メソアメリカ文明
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メソアメリカ文明

メソアメリカ(Mesoamerica)は、メキシコおよび中央アメリカ北西部とほぼ重複する地域において、共通的な特徴をもった農耕民文化ないし様々な高度文明(マヤ、テオティワカン、アステカなど)が繁栄した文化領域を指し、パウル・キルヒホフの文化要素の分布研究により定義された。地理的には、北はメキシコのパヌコ川からシナロア川あたりまで、南はホンジュラスのモタグァ河口あたりからコスタリカのニコヤ湾あたりまでであるが、この境界線は歴史的に一定していたわけではない。
下記のように壮麗な神殿ピラミッドなどを現在も残すメソアメリカ文明が繁栄した地域であるメソアメリカでは、
- 定住農村村落の成立(紀元前2000年以後)
- オルメカ文明(メキシコ湾岸;紀元前1250頃-紀元前後)
- テオティワカン文明(メキシコ中央高原;紀元前後-7世紀頃)
- マヤ文明(メキシコ南東部、ユカタン半島、グアテマラなど;紀元前3世紀-16世紀)
- トルテカ文明(メキシコ中央高原;7世紀頃-12世紀頃)
- サポテカ文明(メキシコ・オアハカ地方;紀元前10世紀-16世紀)
- ミシュテカ文明(メキシコ・オアハカ地方;)
- タラスカ王国(メキシコ西部地域、ミチョアカン州など;)
- アステカ帝国(メキシコ中央高原;15世紀前半-1521年)
などが興亡した。
これらの文化はアジア、ヨーロッパ、アフリカの三大陸の文明との交流を経験せず、地理的に孤立した環境で発展した。そのため、製鉄技術を知らず、宗教においても独自な体系を成立させるなど、他大陸の文明とは際立った特徴を有していた。 神殿文化は紀元前二千年紀の末に起こり、それから約2500年の間、外部世界の影響や干渉を受けることなく自力で発展し続けた。ところが15世紀の末、コロンブスに率いられたスペイン人が突然侵入してきた。
◆オルメカ文明
オルメカ(Olmeca)は、紀元前1200年頃から紀元前後にかけ、先古典期のメソアメリカで栄えた文化・文明である。アメリカ大陸で最も初期に生まれた文明であり、その後のメソアメリカ文明の母体となったことから、「母なる文明」と呼ばれる。

概要
オルメカとは、ナワトル語で「ゴムの国の人」を意味し、スペイン植民地時代にメキシコ湾岸の住民を指した言葉である。巨石や宝石を加工する技術を持ち、ジャガー信仰などの宗教性も有していた。その美術様式や宗教体系は、マヤ文明などの古典期メソアメリカ文明と共通するものがある。
オルメカの影響は中央アメリカの中部から南部に広がっていたが、支配下にあったのは中心地であるメキシコ湾岸地域に限られた。その領域はベラクルス州南部からタバスコ州北部にかけての低地で、雨の多い熱帯気候のため、たびたび洪水が起こった。しかし、河川によって肥沃な土地が形成され、神殿を中心とした都市が築かれた。
オルメカの文化は、出土するさまざまな石像に現れている。人間とジャガーを融合させた神像は、彼らにジャガーを信仰する風習があったことを物語っている。祭祀場では儀式としての球技が行われ、その際には人間が生贄として捧げられた。また、絵文字や数字を用い、ゼロの概念を持つなど、数学や暦が発達していた。
美術
特徴的な美術としては、巨石人頭像やベビーフェイスと呼ばれる石像が挙げられる。大きな石彫だけでなく、ヒスイのような宝石を使った小さなものもあった[3]。
巨石人頭像は、大きいもので3メートルもの高さがある巨大な石像である。胴体は存在せず、頭部だけが作られたものと考えられている。左右に広がった低い鼻や厚い唇といった顔立ちは、ネグロイド的ともモンゴロイド的ともいわれる。
ギャラリー


◆テオティワカン文明

テオティワカン人の宇宙観、宗教観を表す極めて計画的に設計された都市で太陽のピラミッド、月のピラミッドそして南北5キロにわたる道(「死者の大通り」)が基点となり各施設が配置されている。この都市で祀られた神々は、農業・文化と関係深いケツァルコアトルや水神トラロック、チャルチウィトリクエ、植物の再生と関係あるシペ・トテックなどである。
社会についてはあまり知られていないが、規模から考えると神権的な権威が存在し、高度に階層が分化し、発達した統治組織があったものと推測されている。市内には職人の地区が設けられ、盛んな商業と交易の中心地であり、農民たちの巡礼となって集まる信仰の中心地でもあった。
