高千穂 【四皇子峰・高天原遥拝所】と【槵觸神社】
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前日の夜は、稲佐山の展望台から長崎の夜景を鑑賞。
この日は稲佐山のホテル「アマンディ」のレストランで朝食のあと、
長崎から宮崎の「神話の里」高千穂へ出発。
午後2時頃到着し、まずは遊歩道を歩き、高千穂峡散策へ
1時間ほど高千穂峡を満喫したあと、天岩戸神社を参拝。
宮司さんの案内で天岩戸神社の拝殿の背後の拝観所から「天岩戸」を遥拝した。
そのあと天安河原を散策。
次に荒立神社を参拝。そのあと高天原遥拝所と四皇子峰を散策した。
次に天孫降臨の地として伝えられる槵觸の峯にある槵觸神社(くしふるじんじゃ)を参拝。
最後に夕暮れ迫る高千穂神社を参拝した。


▼槵觸の峯周辺神話史跡マップ (クリックで拡大)


◆◇◆四皇子峰
神武天皇の兄弟神(四皇子)誕生の地と伝えられ、御陵がある。彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)の御子鵜鵝草葦不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)は玉依姫(タマヨリヒメ)と結婚されて、神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレビコノミコト)を含めた四皇子がお生まれになっている。
日本建国神話では、皇室の祖・神武天皇は、この地で神日本磐余彦尊としてお生まれになり、後(45歳の時)に日向から大和に進軍され、橿原宮で初代天皇に即位されたと伝えられる。

▼四皇子峰の御陵

▼四皇子峰の石碑

◆◇◆高天原遥拝所
槵觸神社(くしふるじんじゃ)の南に連なる小高い丘で、天孫降臨後、諸神がこの丘に立って高天原を遥拝した所と伝えられる。
中腹には、奈良時代から皇祖発祥の地と伝承された厳然たる事実を立証するため、風土記、万葉の古歌を刻した「高千穂碑」がある。
【大伴家持と高千穂】
万葉集に高千穂という名が登場する、大伴家持の「族うがらを喩さとす歌」という長歌。
ひさかたの、天の門開き、高千穂の、岳たけに天降あもりし、皇祖すめろきの、神の御代みよより、はじ弓を、手た握り持たし、真鹿子矢まかごやを、
手挟たばさみ添へて、大久米おほくめの、ますらたけをを、先に立て、靫ゆき取り負ほせ、山川を、岩根さくみて、踏み通り、国求まぎしつ、
ちはやぶる、神を言こと向け、まつろはぬ、人をも和し、掃き清め、仕へまつりて、蜻蛉島あきづしま、大和の国の、橿原の、畝傍の宮に、
宮柱、太ふと知り立てて、天の下、知らしめしける、天皇すめろきの、天の日継ひつぎと、継ぎてくる、君の御代御代、隠さはぬ、明あかき心を、
すめらへに、極め尽して、仕へくる、祖おやの官つかさと、言こと立てて、授けたまへる、子孫うみのこの、いや継ぎ継ぎに、見る人の、語り継ぎて、
聞く人の、鏡にせむを、惜あたらしき、清きその名ぞ、おぼろかに、心思ひて、空言むなことも、祖おやの名絶つな、大伴の、氏うぢと名に負へる、
大夫ますらをの伴とも 巻20-4465
▼高天原遥拝所への道①

▼高天原遥拝所への道②

▼高天原遥拝所への道③

▼高天原遥拝所への道④

▼高天原遥拝所への道⑤

◆◇◆高天原遥拝所

▼高天原遥拝所①

▼高天原遥拝所②

▼高天原遥拝所③

◆高天原遥拝所からの帰り道


◆◇◆槵觸神社(くしふるじんじゃ)
古事記に迩迩芸命(ニニギノミコト)が降り立った所を「筑紫(九州)の日向の高千穂のくじふる峰」と記され、その場所と考えられている「くしふる峰」の中腹にある神社。
天照大御神の孫、迩迩芸命(ニニギノミコト)が地上へ降り立った(降臨)の地として伝えられている。
祭神は迩迩芸命(ニニギノミコト)、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)、経津主命(フツヌシノミコト)、天太玉命(アマノフトダマノミコト) 武甕槌命(タケミカヅチノミコト)等
神社創建は不詳、はじめは社殿もなく山そのものをご神体として祀り、高千穂八十八社のひとつに数えられていた。
1694(元禄7年)当時の延岡藩主や村人たちの厚い信仰によって社殿が建てられた。
【日向国風土記逸文での「天孫降臨」】
「日向の国の風土記に曰はく、臼杵の郡の内、知鋪(=高千穂)の郷。瓊々杵尊(ニニギノミコト)、天の岩座を離れ、天の八重雲を排けて、稜威の道別き道別きて日向の高千穂の二上の峯に天降りましき。
時に天暗冥く、夜昼別らず、人物道を失ひ、物の色別き難たかりき。ここに、土蜘蛛、名を大くわ、小くわと曰うもの二人ありて、奏言ししく、「皇孫の尊、尊の御手似ちて、稲千穂を抜きて籾と偽して、四方に投げ散らしたまはば、必ず開晴りなむ」まをしき。
時に、大くわ等の奏ししが如、千穂の稲を搓みて籾と偽して、投げ散らしたまひければ、即ち、天開晴り、日月照り光きき。困りて高千穂の二上の峯と日ひき。後の人、改めて智鋪と號く。」 / 秋本吉郎校注「日本古典文学大系2風土記」
【記紀にみる天孫降臨(日向神話)】
天孫降臨は天照大御神(アマテラスオオミカミ)の命令で孫の迩迩芸命(ニニギノミコト)を地上の国へとつわかし、天孫による支配を確立するきっかけとなった。迩迩芸命(ニニギノミコト)が降り立った所を、
古事記では
「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降ります」
日本書紀 には五種の説が併記
「日向の襲(そ)の高千穂の峯(みね)」
「筑紫(つくし)の日向(ひゅうが)の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)」
「筑紫の日向の高千穂の串触之峯(くじふるのみね)」
「日向の襲之高千穂の串日二上峯(くしびふたかみのみね)」
「日向の襲之高千穂の添(そはり)の山峯」
天孫降臨の地は、西臼杵郡高千穂町と、鹿児島県との県境に位置する霧島の高千穂峰(高原町)の二説がある。


▼槵觸神社の鳥居

▼槵觸神社への道①

▼槵觸神社への道②

▼槵觸神社への道③

▼槵觸神社への道④

▼槵觸神社への道⑤

▼槵觸神社への道⑥

◆◆槵觸神社(くしふるじんじゃ)・拝殿
本来は槵触山そのものを神体とするが、
現在は本殿を構えて天津日子番邇々杵命(アマツヒコホノニニギノミコト)を主祭神として祀っている。
▼槵觸神社・拝殿①

▼槵觸神社・拝殿②

▼槵觸神社・拝殿③













