インダス文明
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インダス文明
インダス文明(Indus Valley civilization)は、インド・パキスタン・アフガニスタンのインダス川および並行して流れていたとされるガッガル・ハークラー川周辺に栄えた文明である。これら各国の先史文明でもある(インドの歴史、アフガニスタンの歴史も参照)。崩壊の原因となったという説のあった川の名前にちなんでインダス文明、最初に発見された遺跡にちなんでハラッパー文明とも呼ばれる。

狭義のインダス文明は、紀元前2600年から紀元前1800年の間を指す。インダス文明の遺跡は、東西1500km、南北1800kmに分布し、遺跡の数は約2600におよぶ。そのうち発掘調査が行われた遺跡は、2010年時点でインド96、パキスタン47、アフガニスタン4の合計147となっている。

◆インダス文明の歴史
◆メヘルガル
メヘルガルI期(紀元前7000年 - 紀元前5500年)は、土器をともなわない新石器時代である。
メヘルガル(ウルドゥー語: مﮩرگڑھ 、Mehrgarh)は、考古学的にも重要な新石器時代の遺跡(紀元前7000年-紀元前2500年)で、現在のパキスタン、バローチスターン州に位置する。南アジアで最初期の農耕(小麦と大麦)と牧畜(牛、羊、山羊)の痕跡がある遺跡である。
ボーラーン峠付近、インダス川の渓谷の西、パキスタンの現代の都市クエッタの南東にある。1974年、フランス人考古学者 Jean-François Jarrige の率いる発掘チームが発見した。発掘調査は1974年から1986年まで続けられた。495エーカー (2.00 km2) の領域の北東の角にメヘルガルで最も古い居住地跡があり、紀元前7000年から紀元前5500年ごろの小さな農村と見られる。
日常生活とテクノロジー
初期のメヘルガルの建物は泥レンガ製で、穀物を蓄える倉があり、付近で採掘された銅で道具を作り、大きな籠には歴青で補強している。六条オオムギ、1粒コムギ、2粒コムギ、ナツメ、ナツメヤシを栽培し、羊、山羊、牛を育てていた。紀元前5500年から紀元前2600年ごろには、石器製作、皮革なめし、金属加工などの手工業が盛んになっている。この場所には紀元前2600年ごろまで継続的に人間が住んでいた。
2006年4月、科学専門誌「ネイチャー」は in vivo(生体内で)の人間の歯をドリルで治療した世界最古の証拠がメヘルガルで見つかったと発表した[3]。
メヘルガルの考古学上の意義
メヘルガルはインダス文明の発生よりも古い遺跡である。イスラマバードのカーイデ・アーザム大学の考古学名誉教授 アフマド・ハサン・ダーニー は「メヘルガルでの発見はインダス文明の概念を根底からくつがえした」とし、「そこでは村が始まった当初から連綿と生活が続いていた」としている。パリのギメ東洋美術館のインダス・バルチスターン考古研究センターの Catherine Jarrige は次のように述べている。
「…カチ平原とボーラーン盆地はボーラーン峠に面しており、この峠がアフガニスタン南部、イラン東部、バルチスターン丘陵、インダス川渓谷を繋ぐ主要ルートになっている。ゆるやかな起伏のこの丘陵地帯はインダス渓谷の西端にあり、紀元前2500年ごろ、そのあたりでメソポタミアや古代エジプトと同時期に巨大都市文明が出現した。インド亜大陸で最初の継続的定住地は紀元前7000年から紀元前500年ごろまで存在したことが、ピラク(1968年-1974年)、メヘルガル(1975年-1985年)、ナウシャロー(1985年-1996年)の発掘調査で明らかとなった」
メヘルガルの銅器時代の人々は、アフガニスタン北部、イラン北部、中央アジア南部の文化とも交流をもっていた[4]。
メヘルガルI期