テオティワカンとは、ナワトル語で「神々の都市」という意味で、これは12世紀頃にこの地にやってきて、すでに廃墟となっていた都市を発見した、メシカ人(アステカ人)が命名した。アステカ人はテオティワカンを後々まで崇拝の対象とした。
古代都市テオティワカンとして、1987年に世界遺産(文化遺産)に登録されている。
テオティワカンの歴史
この地は形成期後期にすでに集落があったが、紀元前50年にテスココ湖の南方に立地したクィクィルコ(ナワトル語: Cuicuilco)がシトレ火山(ナワトル語: Xitle)の噴火によって埋まり、またポポカテペトル山も噴火した。このために人々がテオティワカンの地に移住し、テオティワカンは都市として急速に発展した。テオティワカンは西暦紀元前後から7世紀なかばまで都市として使用され、その時期は4期に分けられる。
- ツァクアリ相(1年 - 150年):この時期にテオティワカンははじめて都市として成立し、太陽と月のピラミッドが作られた。
- ミカトリ相(150年 - 200年):南北を結ぶ道路(死者の大通り)が建設された。
- トラミモルパ相(200年 - 350年):交通・水利・祭祀・住宅・産業などのシステムが整備された。
- ショロパン相(350年 - 650年):この時期に人口がもっとも増えた。
テオティワカンは国際的に大きな勢力を持っており、1000キロメートル離れたマヤ地域にも影響は及んだ。378年にはテオティワカン系のシヤフ・カックがエル・ペルーとティカルに侵入し、ティカルの古い石碑を破壊して新しい王朝を建てた。426年にコパンとその衛星都市のキリグアを建設したのもテオティワカン系の人間だったらしい。テオティワカン様式の芸術は古典期マヤ文明に大きな影響を及ぼした。
都市の面積は約20平方キロメートルで、最盛期には、10万から20万人が生活を営み下水網も完備されていた。しかしながら人口の集中に伴い7世紀にはいると急激に衰退し、やがて滅びを迎えた。衰退の主要な原因としては、火事の発生、漆喰の生産のために木材を大量に燃やして森林破壊が起きた、旱魃による農業の衰退、およびそれらに伴う内乱の発生とメスキタル(イダルゴ州)の狩猟採集民の侵入などがあげられる。
主な遺構及び建造物
- 太陽のピラミッド(高さ65m、底辺222m×225m)
- 月のピラミッド(高さ47m、底辺140m×150m)
- 死者の大通り(南北に貫く都市のメインストリート 長さ4km、幅45m)
- ケツァルコアトルの神殿
- ケツァルパパロトルの宮殿
ギャラリー




◆トルテカ文明
トルテカ文明(トルテカぶんめい)は、テオティワカン崩壊後、チチメカ侵入前までの時期に、メキシコ中央高原に盛んに建設された都市「トゥーラ」群がもっていたと考えられる文明。
年代で言えば7世紀頃 - 12世紀頃に当たる。テスカトリポカとトピルツィン・ケツァルコアトルの神官たちによる争いなどの伝承で知られるトルテカ帝国が、メキシコ中央高原を支配したと長い間考えられてきたが、伝承が伝わっているのみで具体的な証拠がなく、その伝承さえ征服後に作られたものらしいという見解もある。
トルテカとはだれか?文明の担い手について
トルテカ文明の担い手であるトルテカ人については、欧米の「主流派」研究者は、トルテカ・チチメカと呼ばれるメキシコ西部のウト・アステカ語族に属するナワトル語を話す半文明化した人々が主であり、ノノアルカと呼ばれる少数であるがプエブラ州およびメキシコ湾岸に住んでいた彫刻や建築をよくする職人的な人々からなるとされてきた[2]。 そして彼らの文化には冶金術とマサパ系土器が伴うとされてきた[3]。
しかし、大井邦明は、この考え方をヒメネス・モレーノが資料操作をおこなったために混乱しているとし、トルテカ人は、もともとテオティワカンにすんでいたケツァルコアトル神をあがめる集団であり、具体的にはオトミ族やマトラツィンカ族であって[4]、コヨトラテルコ式土器を伴い、トゥーラ・シココティトラン、ショチカルコなどの「トゥーラ」(城塞都市)群を中央高原に築いた人々であるとした。
その根拠として、伝承に一種の国譲り的な記述が見られたり、ケツァルコアトル神に創造された人々がトルテカ人であるという記述がみられること、チチメカの移動はどう考えても文献記録からでは11世紀以前にはならないこと 、テオティワカン衰退の契機となった破壊行為は都市全域に及ばずあくまでも中枢部分にとどまること、テオティワカンの全盛期にケツァルコアトル神の神殿が築かれ、やがて破壊されたという出来事があり、ショチカルコは、かって機能したケツァルコアトル神殿の思想的延長上にあること 、古典期後期のマヤにもケツァルコアトル神を思わせるレリーフなどが増加すること、トゥーラ・シココティトランが焼き払われ、破壊された後の上から、「全盛期に使われた土器」であるはずのマサパ系土器が出土することなどを挙げている。
