黄河文明
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黄河文明
黄河文明(こうがぶんめい)は黄河の中・下流域で栄えた古代の中国文明のひとつである。黄河の氾濫原で農業を開始し、やがて黄河の治水や灌漑を通じて政治権力の強化や都市の発達などを成し遂げていった。東アジアの歴史の教科書には「世界四大文明」のうちのひとつとして挙げられていることが多いが、現在は長江文明や遼河文明などさまざまな文明が中国各地で発見されているため、四大文明に黄河文明のみを取り上げる手法はもはや古くなっている(最近の教科書では、「黄河・長江流域の文明」のようにややぼかした表現になっている)。

新石器時代の仰韶(ヤンシャオ)文化から竜山(ロンシャン)文化をへて、殷・周の青銅器文化に発展していった。
◆裴李崗文化
裴李崗文化(紀元前7000年?~紀元前5000年?)の代表遺跡は河南省新鄭県裴李崗。円形・方形の竪穴式住居に暮らし、粟などの畑作農業が行われていた。艶出しした紅褐色の陶器や磨製石器などを特色とする。

裴李崗文化 (はいりこうぶんか、裴李岗文化、拼音: , 英: Peiligang culture) とは、中国河南省の黄河流域で生活していた新石器時代の共同体のグループに考古学者が与えた名前で、1977年に河南省鄭州市新鄭の裴李崗で発見された遺跡にちなんで名付けられた。この文化は紀元前7000年から紀元前5000年までの間に存在し、70を超える遺跡がある。 考古学者たちは裴李崗文化が平等主義であり、政治組織はほとんどなかったと信じている。
この文化ではアワを耕作する農業やブタを飼育する畜産を実践していた。また、土器を作った古代中国最古の文化でもある。
河南省漯河市舞陽県の賈湖村で発見された賈湖遺跡(en)はこの文化に関係する最古の遺跡の1つであり、古代の笛や未解読の賈湖契刻文字などが発見されている。
◆老官台文化
老官台文化(紀元前6000年?~紀元前5000年?)の代表遺跡は陝西省華州区の老官台遺跡。円形の竪穴式住居に暮らし、粟作などの畑作農業が行われていた。暗紅色の夾砂陶を特色とする。
老官台文化(ろうかんだいぶんか、老官台文化、拼音: , Laoguantai culture, 紀元前6000年頃 - 紀元前3000年頃)は、中国北部(華北)の黄河中流域で発見された新石器時代の文化である。陝西省で発見された中では現在のところ最古の新石器文化である。
標式遺跡は1950年代後半に調査された、陝西省渭南市華州区の中心市街の西(渭河の支流・西沙河の沿岸)にある老官台遺跡である。
老官台遺跡はこの文化の類型遺跡の中で最初に発見されたものであったが、出土した文物は比較的少なかった。しかし甘粛省秦安県の大地湾遺跡で大量の遺物が発見された後、この文化を「大地湾文化」(Dadiwan culture)と呼ぼうという動きが学者の間から出た。しかし大地湾遺跡からは複数の時代に文化の遺物が出土していることを理由に、ほぼこの文化の遺物のみが出土する西安市臨潼区の白家村遺跡から「白家村文化」と命名しようという主張もあった。
命名論争は今日まで続いている。総合的に見れば、老官台文化は二つの段階があると考えることもできる。前期は大地湾一期を代表とし、約7300年前ごろに栄えた。後期は陝西省宝鶏市で出土した北首嶺下層を代表とし、約7300年から7000年前の間に栄えた。老官台文化の発見は、その後にこの地で生まれた彩陶などを特色とする新石器文化・仰韶文化の起源を探る意義を有する。
生活
当時の人々はすでにアワなどの雑穀類を栽培し、ブタや犬などの家畜を飼い、定住して集落を築く生活を送っていた。当時の工具は磨製石器が主であったが、打製石器や細石器なども少なからず発見されている。また陶器の製作も始まっており、数は少ないものの比較的低温で焼いた土器が見つかっている。彩陶(彩色土器)はまだ萌芽状態であった。
◆北辛文化
北辛文化(紀元前6000年?~紀元前5000年?)の代表遺跡は山東省滕県北辛。黄褐色の陶器を特色とする。