考古学者はメヘルガルの年代をいくつかに分けている。メヘルガルI期は紀元前7000年から紀元前5500年までを指し、土器を伴わない新石器時代である。この地域での初期の農業は半遊牧民が行ったもので、コムギやオオムギを栽培する傍らでヒツジやヤギやウシを飼っていた。泥製の住居群は4つの区画に分けられている。多数の埋葬跡も見つかっており、副葬品として籠、石器、骨器、ビーズ、腕輪、ペンダントなどがあり、時折動物の生贄も見つかっている。一般に男性の方が副葬品が多い。装飾品としては、貝殻(海のもの)、石灰岩、トルコ石、ラピスラズリ、砂岩、磨いた銅などが使われており、女性や動物の原始的な像も見つかっている。海の貝殻や付近では産出しないラピスラズリ(アフガニスタン北東部で産する)が見つかっていることから、それらの地域と交流があったことがわかる。副葬品として石斧が1つ見つかっており、もっと地表に近いところからも石斧がいくつか見つかっている。これらの石斧は南アジアでは最古のものである。
2001年、メヘルガルで見つかった2人の男性の遺体を研究していた考古学者らは、インダス文明の人々がハラッパー文化の初期から原始的な歯学の知識を持っていたことを発見した。その後の2006年4月、「ネイチャー」誌は in vivo(生体内)で人間の歯をドリルで治療した世界最古の証拠がメヘルガルで見つかったと発表した。論文の筆者らによると、その発見により初期農耕文化の中で原始歯学の伝統が育まれたことを示すという。「ここで我々は、7500年から9000年前のパキスタンの新石器時代の墓地から発見された9体の成人の遺骨において、11個の臼歯に穴を開けた痕跡があることを説明する。これらの発見は、初期農耕文化の中である種の原始歯学の長い伝統が育まれた証拠である」
メヘルガルII期とIII期
メヘルガルII期は紀元前5500年から紀元前4800年まで、メヘルガルIII期は紀元前4800年から紀元前3500年までを指す。II期は土器を伴う新石器時代、III期は銅器時代後期である。様々な生産活動の痕跡が見つかっており、より高度な技術が使われるようになっていった。艶のあるファイヤンス焼きのビーズが作られるようになり、テラコッタ製の像は精密化していった。女性の像は色を塗られ、様々な髪形で装飾品も身につけた姿になっていった。II期の2つの屈葬墓は、遺体を赭土で覆った形で見つかった。副葬品の量は徐々に少なくなっていき、特に装身具が少なくなり、女性の墓の方が副葬品が多くなっていった。最古の鈕印章はテラコッタと骨から作られており、幾何学的なデザインとなっている。テクノロジーとしては、石と銅でできた条播器、窯、銅を溶かす坩堝などがある。II期にはさらに遠方と交易していた証拠がある。特に重要なのはラピスラズリ製のビーズの発見で、現在のアフガニスタン北東部で産出したものである。
メヘルガルVII期
紀元前2600年から紀元前2000年の間のいずれかの時点で、この集落はほとんど放棄されており、それはインダス文明が発展の途中段階にあったころである。
インダス文明の領域形成期(紀元前5500年 - 紀元前2600年)
メヘルガルII期(紀元前5500年 - 紀元前4800年)は、土器をともなう新石器時代である。メヘルガルIII期(紀元前4800年 - 紀元前3500年)は、銅器時代後期である。メヘルガルⅣ期(紀元前3500年 - 紀元前2600年)で集落が放棄された。
ハラッパーI期(紀元前3300年 - 紀元前2800年、ラーヴィー期[3]とも)には、パンジャーブ地方のラーヴィー川河岸でハラッパー文化が、ラージャスターン地方のガッガル・ハークラー川河岸でカーリバンガン文化が、それぞれ始まった。それに続くハラッパーII期(紀元前2800年 - 紀元前2600年)はシンド地方でコト・ディジ文化が始まった。
統合期(紀元前2600年 - 紀元前1900年)
狭義のインダス文明はこの統合期を指す。ハラッパーIIIA期(紀元前2600年 - 紀元前2450年)、ハラッパーIIIB期(紀元前2450年 - 紀元前2200年)、ハラッパーIIIC期(紀元前2200年 - 紀元前1900年)の三期に区分される。
◆ハラッパー