また、侵略者のチチメカ人は、攻撃対象となった都市を「葦が密集するように人の多い場所」という意味のトゥーラと呼び、そこの住民を「トルテカ」と呼ぶ一方で、自分たちを「トルテカ」と自称したため、チチメカ人自身が「トルテカ」であるかのように誤解されるようになった、とする。
◆マヤ文明
マヤ文明(マヤぶんめい)とは、メキシコ南東部、グアテマラ、ベリーズなどいわゆるマヤ地域を中心として栄えた文明である。メソアメリカ文明に数えられる。また、高度に発達したマヤ文字をもつ文明でもあった。




地理
マヤ文明三つの地域
マヤ文明の栄えたマヤ地域は、北から順にマヤ低地北部、マヤ低地南部、マヤ高地の三地域に分かれている。マヤ低地北部は現在のユカタン半島北部に当たり、乾燥したサバナ気候であり、またほとんど河川が存在しないため、生活用水は主にセノーテと呼ばれる泉に頼っている。マヤ低地北部は800年ごろから繁栄期に入り、ウシュマルやチチェン・イッツァ、マヤパンなどの都市が繁栄した。気候が乾燥しているため、乾燥したサバナ気候の影響で特にもっとも乾燥している北西部においては塩が塩田によって大量に生産され、この地域の主要交易品となっていた。
現在のチアパス州北部からグアテマラ北部のペテン盆地、ベリーズ周辺にあたるマヤ低地南部はもっとも古くから栄えた地域で、紀元前900年ごろからいくつもの大都市が盛衰を繰り返した。気候としては熱帯雨林気候に属し、いくつかの大河川が存在したものの、都市は河川のあまり存在しない場所にも建設されていた。交易品としてはカカオ豆などの熱帯雨林の産物を主としていた。この地域は古典期までマヤ文明の中心地域として栄え、8世紀には絶頂を迎えたものの、9世紀に入ると急速に衰退し、繁栄はマヤ低地北部やマヤ高地へと移った。
現在のチアパス州南部からグアテマラ高地、ホンジュラス西部、エルサルバドル西部にあたるマヤ高地は標高が高く冷涼で、起伏は多いが火山灰土壌による肥沃な土地に恵まれ、多くの都市が建設された。マヤ文明においてもっとも重要な資材である黒曜石はマヤ内ではこの地方にしか産出せず、この地方の主力交易品となっていた。低地と異なり、建築物は火山からの噴出物(軽石など)と粘土を練り合わせた材料で作っていた。カミナルフユのように先古典期から発達した都市があったが、古典期の低地マヤの諸都市に見られるような石の建造物や石碑が発達しなかったため、この地域の歴史には今も不明な点が多い。
マヤ文明の歴史
| 時代 | 下位区分 | 年 | |
|---|---|---|---|
| 古期 | 8000–2000 BC | ||
| 先古典期 | 先古典期前期 | 2000–1000 BC | |
| 先古典期中期 | 前期 | 1000–600 BC | |
| 後期 | 600–350 BC | ||
| 先古典期後期 | 前期 | 350–1 BC | |
| 後期 | 1 BC – AD 159 | ||
| 終末期 | AD 159–250 | ||
| 古典期 | 古典期前期 | AD 250–550 | |
| 古典期後期 | AD 550–830 | ||
| 古典期終末期 | AD 830–950 | ||
| 後古典期 | 後古典期前期 | AD 950–1200 | |
| 後古典期後期 | AD 1200–1539 | ||
| 植民地期 | AD 1511–1697 | ||
先古典期前期(紀元前2000年 - 紀元前1000年)
この時期、マヤ高地においては土器が使用されていたものの、マヤ低地においてはいまだ土器が使用されない程度の文化水準となっていた。
先古典期中期(紀元前1000年 - 紀元前350年)
紀元前1000年以降になると、いわゆる「中部地域」で土器が使用されるようになり、間もなく文明が急速に成長し始めた。ナクベやティカルなどの都市に居住が始まったのもこのころである。
先古典期後期(紀元前350年 - A.D.250年)
紀元前400年以降、先古典期後期に入ると都市の大規模化が起こり、現ベリーズのラマナイ(Lamanai)、グアテマラのペテン低地に、ティカル(Tikal)、ワシャクトゥン(Uaxactun)、エル・ミラドール(El Mirador)、ナクベ(Nakbe)、カラクムル(Calakmul)などの都市が大きく成長した。
