巨木・ご神木(4) 【仲哀天皇の古宮・橿日宮】 ご神木「棺掛椎」
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古宮趾は仲哀天皇の皇居・橿日宮(かしひのみや)の跡であり、神功皇后が自ら崩御された仲哀天皇の神霊を祀られた香椎宮創建の地でもある。
熊襲討伐のため神功皇后とともに筑紫に赴いた仲哀天皇が本陣を置かれたのが橿日宮(かしひのみや)である。
【仲哀天皇の崩御】
『日本書記』では
「仲哀天皇は神懸りした神功皇后から神のお告げを受けた。 それは西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという神託であった。しかし、天皇は、これを信じず神を非難した。
そのため神の怒りに触れた。仲哀天皇はそのまま熊襲を討伐しようとしたが、勝てないで帰った。翌年2月、天皇は急に病気になられ、翌日はもうお亡くなり(崩御)になった。」
(『天書紀』では熊襲の矢が当たって戦死したという)。
『古事記』では
「皇后の息長帯比売の命(神功皇后)は、当時神懸かりの状態にあった。天皇が筑紫の橿日宮(かしひのみや)におられて、熊襲の国を征伐しようとされていた時に、天皇が琴をお弾きになり、建内の宿禰大臣が前の庭にいて神のお告げを伺った。
ここに皇后に神懸りして神様がお教えなさいましたことは、『西の方に国がある。金銀をはじめ目の輝くたくさんの宝物がその国に多くあるが、わたしが今その国を与えよう』と仰せられました。
しかるに天皇がお答え申されるには、『高いところに登って西の方を見ても、国が見えないで、ただ大海があるだけだ。きっとあなたは嘘をつく神に違いない』と答えて、お琴を押し退けてお弾きにならず黙ってじっと座っていた。
それでその神様がたいへんお怒りになって『おまえのようなものは、この国を統治する資格はない。おまえは、さっさと黄泉の国へ行くがよい』と仰せられた。
そこで建内の宿禰は『畏れ多いことですが、陛下、やはりそのお琴を弾き続けてください』と申し上げた。
そこで天皇は少しその琴をお寄せになってしぶしぶとお弾きになっておいでになったところ、間もなく琴の音が聞こえなくなりました。そこで火を点して見ますと、既にお隠れになっていました。」とある。
神功皇后は御棺に天皇の亡骸を入れ、橿日宮の椎の木に立て掛けておいたところ、薫風があたり一面に漂った。このことが香椎の地名の起こりとされている。この木を「棺掛椎」(かんかけのしい)と言い、この地を「香椎(かしい)」と言うようになったという。
その「棺掛椎」は今も玉垣の中に見ることができる。
神功皇后はこの地に祠を建て、仲哀天皇の神霊をお祀りした。
これが仲哀香椎廟、つまり香椎宮創建の地である。
のちの724年、神功皇后の霊を祭る神功香椎廟(現在の香椎宮)が建てられる。
大正4年になって、初めてお二人の霊は香椎宮本社に合祀されることとなった。
現在の香椎宮は仲哀天皇、神功皇后、加えて子の応神天皇が配祀されている。
【棺掛椎】
『仲哀天皇の御遺業を完遂せんとし給い 神功皇后は天皇の喪を秘し 天皇の御棺をこの椎に立て掛けられ恰も天皇御臨の御前会議を開かれた この時御棺より薫風漂いたるにより 香椎の名起るとの地名伝説もあり 』
▼仲哀天皇の古宮趾
◆棺掛椎
仲哀天皇の御棺を椎(しい)の木に立て掛けておいたところ、四方に香ばしい香りを放ったという棺掛椎。
▼ご神木「棺掛椎」
▼ご神木・棺掛椎の「香椎」
六角の玉垣の中に祀られている御神木・棺掛椎の「香椎」