日本神話の旅 【出雲大社】
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21日はいわみ温泉泊、
22日は午前中に石見銀山、午後から出雲大社と島根県立古代出雲歴史博物館、出雲泊、
23日は午前中に出雲大社、日御崎神社を参拝、午後から須佐神社を参拝。
◆◇◆出雲大社
『出雲大社』は、日本最古の歴史書といわれる「古事記」にその創建が記されているほどの古社で、明治時代初期まで杵築大社と呼ばれていた。
主祭神は大国様として馴染みの深い『大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)』で、
「古事記」に記される国譲り神話には、大国主大神が高天原の天照大神(あまてらすおおみかみ)に国を譲り、その時に造営された天日隅宮(あまのひすみのみや)が出雲大社の始まりといわれている。
◆『国譲り神話』
①『Wikipedia』・・・「葦原中国平定」
②『出雲観光ガイド』・・・「神話めぐりの国譲り」
出雲大社公式ホームページ
◆勢溜の大鳥居
勢溜(せいだまり)」は、かつて芝居小屋があって、多くの人が集まり、人の「勢い」が「溜まる」ことが名前の由来らしい。大鳥居が出雲大社神域の入口で、ここから先が神域となる。

▼出雲大社・参道① 右手遠くに祓社(はらいのやしろ)

▼出雲大社・参道② 祓橋(はらいのはし)と呼ばれる太鼓橋。

▼出雲大社・参道③ 樹齢数百年といわれる松並木

◆御柱御用
60年ぶりの出雲大社の「平成の大遷宮」の年にちなみ「巨木の柱立て」で、
東神苑に立てられた直径80cm、長さ17m、重さ約4tの3本の杉丸太の大柱

◆ムスビの御神像
大国主大神が若く修行中だったころ、日本海の荒波より『幸魂・奇魂(さきみたま・くしみたま)』(写真左の玉)が現れ、そのお蔭を頂いて神性を養われ『ムスビの大神』つまり“縁結びの神”になられたという意味を象徴している像
大国主大神が、生きとし生けるものすべてが幸福になる「縁」を結ぶ”えんむすびの神”と慕われる由「縁」の話。この像は昭和61年に寄贈されたもの。
▼大国主大神と幸魂・奇魂①

▼大国主大神と幸魂・奇魂②

▼大国主大神

◆大国主大神と因幡の白うさぎの像

【古事記(稲羽の素兎)(しろうさぎ)】
大穴牟遲神(おおむなぢのかみ=大国主神のこと)の兄弟(八十神)たちは、稲羽の八神上売(やがみひめ)に求婚したいと思ったため、国を大国主に譲ってしまった。稲羽(いなば)に出掛けた時、八十神は大穴牟遲神(おおむなぢのかみ)に袋を持たせ、従者のように引き連れた。
「気多(けた)の前」に来たとき、裸の兎(あかはだのうさぎ)が伏せっていた。兎は、八十神に「海塩を浴び、山の頂で、強い風と日光にあたって、横になっていることだ」と教えられた通りに伏せていたが、海塩が乾くにつれ、体中の皮がことごとく裂けてきて、痛みに苦しんで泣いていると、最後に現れた大穴牟遲神が「なぜ泣いているの」と聞いた。
菟は「私は隠岐の島からこの地に渡ろうと思ったが、渡る手段がありませんでした。そこで、ワニザメ(和邇)を欺いて、『私とあなたたち一族とを比べて、どちらが同族が多いか数えよう。できるだけ同族を集めてきて、この島から気多の前まで並んでおくれ。私がその上を踏んで走りながら数えて渡ろう』と誘いました。すると、欺かれてワニザメは列をなし、私はその上を踏んで数えるふりをしながら渡ってきて、今にも地に下りようとしたときに、私は『お前たちは欺されたのさ』と言いました。すると最後のワニザメは、たちまち私を捕えてすっかり毛を剥いでしまいました。それを泣き憂いていたところ、先に行った八十神たちが『海で塩水を浴びて、風に当たって伏していなさい』と教えたので、そうしたところ、この身はたちまち傷ついてしまったのです」といった。そこで、大穴牟遲神が兎に「今すぐ水門へ行き、真水で体を洗い、その水門の蒲(がま)の穂をとって敷き散らして、その上を転がって花粉をつければ、膚はもとのように戻り、必ず癒えるだろう」と教えたので、そうすると、その体は回復した。これが、稲羽の素兎(しろうさぎ)である。