先古典期マヤ文明の衰退
100年から250年ごろにかけては大変動期に当たり、エル・ミラドールやナクベといった大都市が放棄され、ほかにも多くの都市が衰退していった。こうした変動の中でティカルとカラクムルは大都市として生き残り、次の古典期における大国として勢力を拡大していった。
古典期前期(A.D.250年 - 550年)
開花期の古典期(A.D.250年 - 550年)にはティカル、カラクムルなどの大都市国家の君主が「優越王」として群小都市国家を従えて覇権を争った。「優越王」であるティカルとカラクムルの王は、群小都市国家の王の即位を後見したり、後継争いに介入することで勢力を維持した。各都市では、巨大な階段式基壇を伴うピラミッド神殿が築かれ、王朝の歴史を表す石碑(stelae)が盛んに刻まれた。378年ごろにはメキシコ中央高原のテオティワカンの影響がティカルやコパンなどマヤ低地南部のいくつかの都市に見られ、この時期にテオティワカンから一部勢力がマヤに影響力を行使したことがうかがえる。ただしこうした影響は短期間にとどまり、やがて地元の文化と融合していった。
古典期後期(A.D.550年 - 830年)
古典期後期(A.D.550年-830年)には大都市のカラクムルやティカルのほかにも多くの小都市国家が発展した。このころの大勢力としては、マヤ低地北西部のウシュマル、北東部のコバー、マヤ低地南部では西からパレンケ、ヤシュチラン、カラクムル、ティカル、ペカン、そして南東部に離れたところにあるコパンなどが挙げられる。また、マヤ低地にはエズナやカラコル、アグアテカといった中小都市も多く存在し、興亡を繰り返していた。8世紀はマヤ文化の絶頂期であるといえる。この期の壮麗な建築物、石彫、石細工、土器などの作品にマヤ文化の豊かな芸術性が窺える。また、天体観測に基づく暦の計算や文字記録も発達し、樹皮を材料とした絵文書がつくられた。碑文に刻まれた王たちの事績や碑文の年号表記などから歴史の保存には高い関心を持っていたことが推測できる。通商ではメキシコ中央部の各地や沿岸地方とも交渉をもち、いくつかの商業都市も生まれた。
古典期マヤ文明の衰退
9世紀頃から中部地域のマヤの諸都市国家は次々と連鎖的に衰退していった。原因は、
- 遺跡の石碑の図像や土器から、メキシコからの侵入者があった(外敵侵入説)
- 北部地域に交易の利権が移って経済的に干上がった(通商網崩壊説)
- 農民反乱説
- 内紛説
- 疫病説
- 気候変動説
- 農業生産性低下説
など有力な説だけでも多数ある。しかし、原因は1つでなくいくつもの要因が複合したと考えられている。また、古典期後期の終わり頃の人骨に栄養失調の傾向があったことが判明している。焼畑(ミルパ)農法や、漆喰を造るための森林伐採により、地力が減少して食糧不足や疫病の流行が起こり、さらにそれによる支配階層の権威の失墜と少ない資源を巡って激化した戦争が衰退の主な原因と考えられている。
一方、古典期後期からユカタン半島北部などを含む「北部地域」でウシュマル(Uxmal)、チチェン・イッツァ(Chichien Itza)などにプウク式(Puuc Style)の壁面装飾が美しい建物が多く築かれた遺跡があったことから、文明の重心がマヤ低地南部から北部へと移ったと推測されている。
後古典期(A.D.950年 - 1524年)
後古典期(A.D.950-1524)には、北部でチチェン・イッツァを中心とする文明が栄えた。チチェン・イッツァの衰退後、12世紀ごろにマヤパン(Mayapan)が覇権を握り、15世紀中期までユカタン半島北部を統治した。マヤパン衰退後は巨大勢力はどこの地域にも出現せず、スペイン人の侵入にいたるまで群小勢力が各地に割拠していた。またこの時期は交易が盛んになり、コスメル島(Cozmel Island)などの港湾都市や交易都市が、カカオ豆やユカタン半島の塩などの交易で繁栄した。
スペインによる植民地化