ハラッパー (Harappa) は、インダス文明の都市遺跡。パキスタン北東のパンジャブ地方ラホールの南西約200kmのラーヴィー川左岸に位置し、モヘンジョダロと並び称される標式遺跡として知られる。ハラッパとも。
ハラッパー発掘の歴史
この遺跡は、1826年にチャールズ・マッソンが発見し、1853年にアレキサンダー・カニンガムによって発掘され、特殊な印章が出土する遺跡として1875年に学会に報告されていたが、当時はまだ特定な文明の遺跡としては知られていなかった。
1921年に、R.B.D.R.サハニの発掘調査によって、未知の文明の都市遺跡であることが明らかにされた。その後のサハニによる数次わたる調査とほぼ同時期に行われたモヘンジョダロの調査によって、インダス文明の存在と性質が位置づけられ、インダス文明の別名として知られる、「ハラッパー文化」の命名の起源になった。
1926年~1934年までM.S.ヴァッツらによる発掘調査、1946年~1947年には、M.ウィーラーによる発掘調査が行われた。1986年以降は、G.F.ディールズ、R.H.メドー、J.M.ケノイヤーらによるアメリカ隊が組織的な発掘調査を行っている。
遺跡のレンガ石を周辺住民が利用したり、東インド会社の鉄道敷設などで遺跡全体の保存状態は悪い。
文化層
紀元前3300年~同1700年前後にわたって、居住が確認され、古い順から、ラーヴィー期、コト・ディジ期、インダス文明期、変移期、H墓地期の5期にわたる文化層が確認されている。
ラーヴィー期の集落は、遺跡の北側の下層から発見され、手づくねの多彩文土器を伴うのが特徴である。すでに紅玉髄や凍石製ビーズの生産を行っていて、後のインダス文字の起源と考えられる文字が土器の表面に線刻されている。コト・ディジ期になると、遺跡の南東部などに集落は拡大し、周壁が築かれるようになる。
インダス文明期になると、「城塞」と城門によって隔てられた二つの「市街地」の区分けが明確になり、さらに「城塞」の北側には、床面積800m2強の2列にならんだ「穀物倉」と、径3.5mの「円形作業台」18基などが造られる。「円形作業台」の中央には、木製の臼をおいて作業をしたと推定され、脱穀場という説もある。「穀物倉」と呼ばれる建物は湿気のある川に近く、穀物の形跡も発見されていないため、現在では他の用途に使われたと考えられている。現地の遺跡にある案内板には、初期の学者が穀物倉と推定したが証拠が発見されていないと書かれている[1]。
「城塞」は、南北約400m、東西約200の南北方向に長い平行四辺形で、「城壁」は、焼成煉瓦で被われた日干し煉瓦で築かれ、その基部の厚さは12m、北西と南東の隅に「見張り台」を置き、北側と西側に「城門」を設けている。
「城塞」の南側150~200mの地点には、土坑墓からなるR37墓地が営まれた。焼成煉瓦を多用し、インダス式土器一式のほか印章や、紅玉髄を始めとする各種貴石製ビーズ類が出土している。
R37墓地の北側には、H墓地があり、H墓地文化、後ハラッパー文化の標式遺跡として知られる。
◆モエンジョ=ダーロ
モヘンジョダロ(Moenjodaro, Mohenjo-daro)は、インダス文明最大級の都市遺跡。モヘンジョダロ、モエンジョダロ、モエンジョダーロ、モヘンジョ・ダーロ、モヘンジョ・ダローなどの表記がある。
紀元前2500年から紀元前1800年にかけ繁栄し、最大で4万人近くが居住していたと推測される。しかしその後は短期間で衰退した。原因としてさまざまな説があげられたが、近年の研究では大規模な洪水で衰退したと考えられている。
モエンジョ=ダーロの呼称
モエンジョ=ダーロは現地の言葉で「死の丘」を意味し、歴史学者が足を踏み入れるまでは、非常に古い時代の死者が眠る墳丘として、地元民は恐れて近よらない禁忌の領域であった。この都市の本来の呼び名、すなわち往時の名称については、インダス文字が解読されていないため、ヒントすら得られていない。
都市の特徴
