【名島神社】 神功皇后が凱旋され、宗像三女神を勧請
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2015年5月26日(火)参拝
▼名島神社の位置
◆◆名島神社
◆御祭神
宗像三女神 (市杵島姫命 湍津姫命 田心姫命)
4世紀ごろ神功皇后は名島海岸より、三韓への遠征の折にこの地より宗像三女神を拝し、 遠征の無事を祈られた。
その結果、新羅を討ち、百済、高句麗を帰服させ無事に帰還できたことから、祈願成就のお礼として宗像三女を奉ったという。
その後、名島神社は武闘は神功皇后に纏わる由緒ある神社として、古来より、時の権力者が数多く参詣されている。
◆御由緒
神功皇后がこの地から三韓征伐出征の折、宗像三女神に必勝を祈願し、従軍将士の氏名を名乗らせ乗船した。 これよりこの地は「黒津」が「名嶋」と呼ばれるようになり、その後「名島」になったと伝えられている。
神功皇后が新羅より凱旋され、ここに上陸し、宗像三女神を勧請して、祠を建て祭り崇めたのが起源とされている。
現神社は4代藩主黒田綱政により建立され、11代藩主黒田斉清によって再建された。
宗像三女神のなかで一番の美人とされる市杵島姫命は神仏混合により仏教の弁才天と同神とされ本地仏として祀っていたが、明治元年神仏分離令が公布され弁才天は拝殿とともに隣接する宗栄寺が祭祀するようなった。
三方を海で囲まれたこの地は、戦国時代には立花城の支城名島城が置かれ、豊臣秀吉の九州出兵の後には小早川隆景の居城となり、ついで関ヶ原の戦い後、初代福岡藩主黒田長政も入城した。神社下の海岸には、国の天然記念物「名島檣石(ほばしらいし)」がある。
博多八景の1つであり、夕映えが大変美しい。
◆鳥居と参道
▼黒田綱政により建立された一の鳥居
▼名島海岸
▼木製の二の鳥居(両部鳥居)
▼手水舎
▼魚の石像(狛魚)・・・
狛犬は名島城築城の時、資材として使用されたらしい。
◆拝殿
御祭神
宗像三女神 (市杵島姫命 湍津姫命 田心姫命)
◆本殿
◆名島・豊川稲荷神社
豊川稲荷神社は名島神社の敷地内にある。
豊川稲荷の「稲荷」とは、境内の鎮守として祀られる吒枳尼天(だきにてん)のことである。
吒枳尼天は、インドの古代民間信仰に由来する仏教の女神であるが、日本では稲荷信仰と習合し、稲荷神と同一視されるに至った。
豊川稲荷の本院は、愛知県豊川市にある曹洞宗の寺院。
鎌倉時代の禅僧・寒巌義尹が入宋し、文永4年(1267年)、日本へ船で帰国の途上、吒枳尼天の加護を受けたのがきっかけとなり、この天を護法神として尊崇するようになったとされる。
◆名島城跡
名島城は元々立花鑑載が天文年間に立花城の出城として築いた城。
その後、天正15年、九州平定を終えた豊臣秀吉が小早川隆景に筑前、筑後、肥前の土地を与え、この小早川隆景が「名島の地」に水軍を活かせる海城を築いた。 豊臣秀吉も名島城築城に積極的に関わったと筑前国続風土記に記されている。
しかし、慶長5年の関ヶ原の戦いで徳川家が勝利を治め、名島城は黒田長政に与えられた。
それからというもの、城下の地域が狭いことを嫌った長政は名島城のすべての資材を運び出し、福岡城を築いた。名島城は慶長7年、ついに廃城となってしまった。
▼名島城跡の碑
▼不断梅
小早川隆景公入府400年を 記念して、三原市郷士史研究会・三原市郷土を愛する会より移植寄贈された、足利学校ゆかりの不断梅。
▼常に実が絶えないことから『不断梅』と言われている。
◆名島城跡からの眺め
◆◆神功皇后伝説にまつわる旧跡がある名島海岸
◆帆柱石 (昭和9年5月、国の天然記念物に指定)
博多湾を望む名島海岸の一角にある国指定天然記念物「名島檣(帆柱)石」は同地区の香椎宮の社伝によると、3世紀ごろ、神宮皇后が新羅・高句麗・百済へ三韓征伐の出兵を行って凱旋した後に、この地に置かれたという軍船の帆柱が、今も9個の円柱状をした化石となって残っているのだと伝えられている。
考古学的には皇后の時代よりはるか前の約3500万年前頃の地層から出土したカシ属の木の幹だと考えられている。
▼波打ち際で並ぶ帆柱石
◆縁の石
朝鮮半島から帰朝した際、懐妊されていた神功皇后がこの石の上に腰を下ろし休まれたという。
このことから、この「緑石」に寄り添い祈ると安産になり、また縁遠き子女が祈れば良縁に巡り合う…と云われるようになった。
◆名島海岸の夕景