北辛文化(ほくしんぶんか、北辛文化、拼音: , 紀元前5300年頃 - 紀元前4100年頃)は、中国北部(華北)山東省の黄河下流域で発見された新石器時代の文化である。
標式遺跡は1964年に山東省南部・滕州市(当時は滕県)の北辛街道で中国社会科学院考古研究所により発見された北辛遺跡である。この遺跡は大汶口文化(紀元前4100年頃 - 紀元前2600年頃)の遺跡の下から発見された。その一部が1978年から1979年にかけて発掘された。
この文化の遺跡からは黄褐陶(砂混じりの土を低い温度で焼いた陶器)や紅陶(きめ細かい泥を高い温度で焼いた陶器)でできた鼎などの調理器が発見され、一部ではさらに高い温度で焼いた灰陶や黒陶も出土している。石斧や石鎌などに用いた磨製石器や打製石器、骨角器なども発見された。
この文化の研究から、当時は採集や狩猟のほかに、雑穀を栽培する原始的な農業や、ブタやスイギュウなどの飼育がおこなわれていたことがわかる。
◆磁山文化
磁山文化(紀元前6000年?~紀元前5000年?)の代表遺跡は河北省武安県磁山。円形・楕円形の竪穴式住居に暮らし、粟作などの畑作農業が行われていた。紅褐色の夾砂陶を特色とする。
磁山文化(じさん-ぶんか)は中華人民共和国河北省南部の黄河下流域に紀元前6000年頃から紀元前5500年頃にかけて存在した新石器時代。雑穀の栽培を中心とした農業による経済活動が中心であり、磨石や石斧などの石器、鼎形陶器が出土している。
磁山文化は南接する河南省で発見されている裴李崗文化と多くの共通点が認められ、磁山=裴李崗文化、または裴李崗=磁山文化とも称される。また東接する山東省で発見された北辛文化とも共通点も指摘されている。
標式遺跡は、河北省武安市磁山で発見された磁山遺跡である。磁山遺跡は8万平方mの広範囲に分布し、住居跡として円形の竪穴式住居が発見されている。遺跡からはブタ、イヌ、ニワトリの飼育痕跡が発見され、食用肉としてブタを飼育していたと考えられている。その他にも漁労活動の痕跡も発見されている。
磁山遺跡からは貯蔵用の穴(窖穴)が500以上発見され、雑穀を貯蔵していたと考えられている。発見された最大規模の窖穴は深さ5mで1,000kgほどの雑穀を貯蔵できたと推測されている。
◆仰韶文化
仰韶文化(紀元前4800年?~紀元前2500年?)は1921年、河南省澠池県仰韶村で発見された彩陶(赤地に彩色した土器)を特色とする文化。

前期(紀元前4800年ころ)は紅陶が主流で、代表遺跡は陝西省西安市半坡、仰韶半坡類型文化と称されている。母系制で、農村の階層化がみられる。前4000年頃にろくろの使用が見られる仰韶廟底溝類型文化が現れた。
後期(紀元前3500年以降)は、半坡後期類型・西王村類型・大司空類型・秦王塞類型の四種の文化に大別され、このころには貧富の差がみられ、社会の分業・階層化が進んだ。


