【パキスタン】 ラホール博物館 (Lahore Museum)
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パキスタン 2015年7月21日(火) 4日目①ラホール博物館 ②レストランで昼食
③世界遺産ロータス・フォート ④ホテルのSHALIMAR
◆パキスタンの旅の4日目は、まずラマダン明けの休館が終わり、この日から開館したラホール博物館を1時間程ガンダーラ美術を中心に見学。
ラホール博物館見学のあと、ラホールを出発し、首都のイスラマバードへ向かう。
途中、レストランで昼食のあと、世界遺産のロータス・フォートを2時間程歩いてじっくり散策。
ロータス・フォートを出発し首都のイスラマバードへ。ホテルのSHALIMARに夜の7時頃無事到着。
◆◇◆ラホール博物館 (Lahore Museum)
ラホール博物館は、パキスタンの博物館の中では、最も古く、規模も大きい。パキスタンで一番展示の整った立派な博物館という。1865年に設立された。
入り口から両サイドに展示室が広がっていて、インダス文明、ガンダーラ美術、イスラム文化、民俗など、テーマごとに展示されている。 この博物館で有名なのがガンダーラ美術の傑作といわれる「釈迦苦行像」である。
▼ラホール博物館・外観

▼ラホール博物館・外観

▼ラホール博物館・外観

▼ラホール博物館・外観

◆◆博物館内部
ムガール帝国の歴代の皇帝と妃の肖像画が展示されていた。

▼ムガール帝国第5代皇帝シャー・ジャハーン
シャー・ジャハーンはムガル帝国の第5代君主(在位:1628年 - 1658年)。第4代君主ジャハーンギールの三男。母はビルキース・マカーニー。
1612年、ペルシア系の大貴族アーサフ・ハーンの娘ムムターズ・マハルと結婚した。晩年の父とは対立し、デカンに退いていた。
シャー・ジャハーンの時代はインド・イスラーム文化の最盛期であり、美術や建築などの華が咲いた。シャー・ジャハーンはまた、妃ムムターズ・マハルの墓廟であるタージ・マハルの建造者としても有名な人物である。当時、ヨーロッパから訪れた旅行者はシャー・ジャハーンを「壮麗王」(the Magnificent)として称えた。
ムムターズ・マハルの死後、シャー・ジャハーンは側室を増やし、多数の家臣の妻と関係を持つようになった。シャー・ジャハーンは、20年以上にわたりこのような生活を続けたため、1657年に重病となった。そして、その病状に回復の見込みがないとわかると、その4人の息子の間が帝位をめぐり激しく争うこととなった。
結局、1658年に勝利した三男のデカン太守アウラングゼーブが皇位を継承し、シャー・ジャハーンはアーグラ城塞に幽閉され、亡き愛妃の眠るタージ・マハルを眺めながら、1666年に74歳で死去した。

▼愛妃ムムターズ・マハル
1631年、シャー・ジャハーンはデカン地方で起こった反乱を鎮圧する為に遠征。ムムターズ・マハルの姿もその傍らにあり、彼女は遠征先で14人目になる子供を出産した。しかしこの出産はひどい難産で出産後、ムムターズ・マハルは帰らぬ人となった。享年36歳。
シャー・ジャハーンは、2年後の1632年以降ムムターズ・マハルの廟墓タージ・マハルの建設事業に取りかかる。廟の建設に12年。庭園やタージ門、廟の左右の建物に5年。タージ門の外にある王の愛妾や妃達の廟や祈祷堂に5年。こうして合計22年の歳月と国が傾くほどの莫大な費用を要してタージ・マハルは作られた(1653年頃)。

◆仏陀の一生を描いたレリーフのあるストゥーパ Sikri Stupa
古代インドから中国に仏教が伝来した際、ストゥーパ (梵語 : स्तूप, stūpa) は「卒塔婆」と音訳された。
西洋では「仏塔」を指す語に、二種の出自の異なる語、ストゥーパ(stupa)とパゴダ(pagoda)がある。
パゴダ(pagoda)はポルトガル語 pagode に由来するとされる。ストゥーパ(stupa)はインド風のものを、パゴダは極東風のものを意味することが多い。
ストゥーパ(stupa) はもともと、仏教の開祖の釈迦が荼毘に付された際に残された仏舎利(遺骨・遺灰)を納めた塚である。最初は釈迦を祀って、釈迦の誕生した涅槃の地に塔を建てた。その後、仏教が各地へ広まると、仏教の盛んな地域にもストゥーパが建てられ仏舎利を祀るようになった。
▼ムガル帝国第3代皇帝アクバルによって建設された都市ファテープル・シークリーのストゥーパ(stupa)


