アルメニア (1) アルメニア入国とアルメニアの山間風景
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アルメニア 2011年5月4日(水) <コーカサス3ヶ国の旅> 6日目
【アルメニア】
①アルメニアの山間風景
◆今日はグルジアの首都トビリシから国境を越えてアルメニアに入国し首都エレヴァンへ向かう。
途中、9世紀に創建された世界遺産のアフパット修道院、サナヒン修道院を見学。昼食はアルメニアの串焼き肉ホロヴァッツ。午後はコーカサス最大のセヴァン湖散策。そしてエレヴァンへという予定。
▼トビリシからエレヴァンへのルート

◆国境付近のアルメニアの風景
国境のアルメニア側で迎えてくれた現地ガイドのバラさんと合流。バラさんはエレバン大学で日本語を学び、2005年、愛知万博に参加したアルメニアのパビリオンでコンパニオンを務め半年間日本に滞在、その後半年間、埼玉で留学生活をしたという経歴の、つば広の帽子を被った明るい令嬢風の女性。
ここで時計を1時間進める。(日本との時差は-4時間) 運転手はアッセンさん。
これから1時間程走り、世界遺産アフパト修道院へ向かう。
アルメニアの風景を眺めながら、『wikipedia』でアルメニアを少し知っていきましょう。

◆アルメニア共和国、通称アルメニアは、西アジア、南カフカスに近接する共和制国家。東ヨーロッパに含められることもある。首都はエレバン。黒海とカスピ海の間にある国で、西にトルコ・北にグルジア・東にアゼルバイジャン・南にアゼルバイジャンの飛び地ナヒチェヴァン自治共和国がある。

1991年12月にソビエト連邦の解体により独立した。ナゴルノ・カラバフをめぐってアゼルバイジャンと、アルメニア人虐殺問題に対する歴史認識をめぐってトルコと激しく対立していたが、近年はアルメニア大統領が両国を訪問するなど、関係修復を目指して対話を行っている。

◆アルメニア人は自らをハイ(複数形はハイク)、国をハヤスタンと呼ぶ。
紀元前6世紀頃には国際的な商業活動を盛んに行っていたと言われ、紀元前1世紀にアルメニア高原を中心に大アルメニア王国を築き繁栄した。しかしローマ帝国とパルティア、サーサーン朝ペルシア帝国の間で翻弄され、両国の緩衝地帯として時に属州となることもあった。

1世紀頃にはキリスト教の布教が進み、紀元301年には世界で初めてキリスト教を国教とした。その後サーサーン朝ペルシアの支配下に入り更にアラブの侵攻を受けるが、9世紀半ばにはバグラト朝が興り、独立を回復。しかしバグラト朝も長くは続かず、セルジューク朝やモンゴル・ティムール朝などの侵入が相次いで国土は荒廃。このため10世紀に多くのアルメニア人が故国を捨てる(ディアスポラ)ことになった。

◆1636年にアルメニアはオスマン帝国とサファヴィー朝ペルシアに分割統治されるが、1828年のトルコマンチャーイ条約によってペルシア領アルメニアはロシア領となる。

19世紀後半になるとオスマン帝国の支配下にいたアルメニア人の反発も大きくなり、トルコ人民族主義者との対立が激化。20世紀初頭に至るまで多くのアルメニア人が虐殺され(アルメニア人虐殺問題)、生き残ったアルメニア人も多くは欧米に移住するかロシア領に逃げ込んだ。

◆ロシア革命後に民族主義者によりアルメニア民主共和国が樹立されるが、赤軍の侵攻により崩壊した。ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国の一部となった後、1936年にソビエト連邦を構成するアルメニア・ソビエト社会主義共和国となった。

1988年にアゼルバイジャン共和国にあるナゴルノ・カラバフ自治州でアルメニアに帰属替えを求めるアルメニア人の運動が起り、これに反発したアゼルバイジャン人との緊張の中で衝突が起り、両国の本格的な民族紛争(ナゴルノ・カラバフ紛争)に発展した。

これを契機としてアルメニアは独立を宣言したがソ連軍の侵攻を受けた。しかし1991年にソ連保守派のクーデターが失敗した為、同年9月にアルメニア共和国は独立を遂げた。

しかしナゴルノ・カラバフ自治州を巡るアゼルバイジャン人との紛争は現在も続いている。1991年12月21日、独立国家共同体(CIS)に加盟。
▼旧ソ連時代の工場の廃墟

◆政体は共和制である。国家元首は大統領で、任期は5年。大統領は、首相を任免し、首相の提案によりその他の閣僚を任免する。

議会は一院制で、任期が5年である。定数は131議席で、その内、90議席が比例代表制、41議席が小選挙区制である。州知事と大都市の市長は、任命制である。

◆◇◆アルメニアの山間風景
しばらく山間の風景が続く・・・・


▼アフパット修道院が近づいてきた。













