人類史の始まりとルーシーとヒト(ホモ・サピエンス)
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人類史のはじまり
◆ルーシー (Lucy)
ルーシー (Lucy) は、1974年11月24日にエチオピア北東部ハダール村付近で発見された318万年前の化石人骨につけられた名前である。アウストラロピテクス・アファレンシス(アファール猿人)の中で最初期に発見されたもののひとつであり、全身の約40%にあたる骨がまとまって見つかったという資料上の貴重さから、広く知られている。
モーリス・タイーブ (タイエブ、Maurice Taieb) を中心とする国際アファール調査隊 (the International Afar Research Expedition ; IARE) が発見し、当時流行していたビートルズの曲「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」にちなんで命名した。
ルーシーをはじめとするアファール猿人の化石人骨群が発見されたアワッシュ川下流域は、1980年にユネスコの世界遺産リストに登録された。
エチオピアの現地語ではディンキネシュ(dinqineš / Dinkinesh, 「貴女は驚異的だ」の意)という名前も与えられており、切手にもなっている。
この猿人の発見は、類人猿に近い脳容量と人類に近い直立二足歩行を行なっていた痕跡を示す人骨という点で重要であるうえ、人類の進化において脳容量の増大よりも二足歩行が先行していたことを裏付ける証拠にもなっている。ただし、他の研究の結果は、アファール猿人が現代人の直接的な先祖ではないことを示唆している。
ルーシーの発見
フランスの地質学者モーリス・タイーブは、1972年にハダール累層 (the Hadar Formation) を発見したことを踏まえ、国際アファール調査隊を組織した。そこには、アメリカの人類学者で後にアリゾナ州立大学人類起源研究所 (Institute of Human Origins) の所長となったドナルド・ジョハンソン (Donald Johanson) 、イギリスの考古学者メアリ・リーキー (Mary Leakey)、フランスの古生物学者で後にコレージュ・ド・フランスに招聘されたイヴ・コパン (Yves Coppens) らが、共同責任者として招かれた。
調査隊は4人のアメリカ人と7人のフランス人を加え、人類の起源に関わる化石や加工品を求めて、1973年秋にハダール村付近を調査した。第一次調査期間が終わりに近づいた1973年11月に、ジョハンソンは脛上端の骨を発見した。続いて大腿骨下端が発見され、それらを接合して復元した膝関節は、明らかに直立歩行するヒトのものであることを示していた。AL 129-1という分類番号が与えられたこの人骨が発見されたのは、翌年にルーシーが発見されることになる場所から約2.5 km の場所だった。
彼らは翌年に第二次調査期間に入り、ほどなく人類の顎の化石を発見した。そして、1974年11月24日を迎えた。ジョハンソンはこの日、調査記録の更新作業をするつもりだったのだが、教え子の一人で化石研究をしていたトム・グレイ (Tom Gray) とアワッシュ川近くの第162地点 (Locality 162) で発掘調査を行うために、予定を変更した。そして彼らが焼けつくように暑くなっていく平原で2時間にわたって調査を行なったあと、ジョハンソンは遠回りになることをちょっと思い付き、すでにほかの調査員達が少なくとも2度は調査していた小さな谷川の底を見ようと、車を戻らせた。その底を一瞥した時には何も見付からなかったが、元の場所に戻ろうとした時にジョハンソンの視界は化石を捉えた。それはスロープにあった上腕骨の断片であり、その近くには後頭部の破片も見付かった。彼らは1 m ほど離れたところに大腿骨の一部も見つけ、さらに調査を重ねると、椎骨、骨盤、肋骨、顎骨などの破片を次から次へと発見した。彼らはその場所に印をつけてキャンプに戻り、明らかに一体の猿人を構成する多くの骨の発見に沸いた。
午後に調査隊は全員で谷川に向かい、発掘現場の区割りをし、3週間に渡ることになる注意深い発掘調査の準備をした。最初の晩には彼らはその発見を祝して夜通し騒ぎ、AL 288-1 (整理番号。AL はAfar Location の略)という番号をつけたその新しい化石人骨を「ルーシー」と名付けることにした。その日の騒ぎの中で、ビートルズの曲「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」がテープレコーダーから繰り返し流れていたからである。ただし、当夜の騒ぎの中で、具体的に誰が提案してそう命名されることになったのかなどは分からなくなっている。
