【多賀神社】 伊邪那岐大神・伊邪那美大神の二神を祀る
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▼多賀神社の桃の花①
▼多賀神社の桃の花②
▼多賀神社の桃の花③
◆多賀神社と桃の縁起・・・・『多賀神社HP』より
多賀神社の御祭神 伊邪那岐大神は、桃の子によって災難を逃れられ、開運を導かれました。
多賀神社の鎮魂厄祓と擲桃祭(てきとうさい:春季大祭)は、世の人々を苦しみや悩みより助けるようになされた謂れによるものです。
これは、厄年の人ばかりでなく、今年災するかも知れない病気や災難を未然に祓い清めて、心爽やかに幸せを招く多賀神社の重要な神事となっています。
この夫婦の鵠鵠の姿に倣って、諸々の神々をお生みになった神代の古事によるためです。
【日本書記】
其の坂本にある桃の子三箇を取りて持ち撃ち給ひしかぱ、八雷神、千五百の黄泉軍悉く逃げ帰りき。
茲に伊邪那岐命、その桃子に告り給ひしく「汝、呉を助けし如く、葦原中国に有らゆるうつしい青人草の苦しき瀬に落ちて患ひ惚む時助けてよ」と告り給ひて、意富加牟豆美命(オオカムヅミ)といふ名を給ひき。
多賀神社は、JR筑豊本線の直方駅から南に約500mの位置にある小高い丘に鎮座している。坂を下がったところに庚申社もある。
丘の上からはJR福北ゆたか線(筑豊本線)が走り直方駅や立ち並ぶ町並みが見える。
◆直方市
直方市は筑豊を構成する自治体の一つで、直鞍地区の中心都市である。飯塚市、田川市と並んで筑豊三都に挙げられる。筑豊で石炭が見つかり、明治時代から昭和30年代までは石炭産業で栄えた。直方は、筑豊地方の石炭の集積地と問屋的な機能の役割を果たしていた。
古くは真言宗の名刹東蓮寺があったので東蓮寺とも呼ばれたが、室町期に兵火で寺は焼失する。
のち、後醍醐天皇の皇子の尊良親王(たかよししんのう / たかながしんのう)が城を築いて少弐氏と戦ったため“皇方(のうがた)”と呼ばれるようになったのが地名の起源と云う。
小説家の林芙美子は、「放浪記」の初めに「直方の町」と多賀神社の祭りの事を詳細に綴っている。
直方は元大関魁皇の地元でもある。平成13年10月に篠栗駅-黒崎駅間が電化された際には、特急「かいおう」の運行が開始され話題になった。
◆多賀神社・御由緒
壽命の神、鎮魂・厄除の神として有名な多賀神社は、
伊邪那岐大神(男神)と伊邪那美大神(女神)の二柱の神をお祀りしている。
古くは日ノ少宮・日若宮と称之、奈良朝時代には妙見大明神多賀大神と称えたこともある。。元禄5年(1692年)に妙見神社から社名を多賀神社に改めた。
【多賀神社・御由緒】
御祭神 伊邪那岐大神・伊邪那美大神
壽命の神多賀大神は、天照大神の御両親にて、御社は古く日の若宮と稱す。奈良朝の養老三年に再建し、天平八年妙見大明神を稱へた。
正平十三年懐良親王願主となり、菊池武光資を献じ、葉室惟言改築す。
黒田藩政の時、長清社殿を南の山上より今の地に遷し、元禄五年宮司青山敏文は禁裡に願ひ、もとの多賀大神に改め、御神馬渡御の御神幸を復興す。
維新後明治三十五年及び正和十四年境内を拡張し、本殿以下を改築す。
春季大祭 四月十三日・十四日・十五日
秋季大祭 十月十三日・十四日・十五日