その兎は「八十神は八上比賣(やがみひめ)を絶対に得ることはできません」と大穴牟遲神に言った。そのとおり、八上比賣(やがみひめ)は八十神に「あなたたちの言うことは聞かない」とはねつけ、大穴牟遲神に「袋を背負われるあなた様が、私を自分のものにしてください」と言ったため、今では兎神とされる。
◆銅鳥居
出雲大社の神域の荒垣正門に立つ。
この碧銅の鳥居は、寛文六(1666)年六月毛利輝元の孫綱広の寄進になるもの。

▼出雲大社・境内案内地図 (出雲大社HPより拝借)

◆◆出雲大社拝殿
【出雲大社拝殿】
旧拝殿は1519年(永正16年)尼子経久の寄進したもの。
昭和28年5月に、荒垣内にあった古い拝殿・鑽火殿(さんかでん)・庁舎(ちょうのや)が不慮の火のために焼亡してしまった。ただちに高松宮宣仁親王を総裁にいただき、全国の崇敬者の方々の浄財によって、6年後の昭和34年に総工費1億1千万円をかけ、戦後の本格的な木造建築として屈指の規模を誇る新拝殿が竣功した。
設計は、神社建築学の権威である福山敏男博士で、大社造と切妻造の折衷した様式となっている。
屋根は銅版だが、木曾檜材の木造建築で、建坪485㎡(約147坪)、高さ12.9m。

拝殿宇豆柱の礎石は、愛知県の岡崎石(重量13トン)が運ばれ、工事請負は、桃山時代から長く棟梁の家として続いた伊藤平左衛門氏があたられ、拝殿の錺金具も美術的にも価値あるものをとの考えから、東京芸術大学の山脇洋三・若林作司両教授が設計。
出雲大社では「二拝四拍手一拝」の作法で拝礼する。
拝殿に向かってかしわ手を4回打ち良縁や健康を祈願する。
▼拝殿
拝殿は、昭和34年(1959)に建てられた、大社造と切妻造を併せた社殿

▼拝殿と国旗

▼拝殿と注連縄
拝殿の注連縄は太さ3m、長さ8m、重さ1.5t

◆八足門
八足門(やつあしもん)は拝殿の後部の石段上にある本殿前の門で、一般の参拝では八足門より中へ入ることができないので、ここで本殿に向かって拝むことになる。
正月5日までに限り門が開かれ、一般参拝者は桜門前まで進む事が出来る。
桁行3間、梁間2間の妻破風造りの檜皮葺き東西の回廊が連なり、本殿を取り巻いている。
また、この門の蛙股などへの装飾彫刻は左甚五郎の作と伝えられている。
瑞獣(ずいじゅう)と、流水文(りゅうすいもん)などとても美しい彫刻がなされている。
これらの建築は寛文七年(1667年)の造営。
▼八足門①

▼八足門②

▼八足門③

▼八足門④

▼八足門⑤ 神紋(二重亀甲に剣花角)

