的にみても、上述のように、紀元前5世紀以降ケルト人の居住する小村であったところにローマ帝国の北の拠点が建設されたのが起源であった。オスマン帝国の隆盛時にはヨーロッパからみてアジアへの入り口にもあたっており、伝統的にも多彩な民族性を集約する都市として栄えた。

その地理上の位置は、かつて共産圏に属した東ドイツのベルリンや東欧スラヴ民族の国家チェコのプラハよりも東であり、第二次世界大戦後の冷戦時代にあっても、国際政治上微妙な位置にあった。
▼HOTEL BRISTOL

また、都心から南南西方面に離れた場所には、かつてウィーン会議の舞台となったことで有名な世界遺産のシェーンブルン宮殿がある。これは、レオポルト1世が狩猟用の別荘として建てたものを、マリア・テレジアが離宮として完成させたものである。


ローマ時代、ウィーンはちょうど帝国の北の境界にあたる位置にあり、恐らくケルト語源でウィンドボナ(bonaはケルト語で集落・町)と呼ばれる宿営地が置かれた。これがウィーンの地名の起源と言われている。
▼ウイーン市庁舎