美しめ縄かけて祈らむ、いと長き、よはひを守る多賀の社に。正三位有功
◆伊邪那岐神と伊邪那美神
伊邪那岐神、伊邪那美神の二柱は、神世七代の七代めの神で、国産み・神産みにおいて日本国土を形づくる多数の子を儲ける。その中には淡路島・本州・四国・九州等の島々、石・木・海(オオワタツミ・大綿津見神)・水・風・山(オオヤマツミ・大山津見神)・野・火など森羅万象の神が含まれる。
▼天瓊を以て滄海を探るの図(小林永濯・画、明治時代)
右がイザナギ、左がイザナミ。二人は天の橋に立っており、矛で混沌をかき混ぜて島(日本)を作っているところ
伊邪那岐神、伊邪那美神の二柱はさまざまな神々を生み出したが、伊邪那美(イザナミ)は火の神の迦具土(カグツチ)を出産した際に火傷が原因で亡くなると黄泉国にお隠れになった。そのため伊邪那岐(イザナギ)は怒って迦具土(カグツチ)を十拳剣で切り殺した。イザナギはイザナミを探して黄泉の国へ赴くが、イザナミは変わり果てた姿になっていたため、恐れ慄いたイザナギは逃げた。
追いかけるイザナミ、八雷神、黄泉醜女らに、髪飾りから生まれた葡萄、櫛から生まれた筍、黄泉の境に生えていた桃の木の実を投げて難を振り切る。黄泉国と地上との境である黄泉比良坂(よもつひらさか)の地上側出口を大岩で塞ぎ、イザナミと完全に離縁した。
イザナギは黄泉の穢れ(ケガレ)を清めるために禊ぎ(ミソギ)をしたが、このときもさまざまな神々が生まれた。
最後に生まれた天照大神(日の神、高天原を支配)・月読命(月の神、夜を支配)・須佐之男(海を支配)は三貴神と呼ばれ、イザナギに世界の支配を命じられた。
◆◆鳥居と参道
▼一の鳥居は黒田長清の建立、柱銘は貝原益軒の書
▼壱の玉乗りの阿形の狛犬
▼壱の玉乗りの吽形の狛犬
◆釈迢空の歌碑
多賀の宮みこしすぎゆくおひかぜにわれはかしこまる神わたり給ふ 釈迢空
▼弐の阿形の狛犬
▼弐の吽形の狛犬
▼神馬
▼臥牛
▼手水舎
◆◆多賀神社・神門
◆◆多賀神社・拝殿
◆多賀神社の御神紋は「向鶺鴒 」(むかいせきれい)
多賀神社の御神紋は、夫婦の鵠鵠を象っています。この夫婦の鵠鵠の姿に倣って、諸々の神々をお生みになった神代の古事によるためです。
【日本書記】
「遂に合交せむとす。而も其の術を知らず。 時に鶺鴒有りて、飛び来りて真の首尾を揺す。
二の神、見して学ひて、即ち交の道を得つ。」
◆◆多賀神社・御本殿
◆ご神木
◆蛭子社
本来蛭子神であったが、明治の中期より町内の恵比寿社を合祀するにことになったため、以後大圃主神、事代主神をも祀るようになった。
※明治二十九年より四十四年に至る間 古町、新町、外町の各恵比専社を各町の懇願を受け合祀する。
≪御祭神≫
・蛭子命(ひるこのみこと)
◆蛭子命(ヒルコノミコト)
蛭子命(ヒルコノミコト)は『古事記』において国産みの際、イザナギ(伊耶那岐命)とイザナミ(伊耶那美命)との間に生まれた最初の神。しかし、天の御柱を回って結婚するとき、伊邪那美命(女)から先に声をかけてしまったことが間違った作法であったために、水蛭(ヒル)のように手足が萎えた不具の子ができてしまう。蛭子命(ヒルコノミコト)は葦の舟に入れられオノゴロ島から流されてしまう。
蛭子命は、諸国を漂流し、のちに大国主命の子・彌都齒八重事代主神として生まれ変わったという。
◆多賀神社の桃の花