アルメニア (19) エレヴァンのカスケードのある公園
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アルメニア 2011年5月5日(木) <コーカサス3ヶ国の旅> 7日目
【アルメニアの首都エレヴァンとその近郊】
①アルメニアの母の像の展望台 ②マテナダラン (古文書館)
③ガルニ村でパン作り見学と焼きマスの昼食 ④ガルニ神殿 ⑤アザト渓谷
⑥世界遺産ゲガルド修道院 ⑦エレヴァン市内
▼エレヴァン市内

◆◆今日からアルメニアの首都エレヴァンの観光が始まる。まずはアルメニアの母の像が立つ展望台を訪問。展望台からエレヴァンの街並みを眺める。
続いて、マテナダラン (古文書保管所)を1時間程見学。
次にエレヴァンの南東約30kmの所にあるガルニ村に向かう。その村の農家セルゲイさんのお宅で、窯で焼く生地の薄いアルメニア・パンの作り方を見学。そのあと特製ソースで焼いたマスのグリルの昼食
ガルニ村の女性たちのバザール見学のあと、バスで5分ほど走り、ガルニ神殿へ。
“太陽の神殿”ガルニ神殿を見学したあと、
ガルニ村からさらに6km走り、アザト川の上流のアザト渓谷に囲まれた標高1750mの世界遺産ゲガルド修道院に到着。
ゲガルドとは「槍」を意味し、キリストが十字架に架けられた時に使用された槍がこの地から発見されたとされている。
ゲガルド修道院観光のあと、エレヴァン市内に戻る。まず、カスケードという階段状の公園に立ち寄る。

◆◇◆エレヴァン
エレバン(Երևան, Yerevan)はアルメニア共和国の首都。エリバン(Erivan)、エレブニ(Erebuni)、エレウン(Ereun)と呼ばれていたこともある。人口約106万人(2004年)。機械製造や金属業、ワイン、ブランデー製造、たばこ製造業が盛ん。フラズダン川が市内を流れる。南にアララト山を臨む。現存する世界最古の町のひとつである。

紀元前8世紀ごろにはすでにウラルトゥのエレブニ要塞がアルギシュティ1世によって、北カフカースからの攻撃に備え、この地に築かれていた。紀元前4世紀までにはアケメネス朝のアルメニア・サトラップの主要な町になっていた。ヨーロッパと中央アジア、インドを結ぶ交易路の中継地であったため、658年、アラブによって征服される。その後、アルメニア人のバグラト朝の中枢として栄える。1387年、ティムールによる包囲、略奪に遭う。イルハン朝の中心都市の一つともなる。

以後、オスマン帝国とサファヴィー朝の角逐の場となっていく。1604年にはアッバース1世の命により、多くの市民がペルシアに連れ去られた。1679年には大地震に見舞われた。サファヴィー朝では、エレバン・ハン国に編入される。1827年、第二次イラン・ロシア戦争においてロシア帝国がガージャール朝を撃破し、1828年のトルコマンチャーイ条約でロシア領となった。その後、エラバンには多くのアルメニア人がペルシアから帰還してくる。1854年以降、都市計画がなされ、多くの大学が設立され、ギュムリやトビリシ、アゼルバイジャン方面への鉄道建設がなされた。

ロシア帝国が崩壊すると、1918年、ザカフカジエ(南カフカース)は、ザカフカース民主主義連邦共和国として独立を宣言するもすぐに瓦解、アルメニア民主共和国として独立を宣言しエレバンは首都となった。1920年、ボリシェヴィキの赤軍との間にエレバン争奪戦が展開され、結局、赤軍の手に落ちた。ソビエト社会主義共和国連邦を構成する共和国の一つとして、アルメニア・ソビエト社会主義共和国が誕生し、その首都となる。エレバンはアルメニア人建築家アレクサンダー・タマニアンの都市計画に基づき、近代都市への作り変えられていった。1965年、アルメニア人虐殺50周年を巡るエレバンでの抗議運動は、ソ連における最初の大規模な反ソ運動へと発展した。
1991年9月21日、アルメニア共和国が独立を宣言。エレバンは首都となった。
◆◆カスケードのある公園
カスカードはソビエト・アルメニア成立50周年記念碑とそれに連なる階段状のモニュメントである。下から見ると丘の斜面を利用して階段状に巨大な施設が連なっている。
▼カスケードのある公園①

▼カスケードのある公園②

▼カスケードのある公園③

▼カスケードのある公園④

▼カスケードのある公園⑤

▼カスケードのある公園⑥

▼カスケードのある公園⑦

▼カスケードのある公園⑧

▼カスケードのある公園⑨

▼カスケードのある公園⑩

▼カスケードのある公園⑪