遺跡は東西二つの遺丘からなる。東方に市街地が、西方に城塞が広がっている。規模としてはほぼ1.6キロメートル四方と推定されるが、今後の調査によってさらに大きなものに訂正される可能性がある。遺跡は整然とした都市計画を示し、道路は直角に交差し、碁盤の目のように細分されていた。水道、汚水の排水システム、個人用の浴室、公衆浴場などがすでに存在しており、水量の季節的変動を考慮して貯水池を十分に整備するまでに水利工学は進歩していた。また、建築には一定のサイズの煉瓦が使用されていた。以上のことは、この地に確固たる社会構造、強力な階級制度と中央集権制度が存在していたことを意味する。
東丘の市街地
市街地は、東西2本、南北3本の幅10メートルの大路によって12区間に分かたれていたらしい。一つ一つの区間が、大通りに通ずる1.5~3メートルほどの小路でさらに分けられていた。市街地全体を囲むような市壁があったかどうかは不明である。ここでは、一般の家屋から隊商宿といわれる建物、労働者用の粗末な小屋など、さまざまな建物が見つかっている。家屋は大小さまざまだが、中庭を中心にしそれを囲んでいくつかの部屋を持つように作られ、出入口を大路に面した側には持たず、小路に面して戸口を開くスタイルが一般的だった。各戸は下水道を備え、汚水は小路の排水溝へ通じ、さらに大路の排水溝へ集められる仕組みになっていた。
モエンジョ=ダーロの西丘の城塞
モエンジョ=ダーロの「城塞」(城塞並みに重厚な建造物であることからそのように呼ばれているが、城塞とは異なり、戦争用の遺物は見られない)は、ハラッパーの場合と同様、堅固な城壁をめぐらし、その内側に煉瓦を10メートルほど積み上げた人口の基壇を設け、東丘を見下ろすように一段高くつくられている。基壇の上には、問学所と呼ばれる建物や、会議場あるいは列柱広間と呼ばれる30メートル四方の建物など、おそらくは市制を司ったであろう公共的な建造物が建ち並んでいる。
ほぼ中央には長辺12メートル、短辺7メートル、深さ2.4メートルの、内面を瀝青で耐水加工した焼成煉瓦造りの大浴場が存在し、これに接するように、長辺45メートル、短辺27.5メートルの範囲内に27ほどの穀物倉の基壇群が存在する。当初は、この構造は煉瓦造りの基壇の上に木造の建物が載っていたと推測された。しかし穀物倉と呼ばれる建物は湿気のある大浴場に近く、木製の建物の痕跡もなく、穀物を運び入れるスペースがなく、穀物の形跡も発見されていないため、現在では他の用途に使われたと考えられている。
大浴場はある種の祭儀の場であろう、と考えられていたが、近年ではさらに、この大浴場と穀物倉との位置関係が改めて注目されている。この二つが結びつくことで、再生・増殖の象徴として機能していたのではないか、という指摘がなされている。城塞は、政治センターとしての役割ばかりではなく、宗教センターの役割も果たしていたようである。
農業
このインダス河流域の都市社会では、農業が重要な役割を果たしていた。人々は小麦を栽培し家畜牛を飼育して生計を立てていた。広い道路や傾斜路が整備されていたので、収穫物を載せた荷車が容易に往来できた。輸送手段とともに食物の保存技術も発達した。
遺跡を巡る現代史
文明遺跡としての発見は、1922年、インド考古調査局員であったインド人歴史学者R・D・ボンドパッダーエ(Rakhaldas Das Bandyopadhyay (ベンガル語:রাখালদাস বন্দোপাধ্যায়、異名:Rakhaldas Banerji、Rakhaldas Banerjee [R・バネルジ、R・バナージー])の発掘調査によってなされた。
1980年、「英語名:Archaeological Ruins at Moenjodaro (和訳名:モエンジョダーロの考古遺跡)」の名でユネスコ世界遺産の文化遺産に登録された。
遺跡が属する地域一帯では地下水位の上昇による塩害が進行し続けているが、モヘンジョ=ダロはこれを覆い隠していた堆積物が大規模に取り払われた1965年以降、遺構の構成物である煉瓦が塩分を吸い上げて風化してゆく塩分砕屑現象が止まらない。そうして土に還ってしまった遺構も少なくはなく、保存の問題が何十年も叫ばれ続けている。