▼八足門⑥

◆◆御本殿
【出雲大社・御本殿】
大国主大神が祀られている本殿は延享の造営(1744)で建立されたもので、大社造で国宝に指定されている。玉垣、瑞垣(廻廊)、荒垣の三重の垣根に厳重に守護されている。
神社建築の中では日本一を誇り、高さは約24m、厚い桧皮葺きの屋根の棟の上には長さ7.9mの二組の千木が交差している。
本殿に祀られる御神体は西向きで稲佐の浜の方角を向いておられ、本殿の正面から参拝すると、神様の横顔を拝んでいる事になる。
本殿内北西には御客座五神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、宇摩志阿斯訶備比古遅神、天之常立神)が祀られている。大国主大神の御神座は本殿内北東にあり、正面である南側ではなく西側を向いている。 これは本殿が古代の高床式住居とほぼ同じ構造になっているため、高床式住居における入口と最上席の配置と向きの関係から、御神座は西側を向くことになるためと考えられる。天井には7つの雲の絵が描かれている。現在の本殿は1744年(延享元年)に作られた。高さは8丈(およそ24m)で、これも神社としては破格の大きさであるが、かつての本殿は現在よりもはるかに高く、中古には16丈(48m)、上古には32丈(およそ96m)であったと伝えられる。
▼出雲大社本殿①

▼出雲大社本殿②

▼出雲大社本殿③

▼出雲大社本殿④

▼出雲大社本殿⑤

▼出雲大社本殿⑥

▼出雲大社本殿⑦

▼瑞垣(廻廊)①
本殿は、内側から玉垣、瑞垣(廻廊)、荒垣の三重の垣根に厳重に守護されている。

▼瑞垣(廻廊)②

◆東十九社
延享五年二月に造営され、出雲大社神在祭の期間、全国の神々がお泊りになる社。
この社は、荒垣内で本殿の東西に相対する社で、それぞれ十九の扉がついている。
旧暦十月十日の夕刻、出雲大社西方の稲佐の浜で全国の神々をお迎えして (神迎祭)から翌日11日から17日までの一週間(神在祭)は、この社の全ての扉が開かれる。通常は遥拝所
▼東十九社①

▼東十九社②

▼東十九社③ 屋根の苔

◆釜社(かまのやしろ) -- 素戔嗚尊の孫の宇迦之魂神を祀る。宇迦之魂神は食物を守る神様。
このあたり一帯の北山山地を宇迦山(うがやま)とも呼び、「宇迦」とは穀物を意味する古語といわれている。
素戔社(そがのやしろ)が修復中のため、現在は素戔社御仮殿となっている。



◆素戔社(そがのやしろ)
素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祀る。
本殿の真後ろ、八雲山との間に唯一鎮座する社。式内社。


【素戔嗚尊(スサノオノミコト)】
『古事記』の記述によれば、神産みにおいて伊弉諾尊(伊邪那岐命・いざなぎ)が黄泉の国から帰還し、日向の橘の小戸の阿波岐原で禊を行った際、鼻を濯いだ時に産まれたとする。
『日本書紀』では伊弉諾尊と伊弉冉尊 (伊邪那美命・いざなみ)の間に産まれた三貴子の末子に当たる。その与えられた役割は、太陽を神格化した天照大神(あまてらす)、月を神格化した月夜見尊(月読命、つくよみ)とは少々異なっているため、議論の的となっている。 統治領域は文献によって異なり、三貴神のうち天照大神は高天原であるが、月夜見尊は滄海原(あおのうなばら)または夜を、素戔嗚尊には夜の食国(よるのおすくに)または海原を治めるように言われたとある。
『古事記』によれば、建速須佐之男命はそれを断り、母神伊邪那美のいる根之堅洲国に行きたいと願い、伊邪那岐の怒りを買って追放されてしまう。そこで建速須佐之男命は根の国へ向う前に姉の天照大神に別れの挨拶をしようと高天原へ上るが、天照大神は彼が高天原に攻め入って来たのではと考えて武装して彼に応対し、彼は疑いを解くために誓約を行う。
誓約によって潔白であることが証明されたとして建速須佐之男命は高天原に滞在するが、そこで粗暴な行為をしたので、天照大神は天の岩屋に隠れてしまった。そのため、彼は高天原を追放された(神逐)。
出雲の鳥髪山(現在の船通山)へ降った建速須佐之男命は、
その地を荒らしていた巨大な怪物八岐大蛇(八俣遠呂智)への生贄にされそうになっていた少女櫛名田比売(奇稲田姫・くしなだひめ)と出会う。
建速須佐之男命は、櫛名田比売の姿形を歯の多い櫛に変えて髪に挿し、八俣遠呂智を退治する。そして八俣遠呂智の尾から出てきた天叢雲剣を天照御大神に献上したその後、櫛から元に戻した櫛名田比売を妻として、出雲の根之堅洲国にある須賀(すが)の地(島根県安来市)へ行きそこに留まった。
そこで、
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を」
と詠んだ。これは日本初の和歌とされる。
また、ここから「八雲」は出雲を象徴する言葉ともなった。
『日本書記』では、その地で大国主命などを産ませたとされる。
『古事記』では大国主命は彼の6代後の子孫としている。
※出雲族の祖とされるスサノオが出雲に天降ったのは、天孫族の祖ニニギが九州に天降るよりも前であった。
そして、出雲族が国を造ったあと、天孫族はその国を譲り受けている。
▼彰古館の展示物
狩野時信奉納の「熊野大神(素戔嗚尊)神像」

