【岡湊神社】 仲哀天皇所縁の「大倉主命」と「菟夫羅媛命」を祀る
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「産まれた土地」の守り神である産土神社(うぶすなじんじゃ)としての「岡湊神社」
「岡湊」は「おかのみなと」と読み、「日本書紀」には「崗之水門」として登場する芦屋の大変古い呼称であり、実に1800年の歴史を誇り、「古事記」にもその記載がある。
御祭神は「日本書紀」に記されている「大倉主命」と「菟夫羅媛命」のほかに、相殿として「天照皇大御神」「神武天皇」「素盞雄命」とが祭られている。
境内にはたくさんの文化財がある。一対の石燈籠「式日献燈」は、芦屋が大規模な海運基地であったことを示す貴重な史料で、一対のうちひとつは芦屋の旅行商人(陶器商人)が、もうひとつを「伊万里陶器商人」が寄付しており、ここから堺、江戸へと積み出されていったという。
二の鳥居にある岡湊神社の扁額は、北白川内親王の書によるもので、文化財として大変貴重なものである。
また神社の縁起書は、江戸時代の儒学者、黒田藩医であった「養生訓」で有名な貝原益軒が書いたもので、そのほかにも芦屋の景観の素晴らしさを「岡湊十二景」として古文書に残している。 その景色の素晴らしさは、今もたくさん残っていて、火野葦平の随筆にも登場しているという。

【鎮座地】 福岡県遠賀郡芦屋町船頭町12-48

【御祭神】 [大倉社]
・大倉主命(おほくらぬしのみこと) ・菟夫羅媛命(つぶらひめのみこと)
[相殿]
・天照皇大御神(あまてらすすめおほみかみ)
[祇園社]
・素戔鳴尊(すさのをのみこと)
[神武天皇社]
・神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれひこのみこと)【神武天皇】

【御由緒】
岡湊神社は、古来より『日本書紀』に記されている「崗浦」(をかのうら/芦屋の古称)の大倉主命(おほくらぬしのみこと)・菟夫羅媛命(つぶらひめのみこと)の二柱のみを祀り「大倉社」と称されていたが、のちに祇園信仰の牛頭天王と集合した素戔鳴尊(すさのをのみこと)が合祀され「祇園大倉社」または「祇園宮寺」、「祇園社」とも称するようになったという。
『日本書紀』には、
仲哀天皇2年9月に、熊襲国を討つ事を決意した仲哀天皇は穴門豊浦宮(山口県)に遷宮した。
仲哀天皇8年(199年)1月4日、仲哀天皇が熊襲征伐の折に穴門から筑紫においでになる時、岡縣主にあたる熊鰐(くまわに)が、周芳沙麼之浦(すはのさばのうら)に出迎えにあがり海路を案内され、「山鹿岬」を経由して崗浦(をかのうら)【現:遠賀郡芦屋町の遠賀川の河口沖】に入ると、船が進まなくなったため「崗浦」の神、大倉主命と菟夫羅媛命に祈り、倭國菟田(やまとのくにのうだ)出身の船頭の伊賀彦(いがひこ)に祀らせると、船は再び進み始めたと伝えられている。
一方、神功皇后は別の船で洞海湾から入って行き、後にこの岡の津で天皇と合流した。
仲哀天皇(帯中日津子天皇)を「周芳沙麼之浦」で出迎え「崗浦」に導いたと伝えられる岡縣主熊鰐命は八幡西区の岡田神社にお祀りされている。
往古は神領、神宝も多かったが、天正14年(1586)薩摩の島津義弘軍が筑前に侵入、大友義鎮軍と交戦した際戦禍を蒙り社殿社宝等はことごとく焼失した。
翌15年豊臣秀吉の九州平定の後は神領も皆没収され祭儀も衰え30方(社家)も糊口困難のため念仏の徒となった。
正保2年(1645)6月神殿を再建し延宝6年(1678)2月筑前国主黒田光之公(三代)より社領6000坪(神の松原)を賜る。当時の代官花房源右衛門が国主に請願し社殿の修復、絶えていた祭儀の復興などに尽力したためようやく旧観に復した。
宝暦9年(1759)11月拝殿を改築文化5年(1808)11月にも修営した。神託によって得た翁面二個及び鈴一振がありこれを当社第一の宝物としている。
昭和4年(1929)3月中之浜、船頭町大火災により社殿も焼失し昔の面影を失ったが昭和9年に再建した。
昭和20年(1945)6月爆撃のため社殿を焼失した神武天皇社を合祀することになった。
昭和54年(1979)仲哀天皇勅祭記念1780年祭を斎行。
▼仲哀天皇勅祭記念祭の碑