それからの3週間で、重複の一切ない数百もの骨の破片が見付かり、それらが一体の人骨だったという当初の憶測を裏付けた。調査隊はさらに分析を進め、それが全体の40%にもなることが分かった。この数値については、手足の骨の一部を除いた算定であるとして、実際には20%台と見積もる見解もあるが、発見当時としては驚異的な数値だった。なお、1994年にはアファール盆地で身長120cmのラミダス猿人「アルディ」が発見され、最古の猿人は440万年前にまで遡ることになったが、その発見の詳細は2009年まで公刊されることがなかった。このアルディが発表された時点でも、10万年以上前のホモ属やアウストラロピテクス属の全身骨格は、トゥルカナ・ボーイ、セラム、リトル・フット、ルーシー、アルディの5体しかなかった。ルーシーはそれらの中で最も早く発見された全身骨格であった。
ジョハンソンは、完全に復元できた骨盤と仙骨から骨盤の開き具合を判断し、これが女性の人骨であると考えた。ルーシーは身長 1.1 m、 体重29 kgで、一般的なチンパンジーに近いようにも見える。しかし、この小さな脳、骨盤、足の骨を持つ存在は、機能的には現代人と一致しており、確かに直立歩行していたことを示している。
ジョハンソンと、彼の同僚でカリフォルニア州出身の古人類学者ティム・ホワイト (Tim White) は、発見された新たな人骨群、すなわちアウストラロピテクス・アファレンシスを、390万 - 300万年前に生きていたヒトとチンパンジーの最後の共通の祖先として位置づけた(より古いラミダス猿人の骨が発見されたのは、彼らの発見の20年後である)。チンパンジーの系統により近い人骨は、1970年代以降見つかってはいたが、人類の起源を研究する古人類学者たちにとっては、ルーシーは至宝の座にありつづけた。より古い人骨は断片で見つかるのが常であったため、二足歩行の段階や現生人類との関係についての確定的な結論を出すには至っていなかったからである。
ジョハンソンは、当時のエチオピア政府の合意を得て、クリーブランド (オハイオ州) に骨格標本を持ち帰ったが、9年ほど後に合意に従ってエチオピアに返却した。ルーシーは世間の耳目を集めた最初の化石人骨で、国際調査隊の一連の調査で発見された人骨の中では最も有名になった。アファール猿人の段階に位置づけられている彼女のオリジナルの骨格標本は、現在アディスアベバにあるエチオピア国立博物館に保管されていて、石膏の模型が本物の代わりに展示されている。オリジナルから型を採った複製は、アリゾナ州立大学人類起源研究所が所有しているほか、再現された姿でクリーブランド自然史博物館 (Cleveland Museum of Natural History) にも展示されている。アファール猿人やその先行者それぞれの生活ぶりを再現し、科学者たちが推定している行動や能力を示してくれるジオラマは、ニューヨークのアメリカ自然史博物館の人類生物学・進化ホール (Hall of Human Biology and Evolution) に展示されている。
ルーシーの発見以後も、1970年代を通じてアファール猿人の化石は発見されており、変異の範囲や性的二形 (sexual dimorphism) の問題について、より深く理解できるようになっている。当初アファール猿人については、ルーシーとは体格が異なる骨格を別の種と解釈する見解があったが、1992年に発見された男性の骨 (AL444-2) などによって、体格の違いは性別による違い、すなわち性的二形によるものと解釈されるようになった。また、こうした比較の結果、ルーシーはアファール猿人の中でも特に小柄な個体であったと認識されるようになっている。
化石の年代の推定
化石の年代測定は1990年から1992年に、ルーシーの周囲にあった火山灰を放射年代測定の一種であるアルゴン-アルゴン法 (Argon-argon dating) にかけることで行なわれた。
