カザフ・キルギス紀行(25) プルジェワルスキー博物館と彼の墓
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<カザフ・キルギス紀行> 6日目
①カラコル朝の散策 ②天山山脈の風景 ③ジェティ・オグズ ④ドリーナ・スベトフ(花の盆地)
⑤鷹狩 ⑥カラコルでドゥンガン料理 ⑦プルジェワルスキー博物館と墓
◆今日は快晴。朝、ホテル周辺を散策する。
ミニ・バス2台に分乗して9時30分ホテル・アミールを出発。
カラコルの西約30km、テルスケイ・アラトー山脈の標高約2200mに位置する赤い岩肌の七つの岩山があるジェティオグズへ向かう。
ジェティオグズ見学のあと、さらに5km山奥のドリーナ・スベトフ(花の盆地)へ
ドリーナ・スベトフ(花の盆地)でキルギスの自然の魅力をたっぷり味わったあと、
ドリーナ・スベトフからジェティ・オグスへ戻り、ジェティ・オグスからまた20分ほど走り、2台のミニバンは平原の広場に到着。ここで鷹狩りの見学。
老鷹匠と16才の若鷹が登場した。
鷹狩りの見学のあとカラコルへ戻り、午後1時からレストランでドゥンガン料理の昼食
昼食のあと、プルジェワルスキー博物館と彼の墓を見学
◆◇◆プルジェワルスキー博物館
プルジェワルスキー博物館と彼の墓は、カラコル市の北西に約7kmのイシククル湖に近い高台にある。
カラコルはプルジェワルスキーの死の翌年ロシア皇帝の命により「プルジェワルスク」と改名(キルギス国の独立後、もとのカラコルに戻された)され、さらに6年後、彫刻家のシュレーデルによって墓のそばにりっぱな記念碑が建てられた。
▼プルジェワルスキー博物館への道
▼結婚式があったようだ。
▼プルジェワルスキー博物館・入り口
▼ぽれぽれと歩いていく・・
▼プルジェワルスキー博物館・正面
▼博物館の入り口を飾るアイベックス
◆◇◆プルジェワルスキーと博物館内部
【プルジェワルスキー】
ニコライ・ミハイロヴィチ・プルジェワルスキーは、ロシアの中央アジア探検家で動物学者。
彼は生涯のうち、1回のウスリー地方(日本でいう沿海州)の探検と4回の中央アジア探検を行った。
そして、プルジェワルスキーは、1888年、5回目の探検へと出発した。天山山脈の支脈テルスケイ・アラ・トー山脈の北麓の湖イシク・クルの南東岸の町カラコルを出発点として、ここから天山山脈を越え、タクラマカン沙漠を縦断してチベットに入るのが目的であった。そのカラコルに入る前にイシク・クルの西岸近くでキジ猟を楽しんだ。しかし、この付近は1年前から腸チフスの流行している危険地帯であったが、彼は咽の渇きに堪えきれず、近くを流れる川の水を生のまま飲んでしまい、腸チフスを患い猛烈な発熱と下痢で2週間後に死去したという。享年49歳であった。
1839年ロシアのスモレンスクの近くのコザック貴族の家に生まれ、1855年に陸軍に入った。1860年陸軍大学校に入り、1864~66年ワルシャワの士官学校で地理を教えた。1867年参謀部に入りイルクーツクに派遣され、ウスリー江岸の山地の探検に着手し、1869年これを終えてその成果を公刊した。1870年から73年にかけて、わずか3人の部下と共にゴビ砂漠を横断して北京に達し、さらに西南に転じオルドス、アラシャン、揚子江上流地方を探検、チベットに入り、ディ・チュ河に達した。この第1回目の探検は彼にあらゆる栄誉をもたらした。
プルジェワルスキーは4回にわたる中央アジア探検で、約2万個の動物標本と6万個の植物標本をロシアに持ち帰った。
19世紀中頃からロシアの探検家がこの地方に足を踏入れ始めるが、その中でも有名なのはこのセミョノフ・チャンシャンスキー、プルジェワリスキーである。…
西域探検家として最も有名であるスウェン・ヘディンもイシククル湖畔に足を印している。その著『さまよえる湖』の中に、彼がイシククル湖畔でプルジェワリスキーの墓に詣でたことが記されている。
◆プルジェワルスキー博物館内部
入り口すぐに大きな地球儀があり、その後ろに彼のたどった経路を説明した地図があり、周囲にはプルジェワルスキーが探検で使用した機器や身の回りの備品など展示されている。
▼大きな地球儀
▼プルジェワルスキーの肖像画
▼探検経路を説明した地図
▼プルジェワルスキーの写真
▼プルジェワルスキーの胸像
▼探検隊の写真かな・・中央がプルジェワルスキー
彼は身長198センチ、体重150キロの巨体だった。
▼動物の標本
▼プルジェワルスキーが使った調査器具①
▼プルジェワルスキーが使った調査器具②
◆◆プルジェワルスキーの墓と記念碑
◆プルジェワルスキー記念碑
博物館を出て、さらに奥の方に進んでいくと、記念碑が立っている。記念碑は彼の探検の進行方向である南を向いている。
最初は簡単な木の墓標だけだったが、1894年に80人のデザイナーの中から選ばれた彼の友人シュレーデルの設計によって建てられた。高さ9m、340tに及ぶ21個の花崗岩の塊を集めて積み上げ、その上に銅の鷲が大きく羽根を広げている。21の岩塊は、彼の中央アジア探検に費やした年数だという。鷲の嘴には平和と学問と知識の象徴であるオリーブの枝を咥えている。
記念碑の正面には
「ニコライ・ミハイロヴィッチ・プルジェワルスキー
中央アジアの自然の最初の探検者
1839年3月31日生まれ
1888年10月20日没す」 とロシア語で彫られている。
▼プルジェワルスキーの墓
プルジェワルスキーの遺体は、「イシククル湖の見える所で、探検服のままで、解剖をせずに埋めてほしい」という生前の希望通りに埋葬された。
▼遺言に従い、イシククル湖を見下ろす高台に埋葬された。
▼白樺も美しい
プルジェワルスキーの名言。
「人生は素晴らしい 旅ができるから」