グルジア (13) グルジアの首都トビリシの市街地へ
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グルジア 2011年5月3日(火) <コーカサス3ヶ国の旅> 5日目
【グルジア】
①テラヴィの民宿 ②コーカサスの山々の姿 ③テラヴィのバザール
④ベルヘシ村の農家のワイナリー ⑤ベルヘシ村からトビリシへ ⑥トビリシ到着
◆テラヴィのバザールの見学のあと、大コーカサス山脈を眺めながら、300年続いているというワイナリーがあるというベルヘシ村(VELISTSKHI「畑の城」の意)に立ち寄った。その農家はノダリさん宅で、土の中に甕を埋めてワインを貯蔵していた。ワインやウォッカを試飲させて貰ったあと、ヤスコヴィッチは、ノダリさんちのペットボトル風のビール瓶にウォッカを入れてもらって、それをを購入した。
ベルヘシ村を出発。一路グルジアの首都トビリシへ向かう。
午後1時頃、マルコポーロも、プーシキンも、トルストイも訪れたというトビリシの市街地に入った。
トビリシといえば、現役大相撲力士の臥牙丸は、グルジア・トビリシ出身です。


◆トビリシの市街地へ
【『Wikipedia』のトビリシ】を学びながら、トビリシ市街地に入りましょう。
トビリシはグルジアの首都。ときにティフリス(Tiflis)とも呼ばれる。元史には梯弗里斯とも呼ばれる。人口は約120万人。グルジア東部、クラ川の河畔に広がる。三方を山や小高い丘に囲まれている。

すでに4世紀のペルシア史料に、この地域に集落があったことが言及されている。今も市内に一部が残るナリカラ砦はこの頃に造られたものである。

その後、5世紀にカルトリ王国(イベリア王国とも言われた)の王ワフタング・ゴルガサリ(ワフタング1世)がここに町をつくり、王の死後、息子のダチが遺訓に従い、ムツヘタから遷都した。統一したグルジア王国の都ではなく、コルキスを含まない東グルジア(カルトリ)の都であった。

ワフタング・ゴルガサリ王がこの地を発見したのには、有名な言い伝えが残っている。王が狩に出かけ、鷹を飛ばした。鷹は雉を追いかけて飛んでいったが、鷹も雉も行方不明となった。従者たちが探し回ると鷹も雉も温泉の中に落ちていた。温泉を発見したワフタング・ゴルガサリはそれをとても気に入り、この地に町を作るように命じた、という。グルジア語の古語で"Tpili"とは「暖かい」という意味で、それがトビリシの語源である。

570年以降、サーサーン朝ペルシアに征服され、627年に、東ローマ帝国とハザールの連合軍が陥落させた。736年にはカリフ・マルワーン2世に率いられたウマイヤ朝の軍が進入。以後、トビリシ首長国としてアラブ人に支配される。

1068年、スルターン・アルプ・アルスラーンの下、セルジューク朝の侵略を受ける。1122年に、セルジュークとの激しい戦闘に勝利し、ダヴィト4世(ダヴィト建設王)がトビリシを解放してグルジアを統一。西グルジアのクタイシからトビリシに遷都し、全グルジアの首都となり王国の領土は拡大し繁栄の道を進む。タマル女王のもとで黄金時代を迎える。

しかし1世紀で終わりを告げる。1226年、ホラズム・シャー朝のスルターン・ジャラールッディーンの侵攻を受け、1236年にはモンゴルの統治下に入る。モンゴル支配下のトビリシは自治を享受できた時代であった。

14世紀から18世紀にかけて、ティムールやタブリーズのシャー、白羊朝、など入れ替わり来襲を受ける。1522年、サファヴィー朝イランの侵攻を受けるもダヴィト5世に解放される。この時期は荒廃したトビリシの再建の時代であった。

1795年、イランのアーガー・モハンマド・シャーの軍勢の前に、トビリシは灰燼に帰す。もはや、イランやトルコの侵攻の前に成す術も持たないグルジアは、ロシア帝国の庇護を求め、1801年、帝政ロシアに編入された。

トビリシには総督府が置かれ、カフカース支配の拠点となった。その間、都市は大きく発展し、ヨーロッパ風の町並みが形成される。


1811年には8500人であった人口は、1825年には2万人になったという。アレクサンドル・プーシキンやレフ・トルストイが幾たびも訪れ、ロマノフ朝の王族の屋敷も市内に作られた。

1918年にグルジアが独立した際、トビリシはグルジア民主主義共和国(1918年-1921年)の首都となる。

以後、グルジア・ソビエト社会主義共和国(1921年 - 1922年、1936年 - 1991年)、ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国(1922年 - 1936年)の首都。

1991年にグルジアが再び独立を果たして以後、グルジアの首都である。

トビリシの自由広場でバスを降り、レストラン「ソラリス・カリ」まで歩いていって、これから昼食。