アワッシュ盆地で発見された人骨を年代測定しようとする試みは、ルーシーが発見されるよりも前に、1973年から1974年にかけてカリウム-アルゴン法 (K-Ar dating) を適用して、ジェイムズ・アロンソン (James Aronson) の研究所(当時はCWRUにあり、のちにダートマスに移った)でも行なわれたことがあった。タイーブやアロンソンによるそうした初期の試みは、年代を測定できる試料の不足や、この地域の火山岩が化学的に変性していたりで、うまくは行かなかった。ルーシーの人骨はハダール地方でも堆積物が特に早く積み重なっていく場所で、そのことが彼女の人骨や火山灰の良好な保存につながった。
ハダールでのフィールドワークは1976年から1977年の冬に中断され、その後、エチオピアのメンギスツ政権の方針で完全に途絶させられてしまい、1990年になって再開された[27]。その間にアルゴン-アルゴン法はデレク・ヨーク (Derek York) のおかげで正確さが向上していた。1990年から1992年に、アロンソンとロバート・ウォルター (Robert Walter) によって測定に適した火山灰の標本2件が発見され、人類起源研究所での年代測定の結果、322万年から318万年前と測定された。
ルーシーの年齢
ルーシー自身の年齢については、骨の状態から推測されている。その骨の特徴は成長を終えたものであることを示しているが、それほど高齢になっていなかったことを示している。発見者であるジョハンソンは25歳から30歳くらいと推測し、獣による襲撃の跡がないことから、病気か水難事故によって水のある場所で死に、死後すぐに泥に埋もれたとしていた。ただし、死因はその後も特定されていない。2016年には、右上腕骨の折れ方から、木など高いところから落ちて死亡したのではないかという説がイギリスの科学誌ネイチャーに発表されている。
ルーシーの顕著な特質
二足歩行の痕跡
ルーシーの最も印象的な特質のひとつは、外反足である。このことは、彼女が普通に二足歩行をしていたことを示している。
彼女の大腿骨は骨頭が小さく、骨頚が短い。それらは原始的な特徴ではあるのだが、一方で大転子は(大腿骨頭より高位にならず)明らかに短くなり、現生人類に近づいている。
彼女の大腿骨の長さに比べた上腕骨の長さの比は84.6%である。現代人の71.8%、一般的なチンパンジーの97.8%に比べると、アファール猿人の腕が短くなり始めているか、足が長くなり始めているか、あるいはその両方が同時進行しているかのいずれかを意味している。ルーシーには、別の二足歩行の指標といえる腰椎の前弯も見られる。偏平足とは異なる非病理的な平らな足を持っていたが、他のアファール猿人には反った足も見られる。
ルーシーの骨盤
ルーシーの骨盤は、類人猿よりもヒトのものに近い。これは、その頭骨が類人猿のものに近いことと対照的である。その構造は上半身を支えるために必要な機能をひとまず備えており、安定性に欠けていたと推測されているとはいえ、直立二足歩行をしていたことをうかがわせる[35]。
ジョハンソンは、ルーシーの左の坐骨と仙骨も復元することができた。仙骨の保存状態は明らかに良かったが、坐骨は歪んでいた。この二点からは、異なる特質が浮かび上がってくる。仙骨は、iliac flareがほとんどなく、実質的にanterior wrapを持たないので、類人猿に近い腸骨を形成している。ただし、この復元には欠点もあることが明らかになった。もし右の腸骨が左と同じでなければ、恥骨上枝が接続できなかったはずだからである。
ティム・ホワイトによる坐骨の復元は、広いiliac flareを持ち、はっきりしたanterior wrapを示している。このことは、ルーシーが普通ではない寛骨臼内部のゆとりと、普通ではない長い恥骨上枝を持っていたことを意味する。彼女の恥骨弓は現代の女性に似て90度を超えている。しかしながら、彼女の寛骨臼はチンパンジーのそれのように小さく原始的である。
ルーシーの頭蓋
ルーシーの全身骨格は比較的保存状態が良かったが、頭蓋骨については破損が大きく、復元は困難だった。このため、アファール猿人の頭骨が完全に復元されたのは、AL444-2が発見された1992年以降のことだった。しかし、他のアファール猿人の頭骨との比較から、ルーシーの脳容量は400cc未満と推測されている。その容量はチンパンジーのものとほとんど変わらず、脳の大型化の傾向と無縁だが、構造上の進化の形跡は推測できるという。
かつては脳の大型化と直立二足歩行の進化は連動していると考えられていたが、そのような旧説に見直しを迫るものだった。
社会的な影響
ルーシーの知名度は世界的に高くなった。その知名度ゆえに、ビートルズの曲は化石人骨に触発されてつくられたものだと、曲と人骨の関係を全く正反対に捉えている者たちまで現われる始末だった。
