【早吸日女神社】 神日本磐余彦尊(神武天皇)の東征ゆかりの地
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大分県大分市佐賀関
2017年4月4日(火)参拝
4月3日、4日と記紀ゆかりの神社参拝へ。
3日は宮崎の木花神社、住吉神社、田元神社、小戸神社、皇宮神社、高屋神社、
佐野原神社、巨田神社、銀鏡神社 を参拝、西米良温泉に泊まる。
4日は石貫神社、石貫階段と大山祇陵、船引神社の清武の大クスを見学のあと、佐賀関の海鮮丼を食し、早吸日女神社を参拝。大分の西寒多神社、別府の八幡朝見神社を参拝。
◆早吸日女神社・縁起
神社の縁起によれば、紀元前667年に、神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)、後の神武天皇が神武東征の途中で速吸の瀬戸(豊予海峡)を通りかかった折りに、海女の姉妹の黒砂(いさご)・真砂(まさご)の二神が、潮の流れを静めるために海底から大蛸が護っていた神剣を取り上げて神日本磐余彦尊に奉献したところ、神日本磐余彦尊自らがこの剣を御神体として、祓戸(はらへど)の神(速吸日女)を奉り、建国を請願したのが始まりであるとされる。その後、大宝元年(701年)に現在の場所に遷座。慶長5年(1600年)には戦火によって社殿を焼失したが、熊本藩の所領となり、慶長7年(1602年)に加藤清正によって再建され、その後も歴代熊本藩主細川氏によって造営された。2004年3月には、本殿、総門、社家が大分県の有形文化財に指定されている。長い間神剣を守護していたタコは神社の眷族とされており、仕える神職は一切口にしない。現在でも参拝者の心願成就を書き入れたタコの絵を奉納し「タコ絶ち祈願」が行われている。
≪御祭神≫
・八十枉津日神(やそまがつひのかみ)
・大直日神(おほなほひのかみ)
・底筒男神(そこつつのをのかみ)
・中筒男神(なかつつのをのかみ)
・表筒男神(うはつつのをのかみ)
・大地海原諸神(おほとこうなはらもろもろのかみ)
▼早吸日女神社・社頭
▼早吸日女神社・一の鳥居
◆参道を進む・・・
▼早吸日女神社・二の鳥居・・鳥居の正面に見えるのは、境内社「伊邪那岐社」
▼境内社「伊邪那岐社」
▼参道を右手に進んで行くと「早吸日女神社」
◆早吸日女神社・拝殿
【早吸日女神社・由緒板の説明】
≪創祀≫
皇暦紀元前七年(西暦紀元前六六七年)
≪由緒≫
当社は、人皇初代神武天皇東遷の途次、海女、黒砂(いさご)・真砂(まさご)の二神が速吸の瀬戸の海底から大蛸が守護してきた神剣を取り上げて天皇に奉献し、その神剣を御神体として天皇御自ら古宮の地に奉斎し建国の大請願をたてられたのが創祀である。
大宝元年(七〇一年)、神慮によって現在の地に遷座、延長五年(九二七年)、朝廷、延喜式を制定するに当り式内社に列せられ、爯来、諸災消除、厄除開運の神として皇室を始め諸大名の崇敬厚く、遠近の諸人も伊勢神宮になぞえて関大神宮又お関様(関権現)とも称し、伊勢神宮に参拝することを参宮、当社に参詣することを半参宮ととなえ、多くの信仰をあつめて今日に及ぶ。
慶長五年(一六〇〇年)、兵火により社殿、宝物一切を焼失したが、慶長七年、加藤清正候当地を領するに当り社殿を再建、後の藩主細川候の再建修築に係る建造物多数現存、昭和四十八年社殿修築、社務所、参集殿新築工事竣工により神社の荘厳さを更に加える。
平成十六年三月、本殿、総門、及び当社社家(小野家住宅)の三件、大分県指定有形文化財となる。
◆早吸日女神社・拝殿
◆早吸日女神社・本殿
◆境内と境内社
≪境内社≫
【伊邪那岐社】・伊邪那岐神(いざなぎのかみ)
【若御子社】・黒砂神(いさごのかみ)・眞砂神(まさごのかみ)
【歳神社】・大年神(おほとしのかみ)・御年神(みとしのかみ)
【天然社】・源維城敦仁親王(みなもとのこれざねあつひとのみこ=醍醐天皇)
【木本社】・椎根津彦神(しいねつひこのかみ)
【相殿社】・健磐龍神(たけいわたつのかみ)・武内宿禰神(たけうちのすくねのかみ)
【生土社】・埴安神(はにやすのかみ)
【稲荷社】・保食神(うけもちのかみ)
【神明社】・天照皇大神(あまてらすすめおほみかみ)
【天満社】・菅原道真命(すがわらのみちざねのみこと)
【厳島社】・市杵嶋姫神(いちきしまひめのかみ)
【恵比寿社】・事代主神(ことしろぬしのかみ)
【佐賀関護国神社】・護国の神霊(当地出身)
◆早吸日女神社のくすの木