【今八幡宮】 「山口総鎮守」で、 御祭神は応神天皇
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山口県山口市八幡馬場
2017年4月19日(水)
参拝この日は関門大橋を越え、高杉晋作と中原中也の山口県へ。
防府の玉祖神社、防府天満宮、山口の野田神社、豊栄神社、今八幡宮を参拝。

◆今八幡宮
野田神社の南、小高い丘にある。 室町時代に記された『二十二社註式』によれば、初め宇治皇子一座を祀り今八幡宮と称し、守護大名大内氏の山口入府以前から存した。この社の創建年代は不明であるが、鎌倉時代の弘安年間、大内弘成の娘に「今八幡殿」という名が見えることから、これ以前の古社であることが判る。
文明3年(1471)大内政弘が山口の鎮守と定めて市内の朝倉八幡宮を遷して合祀し、社号はそのままに主祭神を応神天皇とし、他に三座が加列される。その後、文亀3年(1503)大内義興が社殿を造替、明との交易で得た莫大な財力を象徴する荘厳なもので、現在国の重要文化財に指定されている。
当宮は大内氏の居館(大内館)北東の鬼門除けにあたる守護であり産土神であることから、山口町の総氏神として「山口総鎮守」の尊称を賜り、歴代当主の崇敬は極めて篤く、そのことは『大内氏壁書』の文明10年(1478)条に大内政弘より布達された「今八幡宮条々」において当時の広大な神域を維持・保護するため種々の触書が出されたほか、常に当主の参拝や寄進が行われた。大内義隆はその財力を誇示する巨大な鰐口を寄進しているほか、神道に強い感心を寄せて都から吉田兼右を招聘し、宮司共々神道伝授を受けている。さらに貴族風な義隆は網代車で社参するなど、その権勢は山口を中心に最高潮に達した。
今八幡宮のHPによる説明。
今八幡宮は応神天皇の御子で、仁徳天皇の弟である宇治皇子を祀った神社だったが、大内義興が文亀3年(1503)の創建と伝えられ、大内氏が山口にきた時に応神天皇が祭神となった。
他に仲哀天皇、神功皇后、玉依姫命の三柱も合わせて祀られた。
今八幡宮は山内氏の館の鬼門(北東)に位置することで山口を守護する産土神社とされ、「山口総鎮守」の称号を与えられた。
楼門、拝殿および本殿を具備し、山口地方特有の社殿配置として有名な神社で、国の重要文化財の指定をうけている。
◆参道と鳥居と石段







◆今八幡宮社殿 (本殿・拝殿・楼門)
文亀3年(1503)建立
国指定重要文化財(本殿・拝殿・楼門)
本殿は向拝を付した三間社流れ造りで、拝殿を介して楼門までを一直線上に連結させる構造。これは全国的にも山口地方だけに見られる独特な様式で、近郷にも見られるが当宮の建築年代が最も古く、豪壮な造りであるのは創建当時の大内氏の強大な権勢と財力を示している。この様式は、概して広くない限られた土地を有効に活用する必然から生じた合理的な工夫である。
また、本殿及び拝殿上部の蟇股は、天体や宝珠など類例の多くない図案で構成され、形も室町期特有のものから厚みのある桃山期へ移行する過程が表れており、美術史の見地からも貴重な史料である。
楼門は向拝付で、左右に翼廊を配し、床板を敷いた「楼拝殿造り」と呼ばれる特異な形式で、必要に応じて拝殿としての機能を備える。左右翼廊の床が中央より低く高低差が設けられているのは、当主に従い伺候する武士の身分に応じた座位の確保や、読経する僧座のためのものである。
上層部は三つに分け、中央を扉、左右を連子窓とし、大きな大内菱が彫り込まれている。また輪宝や木製の柱の礎盤は禅宗様をあらわしている。
今八幡宮のHPによる説明。
【御祭神】
仲哀天皇(第14代天皇・応神天皇の父)
神功皇后(仲哀天皇の皇后・応神天皇の母)
玉依姫命(初代神武天皇の母)
宇治皇子(応神天皇の皇子・仁徳天皇の弟
◆楼 門
楼門は向拝付で、左右に翼廊を配し、床板を敷いた「楼拝殿造り」と呼ばれる特異な形式で、必要に応じて拝殿としての機能を備える。














◆本殿
本殿は向拝を付した三間社流れ造りで、拝殿を介して楼門までを一直線上に連結させる構造。これは全国的にも山口地方だけに見られる独特な様式で、近郷にも見られるが当宮の建築年代が最も古く、豪壮な造りであるのは創建当時の大内氏の強大な権勢と財力を示している。この様式は、概して広くない限られた土地を有効に活用する必然から生じた合理的な工夫である。


