◆ロータル
ロータル(Lothal, लोथल) は、グジャラート州のアフマダーバード南方80km、サウラシュートラ地域(カーティヤーワール半島)の南側の付け根に位置するインダス文明の都市遺跡。 1954~63年にR・S・ラーオ(Shikaripura Ranganatha Rao)によって発掘調査が行われた。
インダス文明最盛期から後期に至る遺跡で、C14法で紀元前2600年~1800年頃に機能していたと考えられている。面積は、7.1haほどである。都市全体がほぼ正方形の厚い周壁に囲まれ、基壇上に築かれた「穀物蔵」や「沐浴」施設が設けられた「城塞」と呼ばれている施設が南東部分を占める。「城塞」よりも低い「市街地」には計画的に配された街路に沿って家屋が連なり、ビーズの工房跡や火を用いた「祭祀」跡が確認された。 「市街地」の西方には墓地があり、男女を合葬した例が見られるのが注目される。
また「市街地」の東側の壁に隣接して「ドック」と呼ばれる、219m×37m、深さ4.5mのレンガ造りの巨大なプール様の施設が確認されている。ドックは、運河で近くを流れるサーバルマティー川につなげられていることから、メソポタミアとの交易のための船の引き込み用施設、港湾施設ではないかと考えられたが、構造上無理があるという指摘もあり、貯水槽と考える研究者もいる。
◆インダス文明の滅亡
インダス文明の衰退や滅亡については次のような諸説がある。
- 砂漠化説
- インダス文明が存在した地域は現在砂漠となっている。インダス文明が消えたのは、この砂漠化によるのではないかという説がある。砂漠化の原因としては、紀元前2000年前後に起こった気候変動があげられている。大西洋に広がる低気圧帯は、一時北アフリカと同じ緯度まで南下し、さらにアラビア・ペルシア・インドにまで及んで、雨をもたらし、緑豊かな土地になっていた。しかしやがてこの低気圧帯は北上し、インドに雨をもたらしていた南西の季節風も東へ移動して、インダス文明の栄えていた土地を現在のような乾燥地帯にしてしまった、という説である。衰退後の植物相や動物相には大きな変化が見受けられないことから、気候の変動を重視する説は見直されている。
- インダス文明が森林を乱伐したために砂漠化が進行したという説もある。しかし、乾燥化説については、ラクダの骨や乾地性のカタツムリが出土していること、綿の生産が行われていたことなどは、川さえあれば気温の高い乾燥ないし半乾燥地帯で文明が興りえたことを示し、「排水溝」も25ミリの雨がふっただけでももたない構造であり、煉瓦を焼くにも現在遺跡の周辺で茂っている成長の早いタマリスクなどの潅木でも充分間に合ったのではないかという反論があり、決定的な説となってはいない。
- 河流変化説
- 紀元前2000年頃に地殻変動が起こり、インダス川の流路が移動したために河川交通に決定的なダメージを与えたのではないかという説。インダス遺跡はインダス川旧河道のガッカル=ハークラー涸河床沿いに分布している。
- 気候変動説
- 気候変動によってインダス文明が衰退したとする説である。4200年前には、地中海から西アジアにかけて冬モンスーンが弱く乾燥化が起き、メソポタミアではアッカド王国崩壊の一因になったという説がある。こうしたモンスーン変動がインダス文明の地域にも影響を与えたとされる。2012年にはアバディーン大学が中心の研究グループが発表し、2013年には京都大学が中心のグループがネパールのララ湖を調査して3900年前から3700年前にかけて夏モンスーンが激化していたことを明らかにした。また、遺跡の数はインダス文明の盛期ハラッパー文化期よりも後期ハラッパー文化期のほうが多く、規模が縮小している。これらの点から、夏モンスーンの激化がインダス川流域に洪水を起こし、インダス川流域に位置するモヘンジョダロなどの大都市から周辺への移住が起きたとする。
