【忌宮神社】 仲哀天皇が7年間政務をとられた豊浦宮趾
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▼豊浦宮(とよらのみや)皇居址記念碑

【豊浦宮と忌宮神社】
第14代仲哀天皇は元年(192年)に熊襲の征討に西下し、仲哀天皇2年(193年)に穴門(長門)に行宮の豊浦宮(とよらのみや)を建てられた。
忌宮神社は仲哀天皇が193年から7年間滞在し政務をとられた豊浦宮旧趾にある。
三代実録によれば、仲哀天皇4年(195年)に秦の始皇11代の孫功満王(こまおう)が渡来して日本に住みつき、珍しい宝物である蚕(かいこ)の卵を奉献したとされ、豊浦宮(現在の忌宮神社)が蚕種渡来の地とされる。
天皇はさらに筑紫(福岡県)の香椎に進出したが、天照大神と住吉三神による託宣を疑ったため筑紫の香椎で1年にして崩御せられた。神功皇后は喪を秘して重臣武内宿禰に御遺骸を奉じて豊浦宮に帰らしめ、現在の長府侍町土肥山に殯斂(仮埋葬)せられた。
そして皇后はご懐妊中ながら、熊襲を煽動していた新羅征討をご決行、ご凱旋ののち、天皇の御神霊を豊浦宮に鎮祭せられた。
第45代聖武天皇の神亀5年(728年)、信託によって香椎宮から神功皇后・応神天皇を勧請・合祀し、仲哀天皇を祀る神殿を「豊浦宮」、神功皇后を祀る神殿を「忌宮」、応神天皇を祀る神殿を「豊明宮」と称し、三殿別立となっていた。
中世に、火災により全て「忌宮」に合祀したことから「忌宮」と呼ばれるようになった。延喜式神名帳では「長門国豊浦郡 忌宮神社」と記載されている。
延元元年(1336年)、足利尊氏が忌宮神社で戦勝祈願を行い延元2年(1337年)に法楽和歌を奉納する。長府毛利家の厚い庇護を受け、境内社として歴代藩主を祀る豊功神社も置かれた。
古来、文武の神・勝運の神として歴朝の尊崇厚く、また安産の神として庶民の信仰を受けてきた。
▼忌宮神社・拝殿

【忌宮神社の由緒】
「古事記」「日本書紀」等の書物によれば、九州の熊襲平定のため西下された仲哀天皇と神功皇后は、本州の西端で九州を真向こうに見据える要衝のこの地に8年正月までご滞在になり、斎宮をたて神祇を祭られたのが忌宮の起りとされている。
のち聖武天皇の神亀5年(728)、信託によって筑前香椎宮より神功皇后の神霊を勧請して中殿に奉斎し、殿として仲哀天皇、応神天皇をお祀したと伝えられている。
社伝によれば、9年2月に香椎で崩御せられた仲哀天皇の御屍を、皇后は武内宿禰に命じて海路より穴門に遷されたという殯斂の地が神社の南方500メートルの丘にあり、天皇の神霊を鎮守した御社を行宮にちなんで豊浦宮と称し、くだって聖武天皇の御代に神功皇后を奉斎して忌宮と称し、さらに応神天皇をお祀りして豊明宮と称する三殿別立の神社だったが、中世の火災により豊浦宮、豊明宮が焼失し、忌宮に合祀したと伝えられている。
▼忌宮神社・境内案内図

▼一の鳥居

▼鳥居の横の「忌宮神社由緒」

◆◇◆忌宮神社・境内と広庭
周囲の土地から一段高い処に境内があり、「広庭」とよばれる砂の境内広場が広がっている。

▼広庭と社殿

◆◆鬼石と数方庭祭
豊浦宮に攻め寄せた新羅の武将・塵輪を射倒しその首を埋めたとされる場所。塵輪の顔が鬼のようであった事から「鬼石」と呼ばれている。
毎年8月7日から13日までの毎夜この鬼石を中心として広庭で「数方庭」が行われる。男子は幟を、女子は切籠と呼ばれる灯籠を吊した笹竹をもち、鉦や太鼓の音色に和して鬼石の周りを踊り舞う。
また、探査機による鬼石周辺の調査を行った所、当社に伝わる伝承通りの深度の場所に金属の反応があらわれ、塵倫を葬った際の副葬品ではないかと云われている。