◆ストゥーパ基壇の仏伝浮彫
(シクリ Sikri, Khyber Pakhtunkhwa province 出土:2~3世紀) ストゥーパ基壇の鼓胴部の一組(13枚)の仏伝浮彫。
▼仏陀の一生を描いた台座のレリーフ

▼仏陀の一生を描いた台座のレリーフ

▼仏陀の一生を描いた台座のレリーフ

▼仏陀の一生を描いた台座のレリーフ

▼仏陀の一生を描いた台座のレリーフ

▼ストゥーパのある展示室

◆ガンダーラ地方

ガンダーラ地方はインドの西北、インダス川の上流域のパンジャーブ地方に属する。現在は大部分がパキスタンの領土となっている。西にカイバル峠を経てアフガニスタンに通じ、東にはインドの中心部デリー、さらにガンジス川流域に通じる。南にはパンジャーブの肥沃な平原が広がり、さらに南下すればシンドの地となる。このようにガンダーラ地方は古来東西交通の要衝として重要な地域であり、さまざまな民族が興亡し、多くの文化の影響を受ける地域であった。
アケメネス朝ペルシアの一州ともなったが、前4世紀にアレクサンドロス大王がペルシア帝国を滅ぼし、さらにこの地に侵入し、ギリシア文化(ヘレニズム)が伝えられることになった。紀元後1世紀にこの地のプルシャプラを都としてクシャーナ朝が成立し、カニシカ王が篤く仏教を保護したので、この地にヘレニズムと仏教が融合したガンダーラ美術が成立することとなった。
◆ガンダーラ美術
1世紀頃から3世紀頃にかけて、クシャーナ朝時代のインドの西北、ガンダーラ地方とタキシラで開花した仏教美術。本来仏教は偶像崇拝ではないので、ブッダを彫像で表すことはなかった。ところが、クシャーナ朝はイラン系の民族が造った王朝であり、バクトリアから起こった国であったのでヘレニズムの影響を受け、ギリシア彫刻を模して仏像を造るようになった。
紀元前50年から紀元後75年頃にこの地でヘレニズム様式の像が作られ始めた。中高の顔、アーモンド型の目、前に出た顎、波打つ髪型、厚い胸板などヨーロッパ人の身体的特徴が見られる。また、西洋の古典芸術の勃興期から用いられた「コントラポスト」という体重の大部分を片側にかけて立つ人物を描く視覚芸術も用いられている(ミケランジェロのダビデ像と同じ)。
ガンダーラ仏はギリシア彫刻の影響を受けているが、4世紀のグプタ朝時代になると次第にヘレニズムの影響を脱して、インド独自の様式であるグプタ様式が成立する。

▼摩耶夫人(マーヤー)の右の脇腹から仏陀が産まれるシーン

▼愛馬カンタカと共に出家する仏陀・・・スリランカのイスルムニア精舎でも見たレリーフ







◆釈迦苦行像、「断食仏陀」
(シクリ Sikri, Khyber Pakhtunkhwa province 出土:2~3世紀)
断食するゴータマシッダールタ(悟りを開く前) この後、牧女・難陀婆羅(スジャータ)から乳粥を施される。
断食中の痩せ細った体、浮き出る骨と血管、緩やかな衣の曲線・・・・2世紀前半頃に作られたというガンダーラ美術でも最も有名な仏陀像、「断食仏陀」。もう一体はペシャワール博物館にある。
ラホール博物館を訪れる多くの外国人が感銘を受けたという「釈迦苦行像」
高田好胤はガラスケースをはずして祈りを捧げることを許され、「パキスタンの旅」の作者ジェフリー・ムーアハウスも非常に感銘を受けて毎日のように通ったという。

▼「釈迦苦行像」・・・断食して悟りをひらこうとする仏陀

▼「悟りをひらいた仏陀」

▼菩薩立像(Bodhisattva:タフティ・バイ出土)
ガンダーラの仏像は、「ギリシャ人を父に、仏教徒を母として生まれた」と言われている。
隆々とした上半身、ドレープをたっぷりと取った衣などガンダーラ美術の特徴を押さえたような弥勒菩薩。
このガンダーラの菩薩立像の凛々しく口髭をたくわえた鼻筋の通った顔立ちは、確かにヘレニズムの影響を感じさせる。






▼珍しい女性の像


▼インドの国章でもある“アショカ王の獅子柱頭”






▼「金箔と漆の仏陀 ビルマ(ミャンマー)より」との説明




▼インドを植民地支配したイギリス・ビクトリア女王





▼パキスタンを建国したジンナーと「インド独立の父」といわれるガンジー

▼ラホール博物館の花①

▼ラホール博物館の花②