仰韶文化(ぎょうしょうぶんか、ヤンシャオぶんか、英: Yangshao culture、漢語ピンイン: Yǎngsháo wénhuà)は、中国の黄河中流全域に存在した新石器時代の文化である。仰韶文化の年代は紀元前5000年から紀元前3000年あたりである。この文化の名称は初めて出土した代表的な村である仰韶にちなんで付けられた。仰韶村遺跡は1921年に河南省澠池県仰韶村で発見された。この文化が主に栄えた地域は、河南省、陝西省および山西省である。
仰韶の人々の自給自足生活はさまざまである。彼らは広く粟を耕作していた。麦や米を耕作していた村もあった。仰韶農業の正確な性質 -- 小規模な焼畑農業か永続的な農地での集約農業か、は現在議論の余地がある。しかしながら、Jiangzhiのような中期の仰韶集落には、余剰の穀物を格納するために使われた可能性のある高床式建築があった。彼らは豚や牛、そのほか羊、山羊、および牛のような動物を飼っていたが、それらの肉の大部分は狩猟や漁業で得ていた。彼らの石器は研磨されており、非常に専門化されていた。仰韶の人々は原始的な形態の養蚕も実践していた可能性がある。
仰韶文化は彩陶で有名である。仰韶の職人は美しい白、赤、および黒の彩陶で人面、動物、および幾何学模様を作成した。後世の龍山文化と異なり、仰韶文化は土器の作成にろくろを使わなかった。発掘調査により、子供達が彩文土器のかめに埋葬されていたことが判明した。
西安に近い半坡村の考古学遺跡・半坡遺跡は、仰韶文化のもっとも有名な溝で囲まれた集落の1つである。西安・臨潼区の姜寨と呼ばれるもう1つの主要な集落遺跡がその限界に発掘され、考古学者たちはこれらの集落が完全に環濠で取り囲まれていたことを確認した。これらの遺跡からは半坡文字と呼ばれる文字に近い記号も発見されている。
◆後岡文化
後岡文化(紀元前5000年?~紀元前4000年?)の代表遺跡は河南省安陽市後岡。北辛文化を継承して発展した。
◆大汶口文化
大汶口文化(紀元前4300年?~紀元前2400年?)は1959年、山東省寧陽県堡頭村で遺跡がはじめて発見された。のちに山東省泰安市大汶口でも遺跡が発見されて、こちらが代表遺跡となった。
前期は紅陶が主流だったが、後期には黒陶・灰陶が主流となった。後期の卵殻黒陶の高柄杯は、精巧で美しく、山東龍山文化に受け継がれた。

大汶口文化(だいぶんこう/だいもんこう-ぶんか)は中華人民共和国山東省を中心に紀元前4100年頃から紀元前2600年頃にかけて存在した新石器時代後期の文化。遺跡は黄河下流の山東省泰安市付近に集中しているが、黄海沿岸・渤海南岸から魯西平原の東部、淮河北岸の一帯にまで広がっており、隣接する安徽省、河南省、江蘇省からも少数の発見報告がある。
大汶口文化の名称は、1959年に山東省泰安市岱岳区の大汶口鎮から発見された遺跡に由来する。1962年より発掘調査を開始、1964年に大汶口文化と命名された。後に出土物からこの文化が仰韶文化と同時期かそれよりも古いことが確認された。発掘は1974年と1978年にも行われているが、大汶口文化に関係するのは遺跡の層の中でも中間部分だけで、深い層は北辛文化(紀元前5300年 - 紀元前4100年)に、新しい層は龍山文化(紀元前3000年 - 紀元前2000年)に関係する特徴が見られる。大汶口文化の遺跡からはトルコ石・ヒスイ・象牙などでできた加工品、および陶器が多く発見されている。
大汶口文化は早期(紀元前4100年 - 紀元前3500年)、中期(紀元前3500年 - 紀元前3000年)、後期(紀元前3000年 - 紀元前2600年)と、大きく3つの時期に分かれる。初期においては、発掘物から見て階級差は大きくなかったと考えられ、出土する人骨の性別などから当時の社会は母系氏族共同体だったと推測されている。この時期は鬹(き)といわれる三足器(陶製の三本脚の調理器で、脚が長い)や紅陶でできた鼎(てい、かなえ、三本足の器)など多様な形をした陶器が特徴的である。また早期も終わりのほうになると土を盛った墳墓も多くなる。
中期に入ると出土する陶器は紅陶にかわり灰陶・黒陶が増え、量の大きさや文様・形の多様さが明確になる。また社会が父系氏族共同体へ移行し父系社会が確立したさまがみられる。
後期に入ると墳墓の中に木製の棺が現れる。大汶口文化も父系氏族共同体の末期に入り階層化が進み、副葬品のない墳墓がある一方で大量の副葬品が発見される墳墓もある。土器は灰陶・黒陶が主流となり、器の厚さは薄く精巧になってゆき、黒陶や卵殻陶(卵の殻のような薄さの陶器)を特徴とする龍山文化につながってゆく。
◆龍山文化
龍山文化(紀元前2500年?~紀元前2000年?)は中国中央研究院歴史語言研究所によって1930年、山東省章丘県龍山鎮で発見された黒陶(黒色土器)や灰陶を特色とする文化。黒陶は薄手で精巧に作られた黒色の土器で、製作にはロクロが使用されていた。焼成温度は約1000度以上。
後期には銅器の鋳造もおこなっていた。中原龍山文化(陝西龍山文化・晋南予西龍山文化・河南龍山文化)と山東龍山文化とに分かれる。