【数方庭(すほうてい)の由来と鬼石】
第14代仲哀天皇は、九州の熊襲の叛乱を平定のため西下、ここ穴門(長門)豊浦(長府)に仮の皇居を興されたが、仲哀天皇7年旧暦7月7日朝鮮の新羅国・塵輪(じんりん)が熊襲を扇動し豊浦宮に攻寄せた。皇軍は奮戦したが宮内を守護する阿部高麿・助麿の兄弟まで討死した事で、天皇は憤られ、自ら弓矢をとって塵輪を射倒され、賊軍は退散した。皇軍は矛をかざし旗を振りながら、塵輪の屍の周りを踊ったのが数方庭(8月7日~13日まで毎夜行われるお祭)の起源と伝えられている。
塵輪の顔が鬼のようであったことからその首を埋めて覆った石を鬼石と呼んでいる。


◆◆神功皇后お手植えの「さか松(逆松)」
神功皇后(第14代仲哀天皇の皇后)は、三韓(新羅・百済・高句麗)出兵に際し、七日七夜天地の神々に御加護を祈願された。
お手つから一本の稚松を逆さまに植えて「我志を得ば、この松枯れずして生い茂りなむ」と神祇に誓われたと伝えられている。逆さまに植えられたが、活着して繁り栄えたので「さか松」と呼ばれた。
古くより神木とされて歳月とともに松葉茂って天中に聳え、はびこった根は真牡鹿の角に似ていたと伝えられてきたが、明治初(1868)年火災に巻き込まれ後に枯死し、現在はその根幹だけが玉垣の中に保存されており、子孫の松が周りに松葉を茂らせている。
願掛けに力を発揮すると云われている。




◆◆宿禰の銀杏(すくねのいちょう)
御祭神仲哀天皇・神功皇后・応神天皇にお仕えした大臣武内宿禰手植えの銀杏と伝えられる古木である。
銀杏が3代に渡り繁り毎年多くの実を付け開運と子孫繁栄の御利益があると云われており、神職が一つ一つ剥き授与品となるという。
【宿禰の銀杏】
当忌宮神社の祭神、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇に仕えた大臣・武内宿禰が植えたと伝えられる古木・銀杏でその子孫が繁茂している。銀杏は「生きた化石」とも云われるほど地球上でもっとも古くよりみられる植物で、武内宿禰の長寿と結びついている。




◆乃木の楠
明治時代を代表する人物の1人、乃木希典大将お手植えのクスノキ。乃木さんは楠木正成を崇敬していたという。楠は下関市の木という。乃木将軍は長府の出身で近くには乃木神社がある。
長府は 本州最西端の城下町。『大化の改新の後、長門国の国府が置かれたことから、「長府」と呼ばれるようになったと「日本書紀」が伝えている。江戸時代には、長府毛利藩5万石の城下町として栄え、幕末には功山寺で高杉晋作が決起するなど、維新回天の舞台ともなった。


◆手水舎



◆阿形の狛犬

◆吽形の狛犬

◆◆神門
この神門は大正15年、石炭財閥の貝島太市氏により奉献されたという。




◆◇◆拝殿
【御祭神】 仲哀天皇、神功皇后、応神天皇
















◆◆御本殿



忌宮神社の神紋は「右三つ巴」。
右三つ巴は、宇美八幡宮と綿津見神社と織幡神社の神紋と同じ。

香椎宮、筥崎宮、宇佐神宮、住吉神社(福岡)、志賀島神社、志式神社の神紋は「左三つ巴」

◆◆豊浦宮(とよらのみや)皇居址記念碑


◆◆「蚕種渡来之地」記念碑


◆山桑の木(やまぐわ)


◆荒熊稲荷神社
忌宮神社の境内に鎮座.
文化・文政年間(1801-29)長府藩11代藩主毛利元義が、江戸参勤交代の帰途、京都の伏見稲荷大社に詣でて分霊を勧請し、産業の繁栄を祈願して創建したもので、嘉永元年(1848)に現在地に移して社殿を再建した。

