ルーシーの名前は、エチオピアでは小さな町の飲み屋の名前にまで使用例が見出せたといい、同国ではサッカーの「ルーシー記念杯」というものもあったという。
ほかにもフランスの医学者には、分裂病の症例に「ルーシー・コンプレックス」と名付けた者や、大腿屈筋群に現れる症状を「ルーシー症候群」と名付けた者がいる。これらはいずれも化石人骨のルーシーに触発された命名だという。
◆ヒト(ホモ・サピエンス)
ヒト(人、英: human)とは、広義にはヒト亜族(Hominina)に属する動物の総称であり、狭義には現生の(現在生きている)人類(学名 : Homo sapiens)を指す。
「ヒト」はいわゆる「人間」の生物学上の標準和名である。生物学上の種としての存在を指す場合には、カタカナを用いて、こう表記することが多い。
本記事では、ヒトの生物学的側面について述べる。現生の人類(狭義のヒト)に重きを置いて説明するが、その説明にあたって広義のヒトにも言及する。
なお、化石人類を含めた広義のヒトについてはヒト亜族も参照のこと。ヒトの進化については「人類の進化」および「古人類学」の項目を参照のこと。
概説
ヒトとは、いわゆる人間のことで、学名が Homo sapiens(ホモ・サピエンス)あるいは Homo sapiens sapiens(ホモ・サピエンス・サピエンス)とされている動物の標準和名である。Homo sapiens は「知恵のある人」という意味である。
古来「人は万物の霊長であり、そのため人は他の動物、さらには他の全ての生物から区別される」という考えは普通に見られるが、生物学的にはそのような判断はない。「ヒトの祖先はサルである」と言われることもあるが、生物学的には(分類学的には)、ヒトはサル目ヒト科ヒト属に属する、と考えており、「サルから別の生物へ進化した」とは考えない。アフリカ類人猿の一種である、と考える。生物学的に見ると、ヒトにもっとも近いのは大型類人猿である。ヒトと大型類人猿がヒト上科を構成している。
では、生物学的な方法だけでヒトと類人猿の区別ができるか? と言うと、現生のヒトと類人猿は形態学的には比較的簡単に区別がつくが、DNAの塩基配列では極めて似ており、また早期の猿人の化石も類人猿とヒトとの中間的な形態をしているため、線引き・区別をするための点は明らかではない。結局のところ、「ヒト」というのは、直立二足歩行を行うこと、およびヒト特有の文化を持っていることで、類人猿と線引き・区別しているのである。つまり、実は生物学的な手法・視点だけでは不十分で、結局、他の視点・論点も織り交ぜつつ区別は行われている。
分類学上の位置について言うと、現生人類はホモ・サピエンスに分類されるが、ホモ・サピエンスには現生人類以外にも旧人類も含まれる。 なお現生人類(つまり、現在地球上で生きている人類)はすべてこの種(ヒト)に分類されている。
ヒトの身体的な特徴のかなりの部分(下肢が上肢に比べて大きくて強い、骨盤の幅が広くて大きい、等)は、直立二足歩行を行うことへの適応の結果生じた形質である。
直立二足歩行によって、ヒトは体躯に対して際立って大きな頭部を支える事が可能になった。結果、大脳の発達をもたらし、極めて高い知能を得た。加えて上肢が自由になった事により、道具の製作・使用を行うようになり、身ぶり言語と発声・発音言語の発達が起き、文化活動が可能となった。
分布は世界中に及び、もっとも広く分布する生物種となっている。
ヒトは学習能力が高く、その行動、習性、習慣は非常に多様で、民族、文化、個人によっても大きく異なるが、同時に一定の類似パターンが見られる。また外見などの形質も地域に特化した結果人種(コーカソイド・モンゴロイド・ネグロイド等)と形容されるグループに分類される。しかし全ての人種間で完全な交配が可能であり全てヒトという同一種である。統一的な説明はなかなかに難しいため詳細はそれぞれの項目を参照されたい。
◆人類の誕生
猿人以前
人間とよく似ている他の動物としては、サルがいます。 では、ヒトはいつサルに似たなにかから分かれて現れたのでしょうか。
生物学では、生物は進化すると考えられています。進化とは、増殖を繰り返していくうちに、より単純で一般的な生物からより複雑で特殊化した生物に多様化し、変化していくことです。 生物学の分類では、人間は、霊長類(霊長目)に属しています。 ヒトは、霊長類のなかから分化して現れてきた生物種だと考えられます。