- また、インダス文明期には、海面が現在よりも2mほど高かったという調査がある。これにより遺跡の分布を調べると、インダス川流域以外のグジャラートやマクラーン海岸の遺跡の多くが海岸線に近くなる。そこで、海岸線に近いインダス文明の人々は大河によって生活するのではなく、海上交易などを行っていた海洋民であったが、海面低下により生活が変化したとする説も提唱されている。後述のように、インダス文明はメソポタミアやペルシア湾地域と交易を行っていたことが確認されている。
- アーリア人侵入説
- インダス文明滅亡の原因は古くから論争があり、第二次大戦後にはM.ウィーラーによるアーリア人侵略説をはじめとする外部からの侵略説が唱えられた。発掘調査によって埋葬もされずに折り重なるおびただしい人骨が確認されたために外部からの侵入による虐殺説が唱えられた。また、『リグ・ヴェーダ』などの戦争記事がその根拠のひとつとされた。しかし、当時の発掘調査は、層位関係を考えずに地表からの深さのみを記録して行われた調査であったために同時期の人骨ではなかった。その他、虐殺跡とされた人骨には外傷の形跡がなく、アーリア人の侵入とインダス文明衰退の年代には相違があり、『リグ・ヴェーダ』の記述の史実性にも問題が指摘され、現在では否定されている[7]。
- 日本においても第2次世界大戦前にアーリアン学説を補強する学説が発表された。この説では,インダス文明は南インドを中心に暮らしているドラヴィダ人の祖先によりつくられたと推定されている。また、ドラヴィダ人は、紀元前13世紀に起きたアーリア人の侵入によって、被支配民族となり[9]先住民族であるドラヴィダ族を滅ぼしてヴァルナという身分制度を作り上げたという説がある。
インダス文明滅亡後の地方化期
(紀元前1900年 - 紀元前1300年)
ヴェーダ期(紀元前1700年 - 紀元前1100年)になると、以前はハラッパー文化だった都市がH墓地文化となった事を示す墓地が発見されている。この墓地からは火葬の跡が発見されており、この文化からヴェーダの宗教(紀元前1000年 - 紀元前500年)が形成されたと考えられている。ヴェーダの宗教は、後のバラモン教やヒンドゥー教(en:Shaivism)の原型である。この文化と同時期に栄えた赭色土器文化は、ラージャスターンからヒンドスタン平野へ進出している。
十王戦争から十六大国まで(紀元前12世紀 - 紀元前6世紀)
インダス文明の発見の経緯
文明の存在が認識されるようになったのは比較的遅く、イギリス支配下の19世紀になってからのことである。1826年に探検家のチャールズ・マッソンがハラッパーにある周囲約5kmに及ぶ巨大な廃墟について報告し、「紀元前326年にアレクサンドロス3世(大王)を撃退したポルス王の都シャンガラの跡ではないか」と推測している。1831年にもアレクサンダー・バーンズが調査中同地を訪れ地元の人から廃墟にまつわる「神の怒りによって滅んだ」との伝承を紹介し、本国イギリスで考古学的好奇心を大いに刺激するようになる。
イギリスは既に18世紀にアジア協会を設立しており、インドに赴任していた元軍属のアレクサンダー・カニンガムが同協会の元でインドおよびパキスタンの考古学の基礎を築くことになる。カニンガムは1853年・1856年に最初のインダス遺跡発掘となるハラッパー遺跡の発掘を行い、未知の文字が書かれた印章・土器などが出土した。カニンガムは1862年、インド考古局の発足に尽力し初代局長となるが、この頃から鉄道敷設のため遺跡の建材を崩されてしまう課題に取り組まねばならなくなっていた。その後も第3局長ジョン・マーシャルらによってインダス文明の研究は発展していくこととなる。
インダス文明の遺跡
都市の規模はメソポタミアのものよりも小さく、モヘンジョダロとハラッパーが1km四方を超える規模をもち、メソポタミアの小都市に匹敵する規模であった。都市には2種類あり、城塞と市街地が一体のタイプ(ロータル、ドーラビーラ)と、城塞と市街地が分離しているタイプ(モヘンジョダロ、ハラッパー、カーリバンガン)とがある。主な遺跡は以下の4地域に集中している。
