空海(弘法大師)所縁の地、太宰府の観世音寺を訪問。
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まずは都市高速で太宰府へ。
鎮国寺つながりで空海(弘法大師)所縁の地、観世音寺(かんぜおんじ)を訪問。
空海は31歳の時に遣唐船で「唐」に渡り直に密教を学ぶことを決意する。留学僧として空海は804年に最澄と共に遣唐船で入唐。空海(私費留学生)は最澄(国費留学生)と違い、格下の僧であり、本当は20年間帰国することは許されなかったが、入唐から僅か2年数ヶ月後に空海は帰国した。
唐の首都長安(西安)において、青龍寺の恵果阿闍梨から真言の秘法を授かり、大同元年(806)に帰朝した空海は、まず宗像大社に礼参。その時、屏風山に瑞雲が棚引くのを観て、奥の院岩窟において修法を始められたところ、「この地こそは鎮護国家の根本道場たるべき霊地」とのお告げをこうむり、一宇を建立し、屏風山 鎮国寺と号された。
そのあと九州・大宰府に帰着した空海だが、高階遠成や橘逸勢らと違い、当然ながら朝廷から帰京の許しが出なかった。その間、数か月から1年半滞在したのが、この観世音寺といわれている。
空海については、「エンサイクロメディア空海」が詳しく研究・解説している。
観世音寺散策のあと、山奥の薬王寺温泉へ
◆◆観世音寺
観世音寺は天智天皇が母の斉明天皇の冥福を祈り、80年の歳月をかけて天平18年(746)に建立した勅願寺。勅願寺とは、時の天皇・上皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された祈願寺のこと。

観世音寺は天平の創建時には七堂伽藍を配した大寺院だったそうだ。
大宰府政庁域の東に接して創建されていたので「府大寺」と称されており、天平宝字5年(761)には境内に戒壇院が置かれ、西日本随一の寺院と言われていました。

現在は江戸時代初めに再建された講堂(本堂)と金堂(阿弥陀堂)のみが残るだけ。境内にある梵鐘(ぼんしょう)は、西暦681年に筑前国糟屋郡多々良で鋳造された日本最古の梵鐘で国宝になっている。また、大きさ形状がそっくりの京都・妙心寺の梵鐘と兄弟鐘といわれており、この梵鐘の音は「日本音百景」のひとつにもなっている。

鐘楼の裏手には「観世音寺宝蔵」があり平安時代から鎌倉時代にかけての仏像13体(すべて重要文化財)などが展示されている。

◆観世音寺講堂(本堂)
天智天皇が80年の歳月をかけて天平18年(746)に建立された観世音寺の講堂(本堂)
▼観世音寺講堂(本堂)①

▼観世音寺講堂(本堂)②

▼観世音寺講堂(本堂)③

▼観世音寺講堂(本堂)④

▼観世音寺講堂(本堂)⑤

◆金堂(阿弥陀堂)


◆日本最古の梵鐘(国宝)



◆観世音寺宝蔵
平安時代から鎌倉時代にかけての仏像13体(すべて重要文化財)などが展示されている。


▼観世音寺境内の風景①

▼観世音寺境内の風景②

▼観世音寺境内の風景③

▼観世音寺境内の風景④

▼観世音寺境内の風景⑤