中原龍山文化は仰韶後期文化を継承し、灰陶が主流。骨を灼いてひび割れを見る占卜もこのころ始まったとされている。山東龍山文化は大汶口文化を継承しており、黒陶が主流。

龍山文化(りゅうざんぶんか、龙山文化、拼音: : ロンシャン・ウェンフア, 紀元前3000年頃-紀元前2000年頃)は、中国北部(華北)の黄河中流から下流にかけて広がる新石器時代後期の文化である。黒陶が発達したことから黒陶文化ともいう。
龍山文化は、中原龍山文化(河南龍山文化と陝西龍山文化)および山東龍山文化に分かれている。山東龍山文化は黄河下流を中心に存在した大汶口文化に続いて現れており、河南龍山文化は黄河中流に存在した仰韶文化に続いて登場している。龍山文化は黄河流域のそれまで異なった文化が栄えていた地域に広がっただけでなく、長江流域など後に漢民族の文化が栄える地域一帯に影響を及ぼした。
龍山文化は、山東省東部の章丘県龍山鎮にある城子崖で1928年に遺跡が出土し、1930年以降本格的に発掘されたことから来ている。龍山文化の特徴は、高温で焼いた灰陶・黒陶を中心にした陶器の技術の高さにあり、器の薄さが均一であることからろくろが使われていたと見られる。特に卵殻陶と呼ばれるものは、器を卵の殻のようになるまで(0.5 - 1mm)薄くした黒陶の陶器で、さらに磨きをかけて黒光りさせるか精細な文様を彫り込んだものである。これは黄河流域のみならず長江流域や中国の南部海岸付近でも発見されており、龍山文化の広がりを示している。一方で長江中流域の屈家嶺文化も灰陶・黒陶を特徴とする文化で河南省付近にまで影響を広げており、龍山文化が長江付近の文化の影響を受けた可能性もある。
陶器の生産の効率の上昇は、出土する陶器の数や種類が前の文化に比べ増大したことにもみられ、鼎や鬲、鬹、高柄杯など、調理器や食器として使われた多様な黒陶・灰陶の陶器が出土している。

陶器のほか、石包丁など石器や骨器などの武器や道具、ヒスイなどの玉なども出土している。龍山文化の後期には青銅器も出現しており、殷代・周代(あるいは殷の前にあったとされる夏代)の青銅器時代に入る過渡期であったと考えられる。

龍山文化の社会に現れた大きな変化は、都市の出現である。初期の住居は竪穴式住居であったが、やがて柱や壁を建てた家屋が出現した。また土を突き固めた城壁や堀が出土しており、特に山西省襄汾県の陶寺郷の南で発見された陝西龍山文化の遺跡・陶寺遺跡(紀元前2500年 - 紀元前1900年)は龍山文化の都市遺跡の中でも最大級のものであった。
農業や手工業の発達も特徴である。陝西省の渭河周辺では農業と牧畜業が仰韶文化の時期に比べ大きく発展している。コメの栽培も始まっており、カイコを育てる養蚕業の存在と小規模な絹織物の生産の開始も確認されている。
動物の肩胛骨を使った占いや巫術も始まっており、宗教も出現していたとみられる。農業などの発達により、社会の生産に余剰が生まれ、私有財産が出現し社会の階層化が進み、父権制社会や階級社会が誕生した。
中国の新石器時代の人口は、龍山文化で一つのピークに達したが龍山文化の末期には人口は激減した。同時に墳墓の副葬品から高品質の卵殻陶・黒陶なども見られなくなった。
龍山文化の区分
龍山文化の前期は紀元前3000年から紀元前2600年ごろで、紀元前2600年ごろから紀元前2000年ごろが後期とされている[1] 。また龍山文化は黄河流域の地形に合わせて、中原の河南龍山文化、渭河沿いの陝西龍山文化、黄河最下流の山東龍山文化など地域ごとにさまざまに分化しており、特に後期になると分化が明確になる。渭河沿いは後にシルクロードと呼ばれる西域への交易路の起点であり、中国の歴史の中心の一つとなった。
◆二里頭文化
二里頭文化(紀元前2000年?~紀元前1600年?)は1959年、河南省偃師市二里頭で発見された。
遺跡は約二キロ四方で、中心部には二つの宮殿跡がある。この遺跡の人々は、晋南予西龍山文化・河南龍山文化を継承し、青銅鋳造の技術を持っていたと考えられている。


