【大嶽神社】 阿曇連の祖の大濱宿禰を祀る。
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志賀海神社の摂社の1つの大嶽神社は
志賀の島の近くの福岡市東区大岳の丘陵の上に鎮座している。自宅からも歩いていけるほど近い。
その大嶽神社には阿曇連の祖の大濱宿禰が祀られている。
大濱宿禰は応神天皇三年に各地の海人(漁民)の族が異なる言葉で騒乱を起こし「命」にしたがわなかったのを鎮めたという。以後海人の統率者となった。阿曇氏が海部(あまべ)の伴造(とものみやつこ)となった由来とされる。 『日本書記』
※応神天皇(15代天皇)は神功皇后の三韓征伐の帰途に宇瀰(うみ、福岡県糟屋郡宇美町)で生まれたとされる。
博多湾の入口にある志賀の島は 海人の安曇族の根拠地として また AD57年に 後漢の光武帝から授かった「漢委(倭)奴國王」(カンノワノナノコクオウ)と彫られた金印が出土した地として知られている。


その志賀の島に鎮座する志賀海神社は綿津見三神を祭り、古来より海の守護神として信仰されてきた。
海上交通の要所である玄海灘を臨む博多湾の入口に鎮座し、海人部の伴造として著名な阿曇族に奉祀された。大同元年(806)には阿曇神に神封八戸が与えられ、貞観元年(859)には志賀海神に従五位上、また元慶4年(880)には賀津万神(志賀島勝馬の祭神)に従五位下の神階が授けられている。
その海人部の伴造として著名な阿曇族の祖が大濱宿禰である。
◆◇◆阿曇族(阿曇氏)(あづみぞく、あづみし)◆◇◆
阿曇族(阿曇氏)は海神である綿津見命を祖とする地祇系氏族。
古代日本を代表する海人族として知られる有力氏族で、発祥地は筑前国糟屋郡阿曇郷(現在の福岡市東部)とされる。古くから中国や朝鮮半島とも交易などを通じて関連があったとされ、後に最初の本拠地である北部九州の福岡志賀島一帯から離れて全国に移住した。
この移住の原因として、磐井の乱や白村江の戦いでの安曇比羅夫の戦死が関係しているとの説がある。
安曇は海人津見(あまつみ)が転訛したものとされ、津見(つみ)は「住み」を意味する古語とする説もあり、その説だと安曇族はそのまま「海に住む人」を示す。
記紀に登場し、「日本書紀」の応神天皇の項に「海人の宗に任じられた」と記され、「古事記」では「阿曇連はその綿津見神の子、宇都志日金柝命の子孫なり」と記されている。
律令制の下で、宮内省に属する内膳司(天皇の食事の調理を司る)の長官(相当官位は正六位上)を務める。これは、古来より神に供される御贄(おにえ)には海産物が主に供えられた為、海人系氏族の役割とされたことに由来する。
安曇族が移住した地とされる場所は、阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積・泉・熱海・飽海などの地名として残されており、安曇が語源とされる地名は九州から瀬戸内海を経由し近畿に達し、更に三河国の渥美郡(渥美半島、古名は飽海郡)や飽海川(あくみがわ、豊川の古名)、伊豆半島の熱海、最北端となる飽海郡(あくみぐん)は出羽国北部(山形県)に達する。この他に「志賀」や「滋賀」を志賀島由来の地名として、安曇族との関連を指摘する説がある。
また海辺に限らず、川を遡って内陸部の安曇野にも名を残し、標高3190mの奥穂高岳山頂に嶺宮のある穂高神社はこの地の安曇氏が祖神を祀った古社で、中殿(主祭神)に「穂高見命」、左殿に「綿津見命」など海神を祀っている。内陸にあるにもかかわらず例大祭(御船神事)は大きな船形の山車が登場する。志賀島から全国に散った後の一族の本拠地は、この信濃国の安曇郡(長野県安曇野市)とされる。
大嶽神社は古墳時代(4世紀~7世紀)には、もうこの地に祀られていたという。
大嶽神社と対をなして、
県道をはさんだ志賀中学校の裏手に小嶽神社もあり、祭神は阿曇小濱宿禰だそうだ。
【志賀海神社の摂社】
沖津宮(表津綿津見神・天御中主神)、仲津宮(仲津綿津見神)
今宮神社(宇都志日金析命・住吉三神・阿曇磯良丸をはじめ神孫阿曇諸神)
弘天神社(伊邪那岐神、伊邪那美神)
大嶽神社(志那都比古神・志那都比売神・保食神・大濱宿禰)
▼一の鳥居

▼参道と鳥居①

▼参道と鳥居②

▼大嶽神社の階段①

▼大嶽神社の階段②

▼この「大嶽神社の階段登りダッシュ」でホークスの松田選手や中村選手などが自主トレで足腰を鍛えているという。噂によるとあの柔道のヤワラちゃんもこの階段ダッシュで鍛えていたらしい。 ・・・写真は「nikkansports.com/」より借用しました。

