【銀鏡神社】 祭神・石長姫尊の「銀の鏡」が御神体
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宮崎県西都市大字銀鏡
2017年4月3日(月)参拝
4月3日、4日と記紀ゆかりの神社参拝へ。
3日は宮崎の木花神社、住吉神社、田元神社、小戸神社、皇宮神社、高屋神社、
佐野原神社、巨田神社、銀鏡神社 を参拝、西米良温泉に泊まる。
4日は石貫神社、大山祇陵、船引神社参拝、清武の大クスを見学のあと、佐賀関の海鮮丼を食し、早吸日女神社を参拝。大分の西寒多神社、別府の八幡朝日神社を参拝。


◆銀鏡神社 (しろみ じんじゃ)
九州山地中央部の山間地、一ツ瀬川支流の登内川と銀鏡川の合流域に位置し、翌等に地蔵岳、オサレ山、北西に雪降山、南東に竜房山がそびえる。
銀鏡神社は、石長姫・大山祇命・懐良親王を合祀した神社で、ご神体は石長姫尊の銀の鏡、懐良親王の割符の鏡である。
祭神・懐良親王は征西将軍で、後醍醐天皇より割符のため譲られたみ鏡が、菊池家に伝わっていたのを、米良領主菊池氏の元祖則隆公より二十五代石見守米良重続公の代に至り、長享三年(1489)3月16日銀鏡神社を創立した際、石長姫尊・大山祇命と合祀した。
祭神・石長姫尊のご神体銀の鏡についての由来は次のごとくである。天津日高彦火々瓊々杵尊・日向國阿田の長屋笠狭岬に天降りし時、大山祇尊の娘二神がいた。姉を石長姫尊、妹を木花佐久夜姫尊と言い、瓊々杵二神を納めたが、姉石長姫尊はその容貌醜悪であったので、尊は妹木花佐久夜姫尊のみを愛した。それを姉神痛く嘆き悲しみ、父大山祇尊より譲ってもらった鏡を取り出し、自分の姿を写してみると、その姿醜悪にしてあたかも龍のごとく見えた。その鏡を乾の方に放ち捨てると、その鏡は当神社東方の龍房山の絶頂の大木にかかった。それでこの山を鏡山という。尊はその鏡の留る所を知ろうと一ツ瀬川を遡り、右の支流に入りその身を隠したという。
龍房山に留った鏡は光り輝き、西方の村里を照らし夜中も昼のようだったので、この地を白見村と言ったが、その鏡が銀の鏡だったので銀鏡村と言いかえられたという。
(宮巡 ~神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト~より)

◆~石長姫を祀る銀鏡神社~(日向神話より)
迩迩芸命(ニニギノミコト)は「筑紫の日向の高千穂のくじふる峰」に降臨する。これがいわゆる天孫降臨である。
この高千穂は宮崎県北部に位置する高千穂なのか、高千穂峰のある霧島地域なのかどちらかはわからない。
迩迩芸命はその後、大山津見神(オオヤマツミノカミ)の娘、木花佐久夜姫(コノハナサクヤヒメ)という美しい妻をめとることになる。
この求婚の際、大山津見神は木花佐久夜姫と共に、姉の石長姫(イワナガヒメ)も一緒に結婚させるつもりだった。
子孫たちが、木の花の咲くように栄え(木花佐久夜姫)、岩のように永く続く(石長姫)ことを願っての大山津見神の親心だったようだが、あいに石長姫はご面相がよくなく、迩迩芸命は一日で石長姫を親元に帰してしまったという。
この時に、境遇を嘆いた石長姫が、わが姿を映す鏡を遠くへ放り投げたところ、これが西都市銀鏡(しろみ)付近(米良山中、龍房山)の大木の枝にかかり陽光、月光を浴びて白く輝いていたという。
この由縁でこの場所は白見と呼ばれ、後に現在の銀鏡(しろみ)という地名になったという。
これが鏡を御神躰とするのが銀鏡神社。 銀鏡神社の由来である。

◆日向の伝説 (鈴木健一郎著 昭和八年初版発行)
応永文明の頃清和源氏(せいわげんじ)の末流で吉良民部大輔兼続という者が米良に来った。彼はやがて氏を米良(めら)と改めた。
彼は山頂の霊光の話を聞き、その山に登る者は神罰を蒙るという噂を聞いた。彼は山々を眺めて霊光のさす厳を見極めた。そして絶壁をよじて山頂に登り、大木の枝に半ば食いこんでいる古鏡を発見した。
彼は伝説の神鏡を得て大いに喜び、奉持して帰りその家に安置して祀り、氏を銀鏡(しろみ)と改めた。
兼続ほその後神威を汚すのを恐れ、後土御門(ごつちみかど)の長享三年東米良村銀鏡の上原に社を建てて、かの古鏡を神体として磐長姫と大山祇神とを祀った。今もこの銀鏡氏の子孫は連綿として遣っている。
南朝の忠臣菊地氏ほ米良山中に隠れたが常に忠貞の心を保持した。かくて武光九代の子孫垂次ほ家に伝わる征西将軍懐良(かねなが)親王の御鏡を神体として銀鏡の社に合祀したという。




◆銀鏡神社の鳥居と参道の石段







◆銀鏡神社・拝殿
【御祭神】
●石長姫尊(いわながひめのみこと)
●大山祇尊(おおやまつみのみこと)
●懐良親王(かねながしんのう)




◆銀鏡神社・本殿





