ほかに現在のところ100近くの二里頭文化の遺跡が発見されている。代表的なものには洛陽市の東乾溝遺跡、矬李遺跡、東馬溝遺跡、陝県の七里鋪遺跡、臨汝県(現在の汝州市)の煤山遺跡、鄭州市の洛達廟遺跡、河南省新密市の新砦遺跡などがある。
おおよその地理的範囲は、河南省中部・西部の鄭州市付近の伊河・洛河・潁河・汝河などの流域から、山西省南部の汾河下流一帯にかけてであるが、その影響は上流の陝西省南部や、南の長江中流域にも及んだと見られる。


夏・殷朝との関連
その後の研究で、豫北(河南省北部)地方が漳河型先商文化と二里頭文化の隣接地帯であることが示され、二里頭文化期には、漳河型先商文化・岳石文化・二里頭文化の三つの勢力が黄河中下流域で鼎立していたとみられる。また二里岡下層期には漳河型先商文化が南下し、西の二里頭文化に取って代わり、二里岡上層期には東の岳石文化に取って代わった。
この推移状況は、史書での夏と殷に関する記述との対応が考えられる[5]。北京大学の劉緒と徐天進は、二里岡文化が早商文化であり、二里頭文化が夏文化であると推定した[6]。
また中国考古学会は一期から三期までは拡大期で四期は衰退期とし、一期から二期までが夏王朝、三期以降は殷に入るとしている。
中国の新石器文化の一覧
| 時期 | 名称 | 位置 |
|---|---|---|
| 紀元前7500年 – 紀元前6100年 | 彭頭山文化 | 長江中流域、湖南省北西部 |
| 紀元前7000年 – 紀元前5000年 | 裴李崗文化 | 黄河中流域、河南省 |
| 紀元前6500年 – 紀元前5500年 | 後李文化 | 黄河下流域、山東省 |
| 紀元前6200年 – 紀元前5400年 | 興隆窪文化 | 遼河流域、内モンゴル自治区と遼寧省の境界付近 |
| 紀元前6000年 – 紀元前5500年 | 磁山文化 | 黄河下流域、河北省南部 |
| 紀元前5800年 – 紀元前5400年 | 老官台文化 (大地湾文化) | 黄河上流域、甘粛省から陝西省西部 |
| 紀元前5500年 – 紀元前4800年 | 新楽文化 | 遼河下流域、遼東半島 |
| 紀元前5400年 – 紀元前4500年 | 趙宝溝文化 | 灤河流域、内モンゴル自治区から河北省北部 |
| 紀元前5300年 – 紀元前4100年 | 北辛文化 | 黄河下流域、山東省 |
| 紀元前5000年 – 紀元前4500年 | 河姆渡文化 | 浙江省余姚市から舟山群島 |
| 紀元前5000年 – 紀元前3000年 | 大渓文化 | 長江中流域、三峡付近 |
| 紀元前5000年 – 紀元前3000年 | 馬家浜文化 | 杭州湾北部から太湖 |
| 紀元前5000年 – 紀元前3000年 | 仰韶文化 | 黄河中流域、河南省・陝西省・山西省 |
| 紀元前4700年 – 紀元前2900年 | 紅山文化 | 遼河上流域、内モンゴル自治区・遼寧省・河北省 |
| 紀元前4100年 – 紀元前2600年 | 大汶口文化 | 黄河下流域、山東省・安徽省・河南省・江蘇省 |
| 紀元前3400年 – 紀元前2250年 | 良渚文化 | 長江デルタ |
| 紀元前3100年 – 紀元前2700年 | 馬家窯文化 | 黄河上流域、甘粛省・青海省 |
| 紀元前3100年 – 紀元前2700年 | 屈家嶺文化 | 長江中流域、湖北省・湖南省 |
| 紀元前3000年 – 紀元前2000年 | 龍山文化 | 黄河中・下流域 |
| 紀元前2800年 – 紀元前2000年 | 宝墩文化 | 長江上流域、成都平原 |
| 紀元前2500年 – 紀元前2000年 | 石家河文化 | 長江中流域、湖北省 |
| 紀元前2100年 – 紀元前1500年 | 二里頭文化 | 黄河中流域、河南省偃師市 |
地域別