1492年にクリストファー・コロンブスがアメリカ地域に到達したときは、いまだマヤ地域にまでは到達していなかった。ヨーロッパ人がはじめてマヤに姿を現すのは、1517年のフランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバの遠征によってである。この時の遠征は失敗に終わったが、翌1518年にはフアン・デ・グリハルバがトゥルムに到達し、文明の高さに驚嘆している[6]。その後スペイン人による本格的な侵略がはじまり、1524年にはペドロ・デ・アルバラードによってマヤ高地のキチェ人が征服され、この地方はグアテマラとしてスペインの支配下に入った。ユカタン半島北部もまた、フランシスコ・デ・モンテーホによって1527年に侵略が開始されたが、各都市の強い抵抗にあって2度撤退し、1540年にユカタン西岸にカンペチェ、1542年に半島北部にメリダの街を建設して足がかりとし、1546年にこの地方を制圧した。
これらコンキスタドールの活動によってマヤ文明の北部と南部はスペインの支配下に入ったが、密林の広がるマヤ低地南部をはじめとする内陸部の征服は遅れ、この地域にはいまだマヤ文明の諸国が残存していた。これら諸国はその後も150年以上独立を保っていたが、1697年に最も遅くまで自立を保っていたペテン盆地のタヤサルが陥落、マヤ圏全域がスペイン領に併合された。
マヤ文明の標式遺跡
標式遺跡は、グアテマラ、ペテン低地に所在するティカルの北方のワシャクトゥン遺跡である。下記のような先古典期中期から古典期後期までの時期区分名が用いられる。
先古典期中期後半(マモム期)、先古典期後期(チカネル期)、古典期前期(ツァコル期)、古典期後期(テペウ期)
他の遺跡にも独自の時期区分がありつつも比較検討のためにワシャクトゥンの時期区分名が使用される。ただし、ユカタン半島北部やグアテマラ高地の遺跡には適用されない。
マヤ系諸王国
マヤ文明の文化
マヤ文明の政治
マヤ文明が政治的に統一されたことは歴史上一度もなく、各地に無数の小都市が分立する政治体制が作られていた。ただし各都市間に上下がないわけではなく、有力都市が周辺の小都市を従属させて優越王となり、いくつかの大都市の勢力圏に文明圏全域が分割された時期と、小都市国家が並立する時期が存在した。
マヤの王はなかば超自然的な存在とされており、トウモロコシ神と同一視されていた。トウモロコシが地面に植えられて再生するように、死んだ王も復活すると考えられた[10]。王位継承は厳密に父系により、長男に優先順位があった。そうしないと王統が絶える場合にのみ女性が即位した。ただし、古典期後期にはナランホの「6の空」(ワク・チャニル・アハウ)女王やエル・ペルーのカベル女王のように実質的な支配者として君臨した例が見られる。
マヤ文明においては各都市は頻繁に戦争を行っており、これによって勢力圏は大きく変動した。マヤの戦争においては敵の王や貴族などを生け捕りにすることが非常に重要であり、王が捕らえられた都市は威信を大きく落として衰退の道をたどるものが多かった。捕らえられた王や貴族は公衆の前で侮辱され、虐待された後に首をはねられたり、生贄として殺害された。しかし、生きのびて勝者の臣下となり、帰国して復位することもあった。
マヤ文明の道具
マヤ文明はほかのすべての新大陸文明と同様、鉄器を持たず、石器が広く使用されていた。金や銀、銅などの金属使用は9世紀ごろから存在するが、銅器も装飾品としての利用に限られており、基本的には金石併用時代であったといえる。刃物には打製石器が用いられ、材料としては黒曜石とチャートが主なものであったが、もろいものの切れ味の鋭い黒曜石製の石器の方が価値が高かった。しかし黒曜石はユカタン半島においては産出せず、文明圏南部のマヤ高地にのみ産出したため、重要な交易品の一つとなっており、現在のグアテマラ市に位置するカミナルフユやホンジュラス北部に位置するコパンのように、黒曜石の交易を握ることで大都市に発展したところも存在した。装飾品としては貴金属も存在したが、なによりもヒスイが珍重された。また、ケツァールと呼ばれる鳥の尾羽も威信材として珍重された。
交通
マヤ文明には牛や馬のような輸送用の家畜が存在せず、物資の運搬は主に人力によった。例外として河川流域においてはカヌーによる輸送が行われ、また後古典期に入ると海上輸送が成長してトゥルムなどの海港都市も発達するようになったが、海や河川の存在しないマヤ低地の大部分においては最後まで輸送は人力を主としていた。この輸送力不足を補うため、各都市の中心から周辺地域にはサクベと呼ばれる、漆喰や小石による舗装道路が張り巡らされていた。車輪付きの土偶が出土するなど車輪の原理は知られていたが、輸送などに実用化されることはなかった。
産業