▼最上段にある白い鳥居は石で出来ていて、明治32年の建立という。2005年(平成17年)3月20日の福岡西方沖地震(最大震度6弱)で損壊したが、現在は修復されている。

▼境内が見えてきました。

◆◆大嶽神社・社殿と祭神
【大嶽神社の御祭神】
志那都比古(シナツヒコ)、志那都比売(シナツヒメ)、保食神(ウケモチノカミ)の三神と
阿曇・大浜宿禰(あずみ・おおはますくね)を志賀宮の末社として合祀している。
◆男女一対の風の神
志那都比古(シナツヒコ)と志那都比売(シナツヒメ)
志那都比古(シナツヒコ)は、日本神話に登場する神である。
『古事記』では志那都比古神(しなつひこのかみ)、『日本書紀』では級長津彦命(しなつひこのみこと)と表記され、神社の祭神としては志那都彦神などとも書かれる。
『古事記』では、神産みにおいてイザナギとイザナミの間に生まれた神であり、風の神であるとしている。
『日本書紀』では神産みの第六の一書で、イザナミが朝霧を吹き払った息から級長戸辺命(しなとべのみこと)またの名を級長津彦命という神が生まれ、これは風の神であると記述している。
シナトベは、神社の祭神としては志那戸辨命などとも書かれる。

神名の「シナ」は「息が長い」という意味である。古代人は、風は神の息から起きると考えていた。風は稲作に欠かせないものであるが、台風などの暴風は人に大きな被害をもたらす。そのため、各地で暴風を鎮めるために風の神が祀られるようになった。

『日本書紀』のシナトベは女神とされることもあり、神社によってはシナツヒコの姉または妻とされている。
本居宣長の『古事記伝』では、賀茂真淵の説として、本来は男女一対の神であり、それが同一の神とされるようになったとしている。龍田大社(奈良県生駒郡)の祭神は天御柱命・国御柱命であるが、社伝や祝詞では天御柱命は志那都比古神、国御柱命は志那都比売神(しなつひめのかみ)のこととしている。
男女一対の風の神である志那都比古神は男神、志那都比売神は女神である。
伊勢神宮には内宮の別宮に風日祈宮(かざひのみのみや)、外宮の別宮に風宮があり、どちらも級長津彦命と級長戸辺命を祀っている。風日祈宮は元々「風神社」と呼ばれていたが、元寇の際に神風を吹かせたのは風神社の神であるとされたことから、「風日祈宮」の宮号が宣下された。
▼大嶽神社・社殿

▼「正一位・大嶽神社」の扁額

▼「千人詣記念」の額

◆稲荷神の保食神(ウケモチノカミ)
保食神(うけもちのかみ)は、『古事記』には登場せず、『日本書紀』の神産みの段の第十一の一書にのみ登場する。一般には女神と考えられている。
【『日本書記』での記述】
『天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。
天照大神が保食神の所に天熊人(アメノクマヒト)を遣すと、保食神は死んでいた。保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。』
この説話は食物起源神話であり、東南アジアを中心に世界各地に見られるハイヌウェレ神話型の説話である。
『古事記』では同様の説話がスサノオとオオゲツヒメの話となっている。
よって、保食神(ウケモチノカミ)はオオゲツヒメと同一神とされることもある。
また、同じ食物神である宇迦之御魂神とも同一視され、宇迦之御魂神に代わって稲荷神社に祀られていることもある。
神名のウケは豊受大神の「ウケ」、宇迦之御魂神の「ウカ」と同源で、食物の意味である。
食物神というだけでなく、「頭から牛馬が生まれた」ということから牛や馬の神ともされる。
東日本に多い駒形神社では、馬の神として保食神が祀られており、さらに「頭から馬」ということで馬頭観音とも同一視されている。
▼稲荷神社も兼ねる大嶽神社

▼稲荷神の眷族(お使い)の白狐=“びゃっこ”さん①

▼稲荷神の眷族(お使い)の白狐=“びゃっこ”さん②

▼岩の上の「正一位稲荷宮」の石碑

▼境内の祠、右は「山の神」

▼境内の祠

▼新しい手水舎

◆神社の裏の風景
神社の裏には磐座(いわくら)と思われる巨岩が・・・宗像三神の沖ノ島の盤座群もいつか見てみたくなった。

▼磐座(いわくら)と思われる巨岩①

▼磐座(いわくら)と思われる巨岩②

▼磐座(いわくら)と思われる巨岩③

▼磐座(いわくら)と思われる巨岩④ 岩の上には祠

▼木々の間から望めた日本海・・・・奈多の“吹上浜”













