アゼルバイジャン(26) シェキからグルジアとの国境へ
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<コーカサス3ヶ国の旅> 4日目
【アゼルバイジャン】シェキのバザール→ザカタラ→国境
【グルジア】①ガワジ村の農家で昼食→②キンズマラウリのワイン工場→③グレミ教会→④テラヴィの民宿
▼シェキからグルジアのテラヴィまでのコース
◆シェキからグルジアとの国境へ
この日も朝は雨。今日はアゼルバイジャンのシェキから国境を越えてグルジアのテラヴィへ向かう。
まずは、小雨降る中、アゼルバイジャンのシェキのバザールを見学。アンズ、胡桃、ハチミツ、野菜、生肉、ヤギの頭など生活に必要な様々なものが売られていた。小さなチャイ屋でティー・ブレイクをして休憩。
シェキのバザール見学のあと、バスは西へ走りつづけグルジアとの国境を目指す。
ザカタラ(ZAQATALA)を過ぎて、正午、バスはアゼルバイジャンとグルジアとの国境に到着。
▼1本咲いていた赤いポピー
【コーカサスについて】・・・・『Wikipedia』より
コーカサス(カフカース)は、黒海とカスピ海に挟まれたカフカース山脈と、それを取り囲む低地からなる面積約44万km²の地域である。
カフカース山脈を南北の境界として北カフカースと南カフカース(ザカフカジエ、ザカフカース、トランスカフカス、外カフカース)に分かれ、北カフカースはロシア連邦領の北カフカース連邦管区に属する諸共和国となっており、ザカフカースは旧ソ連から独立した3共和国からなる。
全体的に山がちな地形で、山あいには様々な言語、文化、宗教をもった民族集団が複雑に入り組んで暮らしており、地球上でもっとも民族的に多様な地域であると言われる。
古代には南カフカースにアルメニア人、グルジア人のキリスト教文化が栄え、北カフカースではアゾフ海東岸・カスピ海西岸の草原地帯で興亡したキンメリア、スキタイ、フン、アヴァール、ハザールなどイラン系・テュルク系遊牧民の国家の支配下にあった。山岳地帯では先住のカフカース諸語の話し手たちが居住しており、イラン系やテュルク系の人々と交じり合って文化的・人種的影響を受けつつ独自で多様な言語と文化を保った。
13世紀にモンゴル帝国軍が到来してキプチャク・ハン国とイル・ハン国に分割され、14世紀以降はイスラム化が進んだ中央アジアのテュルク系遊牧民に代わるマムルークの供給源としてイスラム勢力との絶え間ない接触を続けた。
16世紀以降、南カフカースはサファヴィー朝などのイラン勢力とオスマン帝国の争奪の場となった。北カフカースでは15世紀にキプチャク・ハン国の勢力を継承したクリミア・ハン国やオスマン帝国が進出して支配を広げたが、17世紀以降、大カフカース山脈北麓のステップ地帯からコサックを尖兵とするロシア帝国の影響力が浸透し始めた。
19世紀に入ると北カフカースの併合を完了したロシアは大カフカース山脈の南にまで勢力を伸ばし、南カフカースを支配するカージャール朝イランとオスマン帝国からこの地方を奪った。同じ時期、北カフカース東部の山岳地帯では、ミュリディズム運動と呼ばれるイスラム神秘主義組織ナクシュバンディー教団の指導者たちを中心とする反乱が起こり、ロシア支配に激しく抵抗した。
ロシア革命が起こると、南カフカースではアルメニア、グルジア、アゼルバイジャンが1918年に独立を宣言するが、相互に対立を続けるうちに1921年に赤軍の侵攻を受け、1922年にザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国を結成してソビエト連邦に合流した。北カフカースでもチェチェンやダゲスタンで独立運動が起こるが赤軍によって赤化が進められ、ロシアに編入された。
1991年のソ連解体は、形式上連邦からの分離独立権を認めたソ連憲法に基づき南カフカースの3共和国に独立を果たさせたが、北カフカースの諸民族自治共和国はロシア連邦からの分離権を憲法によっても認められず、独立運動をロシア当局に押さえ込まれた。
中でもチェチェン共和国は1991年に就任したジョハル・ドゥダエフ大統領のもとでソ連およびロシア連邦からの分離独立を宣言し、強硬姿勢を貫いたため、1994年よりロシア連邦軍の攻撃を受け、第一次チェチェン紛争が勃発した。
以来、チェチェンを中心に戦乱、テロが続発し、北カフカースはロシアの中でも特に不安定な地域になっている。一方、独立を果たした南カフカース3国も、アゼルバイジャンとアルメニアのナゴルノ・カラバフ戦争などを原因として民主化の阻害と経済発展の停滞が著しく、問題が山積している。