農業技術については、地域の特性に合わせた様々な耕作方法が利用された。マヤ文明には他文明のような大河が存在しなかったものの、小規模な河川が流れる地域においてはその水を利用した灌漑農耕がおこなわれた。マヤ低地には河川がほとんど存在しないものの、地盤が石灰岩でできているこれら地方においてはセノーテとよばれる天然の泉が点在しており、その水を利用して農耕を行っていた。山地においては段々畑を作って作物を植え、湿地では、一定の間隔に幅の広い溝を掘り、掘り上げた土を溝の縁に上げその盛り土の部分に農作物を植えた。定期的な溝さらえを行うことにより、肥えた水底の土を上げることによって、自然に肥料分の供給をして、栽培される農作物の収量を伸ばすことができた。また、焼畑(ミルパ)農法もおこなわれた。
家畜として存在したのはイヌだけだった。ほかに野生のシチメンチョウ、ハチ、シカ、パカ、ペッカリー、その他の野鳥や魚が食用とされた[18]。
マヤ文明の食生活
マヤ文明の主食はトウモロコシであり、マヤ地域どの都市においても経済の根幹をなすもので、例外なく広く栽培された。トウモロコシはアトレというトウモロコシ粥やタマルと呼ばれる蒸し団子として主に食された。トルティーヤもマヤ高地においては先古典期より食べられていたが、マヤ低地においてはアトレやタマルが主であり、トルティーヤが食べられるようになるのは後古典期に入ってからだった。このほか、各種の豆やカボチャも重要な作物であり、広く栽培された。マヤ文明においてはラモンの木の実が主食となっていたという説が唱えられたこともあったが、当時の地層(日本考古学用語では「土層」)からほとんど出土しないために食糧としてはそれほど使用されていなかったと考えられている[20]。香辛料としてはトウガラシが重要だった。マゲイ(リュウゼツラン)の蜜水からつくられるプルケや、蜂蜜からつくられるバルチェ酒という蜂蜜酒は儀礼に用いられた。タバコも重要な儀礼用作物であった。7世紀ごろのパレンケにおいてはすでに神がたばこをくゆらすレリーフが発見されており、このころにはすでに喫煙の習慣がはじまっていたことを示している。
カカオは飲料の材料として珍重されており、文明末期には通貨としても使用されていた。カカオは高温多湿のマヤ低地南部における主要交易品ともなっていた。蜂蜜も低地東部において生産され、貴重な甘味として交易品の一つとなっていた。家畜も存在せずなおかつ飼う習慣もなかったために乳製品の飲食文化は全く存在せず、また動物性食品は食したものの都市周辺の開発の進化によって狩猟対象となる野生動物が激減したため肉の消費は少なく、植物性食品が食生活の中心となっていた。衣料原料としては綿花がマヤ地域の全域で栽培された。
交易
マヤにおいて交易は重要であり、北部の塩や中部のカカオ、南部のヒスイや黒曜石などが盛んに交易された。この交易網はマヤ都市間のみにとどまらず、メキシコ高原や中央アメリカといった近隣地域、さらにはアメリカ西部で産出されるトルコ石がマヤ遺跡から出土していることから、近隣文明も含めた大規模な交易網が確認できる。メキシコ高原の諸文明とのかかわりは特に深く、4世紀中ごろにはメキシコ中央高原のテオティワカンの影響がマヤ低地南部のいくつかの土地に見られ、またチチェン・イッツァにおいてトルテカ文明との交流の痕跡が認められるなど、中央高原の諸文明がマヤ諸都市になんらかの政治的影響を与えたとみられる時期も存在する。ただしメキシコ中央高原とマヤ諸都市が同一の政治権力の元に統合されたことはなく、15世紀後半から活発に勢力を拡大したアステカ帝国も、マヤに対しては活発に交易を行うだけで軍事的侵攻を行うことはなかった。
マヤ文明の建築
マヤ文明の多くの都市にはピラミッドが建設されていた。ただしエジプトのものとは違い、上部に神殿が建設されており、その土台としての性格が強かった。最古のマヤのピラミッドは、紀元前1000年ごろのセイバル遺跡で確認されたものである。こうしたピラミッドはウィツ(山)と呼ばれていたように、山岳信仰の影響のもとで人工の山として作られたものだった。こうしたピラミッドは、古いピラミッドを基礎としてその上に新たなピラミッドを作ることが常であり、2016年11月にはチチェン・イッツアで、2層のピラミッドの下に3層目のピラミッドが発見されたと報じられた。

建築技術も進んでおり、持ち送り式アーチ工法など高度な建築技術を持っていた。
マヤ文明の数学・文字
マヤ文明では二十進法を使用しており、また独自に零の概念を発明していた。また、高度に発達したマヤ文字を使用していた。数字は、点(・)を1、横棒(-)を5として表現したり、独特な象形文字で表現された(en:Maya script#Numerical system)。

マヤのカレンダー
