クロアチア (12) 世界遺産・スプリット (Split) その1
|
クロアチア 2011年7月10日(日) アドリア海5ヶ国周遊・4日目【世界遺産スプリット Split】
①銅の門(南) ②ディオクレティアヌス宮殿(地下部分)
③ペリスティル広場 ④謁見の間 ⑤大聖堂と鐘楼 ⑥前庭
⑦金の門(北) ⑧グルグールの像 ⑨銀の門(東) ⑩埠頭の風景
◆トロギールから30km、専用バスに乗り、約40分でアドリア海沿岸で最大の港街で世界遺産の街スプリットに到着。
スプリット新市街の海岸通りを歩き、銅の門(南)から城壁で囲まれた旧市街へ入り、まず、地下のディオクレティアヌス宮殿を見学した。

【スプリット】
スプリットは、キリスト教を弾圧した最後のローマ皇帝ディオクレティアヌス(244~311)の宮殿上に築かれた街。宮殿はディオクレティアヌス皇帝が余生を過ごすために建造させた離宮である。
旧市街である宮殿の広さは、南北が215m、東西が180mあり、周囲は高さ約20m、厚さ2mの巨大な城壁によって囲まれている。城壁の東西南北にはそれぞれ門があって金の門、銀の門、銅の門、鉄の門と名付けられている。
宮殿は地元の白い石灰岩や高品質の大理石で建てられた。大理石の大半はブラチ島の石切り場から、凝灰岩の大半は近隣の河床からもたらされ、煉瓦の大半はサロナ製である
プラチ島の白い大理石は、シドニーのオペラハウス、国会議事堂、ホワイトハウスの建物等にも使われていて、現在も各国に輸出されている。
▼ディオクレティアヌス宮殿の再現図 『Wikipedia』より拝借
ローマ帝国の滅亡後 7世紀頃から近郊のサロナなどを追われた異民の避難民が、廃墟となった宮殿に住みつくようになった。住民は宮殿の地下部分はそのままに、その上に建物を造ったので 古代と中世の建物が入り混じった独特な街並みが形成された。
スプリト旧市街は1979年世界遺産に登録された。
◆◆ディオクレティアヌス宮殿
まずはスプリット新市街の海岸通りを歩き、銅の門(南)から高い城壁で囲まれた旧市街へ入り、まず、地下のディオクレティアヌス宮殿を見学した。
▼海岸通りの風景①

▼海岸通りの風景②

▼高い城壁で囲まれた旧市街

◆銅の門(Porta Aenea)(南)
南の海に面した扉の「銅の門」は、形式と寸法の面で他の3つの門よりも簡素で、皇帝が私的に海に向かう場合や必需品の納入の際に用いられた勝手口であったと推測されている。

◆◆地下のディオクレティアヌス宮殿
海岸通りにある南の青銅の門から地下のディオクレティアヌス宮殿をじっくり見学した。
ディオクレティアヌス宮殿の南半分は皇帝の私邸として使用されていたが、その地下には巨大な空間が広がっている。宮殿は豪奢な別邸の特質を備えている一方で、巨大な門や見張り塔の存在によって軍事施設の特質も混ぜ合わせている。宮殿は城壁に囲まれており、時には9000人以上を収容した。宮殿地下の一部は半円筒ヴォールト(barrel vault)を具えた石造建築物である。
中世になると、地下の部分は倉庫として使われたり、ワインやオリーブオイル造りなどにも用いられたが、スプリットの都市化が進むにつれてゴミ捨て場として使われるようになった。
地下室にはディオクレティアヌス帝の胸像や歴史などを紹介したパネルなどが設置されている。
◆地下の大広間
ローマ時代そのままの姿を見事に残す地下宮殿の大広間。
▼宮殿の地下① 大広間

▼宮殿の地下② 大広間

▼宮殿の地下③ 宮殿を支える柱

▼宮殿の地下④

▼宮殿の地下⑤

▼宮殿の地下⑥ 壁にはめ込まれている皇帝の顔のレリーフ

▼宮殿の地下⑦ ゴミが捨てられた穴の跡

▼宮殿の地下⑧ 棺が保管されている部屋。皇帝時代の棺を模したもので、誰のものかはわからない。

▼宮殿の地下⑨ 宮殿の構造の説明パネル

▼宮殿の地下⑩ ワインやオリーブオイル造りの道具

▼宮殿の地下⑪ 1,700年前のローマ時代の木の柱が保存されていた。

◆皇帝ディオクレティアヌスとその胸像
ガイウス・アウレリウス・ウァレリウス・ディオクレティアヌス(244年12月22日 - 311年12月3日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:284年 - 305年)で、軍人皇帝時代を収拾し、ドミナートゥス(専制君主制)を創始し、テトラルキア(四分割統治、四分治制)を導入した。

属州イリリクムの生まれ。「ディオクレティアヌス」というのは皇帝になる際につけた名で、本来はディオクレス(Diocles)という。一兵卒から親衛隊長官にまで出世し、先帝ヌメリアヌスの死後、軍に推戴されて小アジア西北のニコメディアで即位し皇帝となった。

305年、彼は健康を崩したこともあって退位し、アドリア海に臨むサロナ近郊(現在のスプリト)にディオクレティアヌス宮殿を作って隠棲し、数年後にそこで亡くなった。古代の歴代ローマ皇帝の中で、引退した例は彼のほかにはほとんど存在しない(ただし、ローマ帝国がキリスト教化されて以降は、修道院へ引退という例が多くなる)。