◆◆彰古館
境内北西の隅にある木造二階建ての建物。1階には大国様、恵比寿様の像が展示されていて、2階には出雲大社の信仰に関する資料が展示されている。


▼彰古館内の出雲大社境内模型

◆西十九社
延享五年二月に造営され、出雲大社神在祭の期間、全国の神々がお泊りになる社。
この社は、荒垣内で本殿の東西に相対する社で、それぞれ十九の扉がついている。
旧暦十月十日の夕刻、出雲大社西方の稲佐の浜で全国の神々をお迎えして (神迎祭)から翌日11日から17日までの一週間(神在祭)は、この社の全ての扉が開かれる。通常は遥拝所
▼西十九社①

▼西十九社②

▼西十九社③

▼出雲大社の絵馬

◆◆神楽殿と大注連縄
拝殿の西側、荒垣外に位置する神楽殿(かぐらでん)は明治12年の出雲大社教創始の際に、本殿とは別に大国主大神を祀ったことに由来する。
正面破風下に張られた長さ13m、周囲9m、重さ5tの大注連縄は日本最大級である。
◆神楽殿大注連縄奉納の記事
◆「神楽殿」を飾る『大注連縄』取り付けのクライマックス
▼神楽殿と大注連縄①

▼神楽殿と大注連縄②

▼神楽殿と大注連縄③

▼神楽殿と大注連縄④

▼神楽殿と大注連縄⑤

▼神楽殿と大注連縄⑥

◆宮地嶽神社の大注連縄
参考までに、約1600年前。第14代仲哀天皇の后で応神天皇の母である神功皇后(じんぐうこうごう)が、三韓征伐の前にこの地に滞在し、宮地岳の頂に祭壇を設け祈願して船出したのが始まりといわれる福岡県の宮地嶽神社。その直径2.5m、長さ13.5m、重さ5トンの大注連縄も日本最大級である。

◆神馬・神牛像
▼神馬像

▼神牛像

▼出雲大社の神苑を流れる素鵞(そが)川沿いの紅葉
素鵞川沿では、6月下旬から7月下旬にかけて、「ゲンジボタル」「ヘイケボタル」「ヒメボタル」の3種類のホタルを見る事ができるらしい。


▼大菊花展の菊


▼出雲そば

▼出雲のぜんざい

▼出雲のそば定食(朝食)

◆◆島根県立古代出雲歴史博物館
島根県立古代出雲歴史博物館は、2007年3月10日に出雲大社の東隣に開館。
主に出雲大社を中心とした古代出雲についての展示を行っており、荒神谷遺跡より出土した国宝を含む銅剣358本・銅矛全点、加茂岩倉遺跡より出土した国宝の銅鐸全点が公開されている。
常設展と企画展(山陰の黎明--縄文のムラと暮らし--)の両方を鑑賞した。


