マヤの暦としてもっとも基本的な暦はツォルキンとハアブの2つである。前者は一周期を260日(13の数字と20の日が毎日変化する)の周期で、宗教的、儀礼的な役割を果たしていた。後者は1年(1トゥン)を360日(20日の18ヶ月)とし、その年の最後に5日のワイエブ月(ウェヤブ)を追加することで365日とするものである。ツォルキンとハアブの組み合わせが1旬するのには約52年(365×52 = 260×73)かかり、これをカレンダー・ラウンドという。
なお、この2種類の暦はマヤに固有のものではなく、メソアメリカ全体で用いられた。スペインによる植民地化の後も、20世紀ごろになるまで簡易化した形で残っていた。
ツォルキンとハアブのほかに、紀元前3114年に置かれた基準日からの経過日数で表された、長期暦と呼ばれるカレンダーも使われていた。これもマヤに固有のものではないが、石碑、記念碑、王墓の壁画などに描かれていて、年代決定の良い史料となっている。この暦は次のように構成されている。
| 日 | 長期暦の周期 | 長期暦の単位 | 年 | バクトゥン |
|---|---|---|---|---|
| 1日 | 1 (キン)Kin | |||
| 20日 | 20(キン)Kin | 1 (ウィナル)Uinal | ||
| 360日 | 18 (ウィナル)Uinal | 1(トゥン)Tun | ~1 | |
| 7200日 | 20(トゥン)Tun | 1(カトゥン)Ka'tun | ~19.7 | |
| 144000日 | 20(カトゥン)Ka'tun | 1(バクトゥン)Bak'tun | ~394.3 | 1 |
| 2880000 | 20(バクトゥン)Bak'tun | 1 Pictun | ~7,885 | 20 |
| 57600000 | 20 Pictun | 1 Kalabtun | ~157,808 | 400 |
| 1156000000 | 20 Kalabtun | 1 K'inchiltun | ~3,156,164 | 8,000 |
| 23040000000 | 20 K'inchiltun | 1 Alautun | ~63,123,288 | 160,000 |
ハアブ暦の閏については、そのずれを調整しなかったが、新月が全く同じ月日に現れるメトン周期(6939.6日)を把握していたことが、ドレスデン・コデックスやコパンの石碑に19.5.0.すなわち360×19トゥン+20×5ウィナル=6940キン(日)の間隔を記載することによって実際には季節のずれを認識していた可能性やパレンケの太陽の神殿、十字架の神殿、葉の十字架の神殿の彫刻に長期暦の紀元の記載とハアブ暦と実際の1年の値である365.2422日との差が最大になる1.18.5.0.0.(長期暦の紀元から約755年経過した時点)の記載があり、これもマヤ人が1年を365日とした場合の季節のずれを認識していた証拠とも考えられる。
かつては、現在通用しているグレゴリオ暦の365.2425日(400年間に97日の閏日)よりも真値に近い、365.2420日がその答えとされていた。これは、化学工学技術者のジョン・E・ティープルが1930年代に唱えた決定値理論と呼ばれる説で、アメリカのマヤ学の権威とされたエリック・トンプソンが認めたため、現在でも流布している説であるがその誤りが判明している。カラクムル遺跡にある15回目のカトゥン(9.15.0.0.0.,731年)を祝う石碑が7本あるが、その1年前に修正がなされており、太陽年を意識して201日分を加えている。これを太陽年を最初から想定していたとすると1年を365.2421日(3845年間に931日の閏日)としていたことになる。また、キリグアの785年を刻んだ石彫で、212日を追加する修正が見られる。グレゴリオ暦では、215日であり、太陽年で正確に計算すると214日の誤差となる。これを太陽年を想定した1年の日数とすると365.2417日(3898年間に942日の閏日)になる。単純に考えれば肉眼のみの観測で非常に精度が高い値で修正を行っていること自体は驚くべきであるが、実際にはグレゴリオ暦のように暦の1年を意識して計算しているものではないため、精度の高い暦を使っていたということはできない。
マヤ暦の終わり