以下の表では、紀元前7000年から紀元前1500年までの間の各文化を地域別に示している。新石器文化は無印で、青銅器文化(紀元前2000年頃から出現)であるものには * (アスタリスク)が付いている。年代には、研究ごとになお多くの異同がある。
| 年 (紀元前) | 遼河流域 (中国東北部) (1) | 黄河上流 (中国西北部) (2) | 黄河中流域 (中原) (3) | 黄河下流域 (4) | 長江下流域 (5) | 長江中流域 (6) | 四川 (7) | 中国東南部 (8) | 中国西南部 (9) |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 7500 | |||||||||
| 7000 | 彭頭山文化 | 縄紋陶器文化 | |||||||
| (含む | (含む | ||||||||
| 城背溪文化 | 甑皮岩) | ||||||||
| 6500 | 老官台文化 | 裴李崗文化 | 後李文化 | 皂市文化) | |||||
| 興隆窪文化 | (大地湾文化、 | 磁山文化 | 6500-5500 | 7000-5800 | 7000-5500 | ||||
| 6200-5400 | 白家村文化) | 賈湖遺跡 | |||||||
| 6000 | 6500-5000 | 李家村文化 | 跨湖橋文化 | ||||||
| 6500-5000 | 6000-5000 | ||||||||
| 5500 | |||||||||
| 北辛文化 | |||||||||
| 新楽文化 | 5300-4500 | ||||||||
| 5000 | 5300-4800 | 仰韶文化 | 仰韶文化 | 河姆渡文化 | 大渓文化 | 大坌坑文化 | |||
| 5000-3000 | 5000-3000 | 5000-3400 | 5000-3300 | 復国墩文化 | |||||
| 馬家浜文化 | 5000-3000 | ||||||||
| 4500 | 趙宝溝文化 | 5000-4000 | |||||||
| 4500-4000 | 大汶口文化 | 崧澤文化 | |||||||
| 4300-2600 | 4000-3000 | ||||||||
| 4000 | |||||||||
| 3500 | 屈家嶺文化 | ||||||||
| 紅山文化 | 3500-2600 | 営盤山文化 | |||||||
| (富河文化含む) | 馬家窯文化 | 良渚文化 | 3100頃? | ||||||
| 3000 | 3400-2300 | 3300-2700 | 3200-1800 | 踏泥山文化 | |||||
| 半山文化 | *河南 | 石家河文化 | 宝墩文化 | 石峡文化 | |||||
| 2700-2400 | 龍山文化 | *山東- | 2500-2000 | 2800-2000 | 碾玉磚文化 | ||||
| 2500 | 馬廠文化 | 2800-2000 | 龍山文化 | 青蓮崗文化 | 鳳鼻頭文化 | ||||
| 2400-2000 | 2600-2000 | = (湖北- | 河宕文化 | 白羊村文化 | |||||
| *斉家文化 | 龍山文化) | 3000-.... | 2200-2100 | ||||||
| 2000 | *夏家店下層文化 | 2300-1800 | 2400-2000 | 大龍潭文化 | |||||
| 2000-300 | *二里頭文化 夏朝? | *岳石文化 | 2100-2000 | ||||||
| *四壩文化 | 1900-1500 | 1900-1500 | *馬橋文化 | ||||||
| 1500 | *夏家店上層文化 | 1950-1500 | *二里岡文化 殷朝? | 1800-1200 | *呉城文化 1500- | *四川文化 (三星堆遺跡) |