- インダス川流域(ハラッパー 分離型、76ヘクタール:周囲を含む全体推定値150ヘクタール、モヘンジョダロ 分離型、83ヘクタール:周囲を含む全体推定値125~200ヘクタール)
- ガッガル・パークラー川流域(ラーキーガリー 105ヘクタール:分離型、バナーワリー 16ヘクタール:一体型、カーリバンガン 12.1ヘクタール:分離型)
- マクラーン地方(ソトカー・コー 1.5ヘクタール:分離型、ソトカーゲン・ドール 1.95ヘクタール:分離型)
- グジャラート地方(北西インド、どの都市も一体型。ロータル 7ヘクタール:沐浴室の列、基壇、ドーラビーラ52ヘクタール:居住地域部分のみ19ヘクタール、スールコータダー 0.72ヘクタール、クンターシー 1.56ヘクタール:穀物貯蔵室、土器・銅の工房、バーバルコート 2.7ヘクタール、ロジュディ 7ヘクタール:大型方形建物、カーンメール 1.25ヘクタール:大型方形建物)
城塞とは周塞に囲まれている集落で、大沐浴場や火の祭壇、さらに「穀物倉」「列柱の間」「学問所」と呼ばれる大型で特殊な構造の建物が一般家屋とは別に建ち並んでいる。「穀物倉」と呼ばれる建物は湿気のある場所に近く、穀物の形跡も発見されていないため、現在では他の用途に使われたと考えられている[12]。
インダス文明では、他の古代文明とは異なり王宮や神殿のような建物は存在しない。戦の痕跡や王のような強い権力者のいた痕跡が見つかっていない。周塞の目的としては、何らかの防衛や洪水対策の他に、壁と門を設けて人・物資の出入りを管理する事も考えられる。モヘンジョダロでは市街地の周塞が発見されていない[13]。
言語
インダス文明の言語は原ドラヴィダ語に属すると推定されている。
- 文字
- インダス文字は現在でも未解読である。統計的分析ができる長文や、ロゼッタ・ストーンのように多言語併記の物が出土しないことが研究の大きな障壁になっている。一方で、インダス式紋章は文字ではないという説もあり、論争が続いている[14]。
- ドラヴィダ運動
- Iravatham Mahadevanは、インダス文字の分析からハラッパー語がドラヴィダ語に由来するとするドラヴィダ語仮説を提唱しているが、Shikaripura Ranganatha Raoはドラヴィダ語仮説に反対している。この対立の背景にはドラヴィダ運動の政治的な側面からの影響もあった。
インダス文明の宗教
信仰や儀礼のあり方が地方によって異なる面がある。モヘンジョダロ、ドーラビーラやロータルの城塞には、しばしば、「大浴場」と呼ばれるプール状の施設、水にかかわる施設があり、豊饒と再生を祈念する儀礼が行われた沐浴場と考えられている。
一方で、北方のパンジャブ州に近いカーリバンガンやバナーワリーのように、城塞の南区や市街地の東側の遺丘の上で、独特な「火の祭祀」を行っていたと思われる遺跡もあり、シンド州の遺跡やモヘンジョダロで見られるような再生増殖の儀礼と関係すると考えられるテラコッタ女性像やリンガ石(シヴァ・リンガム)と呼ばれる石製品が出土しない。
また、南方のロータルを含むグジャラートでは、「火の祭祀」とテラコッタ女性像に象徴される再生増殖儀礼の両方の要素が見られるなどの違いが見られるため、インダス文明の構造や性格を解明する上で大きな課題となっている。
埋葬
埋葬は、地面に穴を掘って遺体を埋葬する土坑墓を用いた。長方形の土坑が多かったが、楕円形のものも造られた。遺体は、頭を北にして仰向けに身体を伸ばした、いわゆる仰臥伸展葬が主体であった。足を曲げた形で遺体が葬られているものもあるが、その場合も頭は北に置かれた。ひとつの土坑に一人が葬られるのが普通であるが、例外も見られる。副葬品は土器が一般的で、頭の上、すなわち墓坑の北側部分に10数個を集中して置くが、まれに足元、つまり南側に副葬した例がある。腕輪、足輪、首飾りなどの装身具をつけたまま埋葬された例もあり、その場合は銅製の柄鏡も出土している。重要な点として、被葬者間に際立った社会的格差が見られないという特徴があり、インダス文明の性格を示していると思われる。
