神代三山陵 (1) 可愛山陵 瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の陵墓
|
可愛山陵・・・ 瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の陵墓
高屋山上陵・・・彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)=山幸彦の陵墓
吾平山上陵・・・鵜葺草葺不合(ウガヤフキアヘズ)の陵墓
神代三山陵は、神武天皇の曽祖父・祖父・父にあたる神代三代の陵墓である。
2014年4月7日参拝 (鹿児島県薩摩川内市)
◆◇◆可愛山陵(えのやまのみささぎ)
可愛山陵は「古事記」や「日本書紀」の神話に登場する天孫降臨物語の「瓊瓊杵尊」(ニニギノミコト)の陵墓とされている。
ニニギノミコトは、日向の高千穂の峰に天から降り立ち、南薩摩の笠沙に住まい、その後この川内の地に辿り着き、この地を統治して死後、可愛山陵に葬られたとされている。 (このころ鹿児島県も日向だった。)
可愛山陵は、同じ鹿児島県内の高屋山上陵(霧島市)、吾平山上陵(鹿屋市)とともに神代三山陵とされる。
明治7年(1874年)7月10日、明治天皇の裁可を経て可愛山陵(えのやまのみささぎ)が「邇邇芸尊陵」の指定を受け、大正3年(1914年)に宮内省直轄となった。新田神社のある神亀山の5分の4が陵墓の領域で、現在は宮内庁書陵部桃山監区可愛部事務所が置かれ、内閣府事務官が陵墓守部として管理している。
陵墓と神社が一体となっているのは全国でも珍しい形態である。
◆◆邇邇芸尊(ニニギノミコト)
天照大神の孫。天孫と称す。天之忍穂耳(あめのおしほみみ)命の子。
天照大神の命で,三種の神器とともに日向(ひむか)の高千穂峰に降る(天孫降臨)。
大山祇神(オオヤマツミ)の娘で石長姫(イワナガヒメ)の妹の木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)をめとったが,一夜ではらんだのをあやしんだため,木花開耶姫は産屋に火を放ち,火にちなんだ火照命(ほでりのみこと、海幸彦)、火須勢理命(ほすせりのみこと)、火遠理命(ほおりのみこと、山幸彦)の三神を産んだ。
◆300段を超える長い参道の石段

▼300段を超える新田神社の参道の石段

◆新田神社の大楠
樹齢は650年~800年と推定されている。 階上に見えるのは拝殿。
昭和初期の歌人、与謝野鉄幹、晶子夫妻が昭和4年7月に鹿児島を訪れ、夫妻は新田神社にも参拝した。その時、鉄幹は、この大クスのことを詠んでいる。
可愛の山の楠の大樹の幹半ば うつろとなれど広き蔭かな
▼新田神社の大楠


◆新田神社
新田神社は、高さ70メートルの神亀山(しんきざん)の山頂にあり、ニニギノミコトをまつる神社。かつての「薩摩国一の宮」としての風格を今でも残している。また、隣接している可愛山陵(えのやまのみささぎ)は、神代三山陵の一つにあげられ、明治7年7月に の墳墓と指定され宮内庁直轄で管理されている。
大正9年(1920年)3月30日・昭和天皇(当時の皇太子)参拝、昭和37年(1962年)今上天皇(当時の皇太子)及び皇后美智子妃(当時の皇太子妃)参拝、など皇族の参拝は10回にも及んでいる。
▼新田神社・勅使殿


▼新田神社・勅使殿

◆御祭神:
天津彦彦火瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)
配祀:天照大御神、正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊
境内社:西門守神社、東門守神社、早風神社、中央神社、高良神社、武内宮、興玉神社、二十四社、稲荷社、若宮四所宮
◆御由緒:
新田神社は神亀山という亀の形をした小高い山の上にあります。祀られている神様は天皇様の先祖にあたる瓊瓊杵尊様を中心として、尊様のご家族の神様、食物の神様、山の神様などたくさんの神様がおられます。
古い言い伝えによりますと、遠い神代の昔、高天原にいらっしゃいましたお日様の神様天照大御神様が孫にあたる瓊瓊杵尊様に私たちの住んでいる地上の世界を治めるようにお命じになりました。その時に稲穂をいっしょにお持ちしてお米をつくるようにおっしゃいました。「齋庭稲穂の神勅(ゆにわのいなほのしんちょく」といいます。
そこで瓊瓊杵尊様はたくさんの神様をお連れになり今の鹿児島県の霧島にあります高千穂の峯に降りられました。「天孫降臨」そこではじめてお米をお作りになり、続いて同じく今の鹿児島県の加世田市にあたる笠沙宮に移られ、山の神様の娘であり大変美しい木花開耶姫命様と結婚されてその後、海路東シナ海を北上されて川内の地にこられました。
川内にお着きになられた瓊瓊杵尊様は、この地に立派な千台すなわち高殿を築いてお住まいになりました。川内(せんだい)の名はこの「千台」からきています。
やがて瓊瓊杵尊様はお亡くなりになられて、お墓がつくられました。これが今の「可愛山陵(えのさんりょう)」です。そしてその瓊瓊杵尊様をお祀りするようになったのが新田神社の始まりといわれています。(「参拝の栞」より)
▼新田神社の神紋は「十六八重菊」


◆◇◆可愛山陵 (えのやまのみささぎ)
「邇邇芸尊陵(ニニギノミコト)」の指定を受けている可愛山陵
明治7年(1874年)7月10日、明治天皇の裁可を経て可愛山陵(えのやまのみささぎ)が「邇邇芸尊陵」の指定を受け、大正3年(1914年)に宮内省直轄となった。新田神社のある神亀山の5分の4が陵墓の領域で、現在は宮内庁書陵部桃山監区可愛部事務所が置かれ、内閣府事務官が陵墓守部として管理している。
陵墓と神社が一体となっているのは全国でも珍しい形態である。



◆可愛山陵の大楠


















