【大山祇陵】 石貫階段と西都原古墳群の前方後円墳(90号墳)
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宮崎県西都市大字三宅
2017年4月4日(火)参拝
4月3日、4日と記紀ゆかりの神社参拝へ。
3日は宮崎の木花神社、住吉神社、田元神社、小戸神社、皇宮神社、高屋神社、
佐野原神社、巨田神社、銀鏡神社 を参拝、西米良温泉に泊まる。
4日は石貫神社、石貫階段と大山祇陵、船引神社参拝、清武の大クスを見学のあと、佐賀関の海鮮丼を食し、早吸日女神社を参拝。大分の西寒多神社、別府の八幡朝日神社を参拝。
◆西都にまつわる神話と伝説
「神話と伝説のふるさと」といわれる宮崎は古代「日向の国」とよばれ、古事記や日本書紀に記されている日向神話をはじめ、数多くの伝説や史跡があふれている。西都はその日向の中心地であり、多くの神話や伝説が伝わっている。
神話の中心となるのは、天照大神(アマテラスオオミカミ)の孫ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメにまつわる話。ニニギノミコトは降臨した地から、やがて広く豊かな土地を求めて西都原に進出をはかる。そこで山の神であるオオヤマツミノカミの娘、コノハナサクヤヒメと出会い結婚。この出会いから出産にまつわる伝承が、西都原一帯に色濃く残されており、現在は「記紀の道」として神話探索コースとなっている。
311基もの古墳がある西都原古墳群の存在は、古代から相当な規模の国がこの地にあったことを思わせるが、 その古墳の大部分はいまだ発掘されないまま、多くの古代の謎を秘めて千数百年もの時を眠り続けている。
また、西都原古墳群最大級の2つの古墳「男狭穂塚(おさほづか)」と「女狭穂塚(めさほづか)」は、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの墓とも伝えられている。
(西都原古墳群の説明)
◆石貫階段
石貫神社と西都原古墳群の間にある。
石貫神社(大山祇(おおやまづみ)を「山の神」としても祀っている)と西都原古墳群の90号墳(大山祇塚(おおやまづみつか)と言い伝えられている)の間にあるのが石貫階段である。 これは、昭和15年頃に石貫神社の信者だった鉱山主が落盤事故の供養のために奉納したものだそうだ。 大山祇は「山の神」と言われているので、鉱山とも関係があるようだ。
西都原古墳群の「古墳祭り」で行われる夜のたいまつ行列もこの石貫階段を通るという。この上に西都原古墳群がある。
◆西都原古墳群
西都原古墳群は前方後円墳31基、円墳279基、方墳1基、地下式横穴墓11基、横穴墓12基もの多くの古墳が集まっている全国的にも非常にまれな古墳群です。現在までの発掘調査によって、古墳は4~7世紀前半にかけて作られたものだと思われます。
前方後円墳の形が定まる以前の古墳時代前期に作られたと思われる南九州地方に多く見られる「柄鏡形類型」と呼ばれる前方後円墳の存在や、地域を統括する首長の墳墓とされる前方後円墳がほぼ同時期に形成されていることなどが西都原古墳群の大きな特徴です。
(西都原古墳群・古墳ガイド)
◆大山祇陵 大山祇命(オオヤマツミノミコト)の墓
石貫神社から西都原台地につながる石貫階段を登ったところにある前方後円墳で、山の神オオヤマツミノカミの御陵といわれている。西都原古墳群の中で名前のついている古墳は少なく、オオヤマツミノカミを祀る石貫神社の秋の例祭では、この御陵の前で神事がとり行われる。
西都原古墳群の90号墳の説明板。
4世紀に作られました。90号墳は全長が96m、後円部径51m、同高さ7.1m、前方部幅31m、同高さ3.8mの柄鏡式(えかがみしき)前方後円墳で、男狭穂塚(おさほ塚)、女狭穂塚(めさほ塚)に次いで、大きな古墳ですが、調査されていません。 女狭穂塚が木花開邪姫(このはなさくや姫)の墓、90号墳はコノハナサクヤ姫の父である大山祇命(オオヤマツミノミコト)の墓と伝えられています。
◆記紀の道 「無戸室」(うつむろ)
古事記と日本書紀の記と紀をとって「記・紀の道」と言われています。
高千穂峰に降臨されたニニギノ尊(みこと)はコノハナサクヤ姫と結婚されて、一夜明けると土賊征伐にお出かけになり数ヶ月してお帰りになると、姫はすでに身ごもっておりました。 そこで尊はお疑いになったので、姫は身の潔白を明かすため、戸の無い産殿をつくられ、周囲に火をかけその中で「尊の子であれば火で焼け死ぬことはないでしょう。」と言われてヒコホホデミの尊(山幸彦)、ホスセリの尊、ホアカリの尊(海幸彦)の三皇子(おうじ)を無事出産されました。
無戸室(うつむろ)は地元では火柱殿(ひじゅどん)とも言っています。
(無戸室の説明より)