行政
インダス文明には、支配者・管理者・運営者の内のいずれかが居たのではなかろうかと思われる節がある。そのことは、城塞や市街都市内部の東西南北に真っ直ぐ延びる大通りにみられる計画性、文字や印章の使用、印章に記された動物などの図柄、煉瓦の寸法や分銅にみられる度量衡の統一や土器の形や文様などにも現れている。宗教では、印章などに表現される「角神」と呼ばれる水牛の角を付けた神または神官の像や菩提樹の葉のデザインにも現れている。
排水溝設備の整った碁盤目状に街路が走る計画都市であって、ダストシュートや一種の水洗トイレなどが設けられた清潔な都市だったのではないかと推定されている。土器やビーズなどの主だった出土品に均質性が見られる。
インダス文明の都市は、信仰・宗教世界の運営・統括する人たちの宗教的・政治的中枢ではなかったのではないかという説がある。
インダス文明の経済
インダス文明の農業
インダス文明は、夏作物、冬作物、夏と冬の混合作物の3地域に大きく分かれる。インダス川の流域は冬作物地域であり、氾濫による肥沃な土壌を利用した氾濫農耕を行った。河川から離れた地域では、地形を利用した一種の堰を築き、そこへ雨期の増水を流し込み、沈澱させた土壌を用いて農耕をしていたと推察される。夏作物地域では、モンスーンを利用した農耕を行っていた。
牧畜
現在でも家畜として飼育されているコブウシは、インダス文明の土器の模様、印章、土偶などのモチーフにも多数使われている。コブウシよりは少ないがコブのないウシも描かれており、系統の異なるウシが飼育されていた可能性がある。
商業
水運を広く利用し、装飾品などがメソポタミアまで輸出されて盛んな商業活動が行われていた。石製、銅製の各種の分銅や秤がある。メソポタミアとの盛んな交易が知られ、主として紅玉髄製ビーズの輸出を行い、メソポタミアではインダス文明は「メルッハ(国)」と呼ばれていたと推定されている。メソポタミア地域やペルシア湾でも、インダス式印章が発見されている。
工芸品の交易ルートには原石の採掘、工芸品の生産、流通などに専業の集団が従事し、インダス文明の経済基盤の1つだったと考えられている。現在のカンバートのように各工程の職人や商人が全体を把握しなくても運営されるようになっており、王や神官のような行政による強力な統括がなくとも成立していたのではないかとも考えられている。
インダス文明の文化
技術
鉄は知られず、青銅器を使った。都市計画で知られるように建築技術に優れており、建築物には縦:横:厚みの比が4:2:1で統一された焼成煉瓦が広く使われている。服は染色された綿で作られていたようで、染色工房と推定される場所が見つかっている。
工芸
装身具、主として紅玉髄製ビーズの製造が有名である。腐食ビーズとも呼ばれる紅玉髄製ビーズに白色の文様を入れる技術を持っており、樽型ビーズはメソポタミアへの主要な輸出品の1つでもあった。その他に腕環、足環、ペンダントなどが見つかっている。高い加工技術を要する極小のマイクロビーズも作られており、絹の糸で連結させていた。これは中国での最古の絹の利用と同時期とされ、前2世紀以降のシルクロードより前にインダス文明で別個に絹の利用が発達していたとされる。工芸の素材としては、金属の他に貝、動物の骨や歯、テラコッタ、ファイアンス、瑪瑙、ラピスラズリ、ジャスパー、アマゾナイトなどが使われていた。動物の骨や歯は、ヤギ、ヒツジ、コブウシ、レイヨウの他に少数ながら象牙やサイの角も使われている。
インダス式印章
都市遺跡からは、多くのインダス式印章が出土する。凍石製で、印面は3~4cmの方形で、インダス文字とともに動物などが刻まれている。動物は、サイ、象、虎などの動物のほかに後のインドの文化にとって重要な動物である牛が刻まれているのが目立つ。一方で、一角獣など架空の動物が刻まれたり、「シヴァ神」の祖形と思われる神などが刻まれていることもある。商取引に使用されたと考えられ、メソポタミアの遺跡からもこのような印章の出土例がある。