1億年から7千万年前に、地球上に最初の霊長類が現れました。 霊長類のなかで最も原始的なサルは原猿類と呼ばれます。ツパイなどがその例です。原猿類の見た目は、ヒトよりも、むしろネズミに似ているといっていいかもしれません。 霊長目は、目のしくみと手先の繊細さと脳の大きさにおいて他の目の生物よりも秀でているといえます。
4千万年ほど前に、霊長目の亜目として類人亜目が分かれ出ます。このグループは、後足立ちができ、爪が鉤爪から丸い平爪になり、顔もより人間に近くなります。
3千万年前くらいには、さらに尾のないサルが現れました。ヒト上科として区分されるサルです。現存するヒト上科に属する種としては、たとえばテナガザルなどがそうです。
1700万年前になると、より大型のサルが現れます。ヒト科です。現存するヒト以外のヒト科の生物には、ゴリラやチンパンジー、オランウータンがいます。
600万年前から500万年前くらいになると、より人間に近い、ヒト亜科として区分される動物が現れます。これは、より大きな脳を持ち、楽々と二足歩行できるようになった霊長類です。これらが人類の直接の祖先と目されています。
猿人
ヒト亜科のうち、ピテクス(サル)という語尾の名前が付けられているものは、猿人と呼ばれます。なかでも有名なのはアウストラロピテクス(「南の・サル」の意味)です。中東アフリカで見つかった、ルーシーという名前で有名なアウストラロピテクスの女性の一個体は、400万年から300万年くらい前に生きていたと考えられています。初期の人類の祖先の化石が見つかる地域はアフリカに集中しています。
猿人が他の猿と大きく違うのは、直立二足歩行です。つまり二本足で立って歩いていたということです。ゴリラやチンパンジーはどちらかというと二本足で歩くこともできるという感じですが、猿人は楽々と歩いていたようなのです。これはとても重大な事です。なぜなら二本足(後ろ足)で立つと、空いた前足(手)に何かを持つことができるからです。すなわち道具の使用が可能になったのです。
もうひとつ、二本足で立つことのメリットは脳が大きくなることができたということです。四本足で歩く場合は、首は水平方向から頭を支えることになります。すると、あまり頭が重いと前にのめってしまい、歩きにくくなります。ところが二本足の場合は頭の重さは垂直方向に首にかかります。より重い頭を支えられるようになるのです。とはいえ、アウストラロピテクスの脳は400~500ccくらいでした。チンパンジーよりちょっとだけ大きいくらいです。現在の私達の1400~1500ccからすると比べ物になりません。
200万年前になると、ホモ・ハビリスが現れました。これは、初めてヒト属(ホモ属)に属する生物種だといわれています。
ホモ・ハビリスは石器を使いました。石器は人工の歯や牙や角として機能します。他の動物を以前よりもはるかに容易に殺傷する力を得たのです。
原人
猿人の次の段階に来るのが原人です。
原人はホモ・エレクトスとも言い、アウストラロピテクスが身長140~150cmくらいだったのに対して、160~180cmくらいあったそうです。大体180万年前くらいからアウストラロピテクスから進化したようです。脳の大きさは900~1100ccくらいで、猿人の2倍以上になっています。
はじめてのホモ・エレクトスの化石は、ジャワ島で発見されました。これがジャワ原人(ホモ・エレクトス・エレクトス)です。アフリカを越えてアジアにまで広がったのは、原人が最初です。
60万年くらい前から、地球は氷河期に入りました。氷河は北から南に広がり、多くの生物の適応を刺激しました。 原人は、毛皮を身につけ、天幕を張ったシェルターに住んだり、洞穴に暮らしたりしたようです。
50万年くらい前には、原人による火の使用の痕跡が中国の北京で見つかっています。これが北京原人(ホモ・エレクトス・ペキネンシス)です。聞いた事のある人もいるでしょう。 火を使えるようになると、暖を取れるばかりでなく、夜には明かりとなり、猛獣を遠ざけたり、食べ物を加熱調理したりすることもできます。
なお、日本でも明石原人と呼ばれる原人の骨(寛骨)が発見されたことがありますが、この明石原人は本当に原人なのか疑問が出ています。
旧人類
原人の次が旧人類です。ネアンデルタール人が有名ですね。旧人類が登場したのが、大体50万~30万年前くらいです。脳の大きさは1300~1600ccくらいでむしろ現在の人間より大きいんですね。
脳みそが大きくなったのに伴って精神的にも進化したようで、イラクのシャニダール洞窟と言うところで史上初の葬式跡というのが発見されています。この洞窟からネアンデルタール人の骨が見つかったのですが、その周りから花の花粉が見つかったのです。つまり死んだ人の周りにお花を添えたんですね。