◆岡湊神社の参道と境内

▼一の鳥居


▼二の鳥居と参道

▼北白川内親王の書による「扁額」

▼壱の阿形の狛犬

▼壱の吽形の狛犬

▼弐の阿形の狛犬

▼弐の吽形の狛犬

▼岡湊神社の参道と拝殿

▼参の阿形の狛犬

▼参の吽形の狛犬

▼手水舎

◆◆岡湊神社・拝殿
昭和4年(1929)船頭町の大火災により社殿も焼失したが、昭和9年に再建された。

▼岡湊神社の注連縄

▼岡湊神社の神紋

▼岡湊神社・「神額」

▼岡湊神社・拝殿①

▼岡湊神社・拝殿②

▼岡湊神社・拝殿③

▼神社の縁起書は、江戸時代の儒学者、黒田藩医で「養生訓」で有名な貝原益軒が書いたものという。

◆◆岡湊神社・御本殿
【御祭神】
[大倉社]
・大倉主命(おほくらぬしのみこと) ・菟夫羅媛命(つぶらひめのみこと)
▼岡湊神社・御本殿①

▼岡湊神社・御本殿②

▼岡湊神社・御本殿③

▼岡湊神社・御本殿④

▼岡湊神社・御本殿⑤

◆◇◆仲哀天皇
第14代天皇。日本武尊(ヤマトタケル)の二子。神功皇后の夫で、応神天皇の父とされる。
穴門の豊浦宮(山口県下関市長府宮の内町の忌宮神社が伝承地)、
筑紫の橿日宮(福岡県福岡市東区香椎の香椎宮が伝承地)にて統治された。
『日本書紀』によれば叔父の成務天皇に嗣子が無く、成務天皇48年3月1日に31歳で立太子。13年の皇太子期間を経て、仲哀天皇元年1月即位。白鳥となって天に昇った父日本武尊ヤマトタケル(景行天皇43年死去)をしのんで、諸国に白鳥を献じることを命じたが、異母弟の蘆髪蒲見別王が越国の献じた白鳥を奪ったため誅殺したとある。仲哀天皇2年1月11日、仲哀天皇は氣長足姫尊(成務天皇40年誕生)を皇后(神功皇后)とする。
8年熊襲討伐のため神功皇后とともに筑紫に赴いた仲哀天皇は、神懸りした神功皇后から神のお告げを受けた。 それは西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという神託であった。しかし、仲哀天皇は、これを信じず神を非難した。そのため神の怒りに触れ、仲哀天皇は翌年2月、急に崩じてしまった。
遺体は武内宿禰により海路穴門(穴戸海峡、現在の下関海峡)を通って穴戸豊浦宮で殯された。
『天書紀』では熊襲の矢が当たったという。
『古事記』には「凡そ帯中日津子天皇の御年、五十二歳。壬戌の年の六月十一日に崩りましき」とある。
御陵(みささぎ)は、大阪府藤井寺市藤井寺4丁目にある惠我長野西陵に治定されている。
公式形式は前方後円。(前方後円墳、全長242m)。
『古事記』では河内国の恵賀の長江。『日本書紀』では河内国の長野陵。


◆なんじゃもんじゃの木
「なんじゃもんじゃ」とは「ヒトツバタゴ」と言う名前のモクセイ科の木で、4月下旬~5月上旬にかけて雪を被ったように真っ白に咲くという。
長崎県の壱岐の島が有名で「海照らし」とも呼ばれている。
明治神宮外苑の兄弟木で、親木は朝鮮李王家より親交の証として贈られたもの。

◆あしや人形感謝祭
村長(むらおさ)の娘の宣託により海中から引き上げられた人形を岡湊神社に奉納したところ、疫病が治まったとする故事に由来する伝統行事。
芦屋町には、八朔のわら馬や団子雛(団子人形)を作成する行事があるが、人形(ひとがた)に災厄の身代わりとなってもらうことを感謝する行事として、あしや人形感謝祭が毎年4月29日に行われている。
平成18年には、人形が大活躍するアニメ「RozenMaiden」のキャラクターがポスターに登場。原作者の「PEACH-PIT」さんをはじめ、延べ3000名近くの来場者があったそうだ。

◆岡湊神社の縁起書を書いた貝原益軒の養生の「三楽」と「四つの我慢」

『孟子』の君子の三楽にちなみ、養生の視点からの「三楽」として次のものが挙げられている。
1.道を行い、善を積むことを楽しむ
2.病にかかることの無い健康な生活を快く楽しむ
3.長寿を楽しむ。
また、その長寿を全うするための条件として、自分の内外の条件が指摘されている。
まず自らの内にある四つの欲を抑えるため、次のものを我慢する。
1.あれこれ食べてみたいという食欲
2.色欲
3.むやみに眠りたがる欲
4.徒らに喋りたがる欲
貝原益軒先生には17日間の「糖尿病の教育入院」のときに、教育ビデオでお世話になりました。(笑)