新人類
そしていよいよ我々現代人と同じグループの新人類に入ります。現生人類とも言います。新人類が登場したのが、20万年前くらいと考えられています。旧人類もこの時代にまだ生き残っていたのですが、次第に新人類に取って代わられたようです。
スペインのアルタミラ、フランスのラスコーにこのクロマニョン人によって描かれた洞窟絵画があります
石器時代
道具についてですが、猿人のころから石で石を叩いて、割れて尖った石を道具として使っていたようです。
このような石で出来た道具を石器と言って、石器を使っていた時代のことを石器時代と言います。猿人が石器を使い始めたのが大体200万年前と考えられています。
石器時代は石器の発達に応じて旧石器時代・新石器時代に分けられています。旧石器時代の200万年前から紀元前8千~紀元前6千年くらいまで、新石器時代がそれ以降です。
旧石器時代は先ほども言いました、石を叩いて作る打製石器を使っていました。これだと思う通りの形には中々出来ないので不便な事もあったようです。ですので、割れた石を磨くことで思い通りの形に仕上げて使う事が始まりました。これを磨製石器と言い、これが使われていることが新石器時代の特徴です。
◆人類史のはじまり
チャールズ・ダーウィンによれば、地球上のすべての生物は原始生物から自然淘汰を経てより高等な生物へ進化を遂げたものとして把握される(進化論)。ヒトを含む霊長類もその例にもれない。
人類と他の動物、他の霊長類の区別は、古来、神学上、哲学上の主要テーマのひとつとなり、諸学の発展した今日においてもさまざまな見解があるが、直立二足歩行こそが基準であるとの考えが有力である。それは、記録のない時代のことを証拠資料をもとに判断することはできないが、化石骨とその出土層位さえ与えられれば直立二足歩行の可能性は解剖学、人類学の見地からの検討が可能となるのである。その年代は従来約400万年前といわれていたが、今日では約500万年前、学者によっては550万年前ないし600万年前の年代があたえられている。
約540万年前、現在のところ最古の猿人とよばれるアフリカ大陸のアウストラロピテクス属が登場した。これが最初の人類とされている。東アフリカのタンザニアで、猿人の一種である、ジンジャントロプスの化石が発見された。
200万年前から100万年前、アフリカ大陸からユーラシア大陸に生活の場を広げたと考えられる。
約50万年前、原人が登場する。北京原人、ジャワ原人が著名である。かれらの脳容量は猿人の約2倍(約1,000ミリリットル)あったと推定される。洞穴や河岸に住み、堅果の採集や狩猟を生業としていたことが知られ、礫石器や火の使用の痕跡も確認されている。
約20万年前、旧人が現れた。ネアンデルタール人などの旧人の脳の容量は現世人類とほぼ同じ(1,300-1,600ミリリットル)で、剥片石器の使用が認められる。地質学上、氷河期にあたっていたため、炉をともなう住居に住んだり、毛皮の衣服を着るなどの生活上の工夫がみられる。死者の埋葬もおこなわれており、たがいに協力しあって生活を営んでいたことが知られている
現生人類が登場するのは約4万年前のこととされる。化石人骨ではクロマニョン人が確認されている。クロマニョン人が描いたとされている壁画が、フランスのラスコーやスペインのアルタミラで発見された。
現生人類は、次第に、狩猟や採集などの獲得経済から、農耕、牧畜などの生産経済へと移行していった。その中でも、狩猟や採集が比較的困難な、砂漠及び乾燥地帯などの地域かつ、農耕に必要な条件である、川が近くにある地域の人類が、いち早く集住をはじめ、そこで農耕や牧畜を行い、一定の食料を安定して生産できるように努めた。そしてそれが次第に文明へと進化して行った。(日本の文明の発展が比較的遅れてしまったのは、日本が森林や海など、食料を採集や狩猟で供給できる十分な環境があったため、集住や農耕をする必要性が比較的低かったためという説もある。)
そして、いち早く文明を築き、発展していったものが主に4つあると言われている。 一つは、今のイランなどの場所に位置する、メソポタミア文明、そしてエジプト文明、中国の黄河文明、そしてインダス文明。これらを総称して世界四大文明という。 また、これにアメリカ大陸のメソアメリカ文明とアンデス文明をくわえて、六大文明とすることもある。 エジプト文明とメソポタミア文明をあわせて、オリエント文明と呼ぶこともある。 オリエントとは「日ののぼるところ」及び「東方」を意味する。