ニューエイジ関連の書物ではマヤの長期暦は2012年の冬至付近(12月21日から23日まで)で終わるとされ、その日を終末論と絡めた形でホピ族の預言も成就する(2012年人類滅亡説)とする。しかし、フォトンベルトの存在は皆無に等しく、フォトンベルト関係の予言は非常に信憑性に欠けた予言であり、さらにマヤの暦は現サイクルが終了しても新しいサイクルに入るだけで永遠に終わらないという見方もあり、多くのマヤ文明の研究家たちも終末説を否定している。
また、2010年から2011年にかけてグアテマラ北部の9世紀頃の遺跡を調査したアメリカの発掘チームは、月や惑星の周期を計算したマヤ最古のカレンダーを発見し、その結果、2012年の終末を窺うものは見つからなかったと2012年5月11日付の米科学誌サイエンスに発表した。
この他、カール・コールマンの計算によると「マヤ暦の最終日は2011年10月28日」との説もあった。
★チチェン・イッツァ
チチェン・イッツァ(スペイン語: Chichén Itzá)は1988年に世界遺産に登録されたメキシコのマヤ文明の遺跡。チチェン・イッツア、チチェン・イツァーとも表記する。
ユカタン半島のユカタン州州都メリダの東、約120キロメートルにある後古典期マヤの遺跡で総面積は約1.5平方マイル。半島のつけ根の密林にある。現在、高速道路により分断されているが、北部はトルテカ期、南部にはプウク期の建物が残っており、南北での町の構成がはっきりと違いを見せている。
チチェン・イッツァとはユカタン語で「イツァ人の湖の畔」を意味する

歴史
古典期を代表するティカルなどのマヤ中央部の諸都市は9世紀に崩壊して、ほとんど無人に近い状態になり、後古典期には北部と南部高地に人口が集中した。チチェン・イッツァは北部マヤの中心地であるが、その遺物は中央メキシコ(トルテカ)の強い影響を受けて、マヤとメキシコの混合した国際的な特徴を示す。
プウク式の建物に残る碑文は多くカクパカル・カウィール(在位869-881ごろ)に関連する。
13世紀以降になるとチチェン・イッツァは衰退し、中心地は西のマヤパンに移るが、マヤパンもシウ家の攻撃によって1441年ごろに放棄された。チチェン・イッツァがいつ滅んだかは不明だが、セノーテ(井戸)はスペイン人による植民地化の後も長く巡礼地として機能した。
カスティーヨ
マヤの最高神ククルカン(羽毛のあるヘビの姿の神。ケツァルコアトルのマヤ語名)を祀るピラミッド。基底55.3メートル四方、高さ24メートル(頂上の神殿部分は6メートル)。通称の「カスティーヨ」はスペイン語で城塞の意。「ククルカンのピラミッド」、「ククルカンの神殿」とも呼ばれる。
大きな9段の階層からなり、4面に各91段の急な階段が配されていて、最上段には真四角な神殿がある。ピラミッドの階段は、4面の91段を合計すると364段で、最上段の神殿の1段を足すと、ちょうど365段である[5]。また1面の階層9段は階段で分断されているので合計18段となり、これらはマヤ暦の1年(18か月5日)を表す。このことから「暦のピラミッド」とも呼ばれる。北面の階段の最下段にククルカンの頭部の彫刻があり、春分の日・秋分の日に太陽が沈む時、ピラミッドは真西から照らされ階段の西側にククルカンの胴体(蛇が身をくねらせた姿)が現れ、ククルカンの降臨と呼ばれている。
カスティーヨ内部には初期のトルテカ=マヤ方式のピラミッドが内蔵されており、この神殿にはジャガーをかたどった玉座や生贄の心臓を太陽へ捧げたチャクモール像が置かれている。
球戯場

球戯場はほとんどのマヤ遺跡に存在するが、チチェン・イッツァのものは特に大きい。
マヤの球戯は2つのチームに分かれ、ゴムで作られた非常に重いボールを腰で打って相手側のコートに入れる。チチェン・イッツァの球戯場には両側の高さ6メートルの所に石の輪があり、これは後古典期の特徴である。輪の中にボールを通すと即座に勝ちになったらしいが、現実に行うことは困難と思われる。
試合が白熱するほど雨が降り豊作になると信じられていた。勝敗で生贄になる者が決まったとされるが、勝った側が生贄になったとも負けた側が生贄になったともいわれており、ここは現在でもはっきりしていない。
セノーテ(聖なる泉)
チチェン・イッツァ周辺には川や湖沼がなく、石灰岩の岩盤が陥没して地下水が露呈した天然の湖セノーテが唯一の水源であった。700年頃から宗教儀礼に用いられるようになり、雨が降らない時や豊作を願う時、雨と嵐と稲妻の神チャークの予言を伺うために、財宝や生贄の人間が投げ込まれたという。スペイン征服時のスペイン人の記録によれば、吉兆を占うために、定められた日に女性を放り込んだとしている。また、この記録によれば、この女性は後に泉から引き上げられ、吉兆を語ったとされている。後にアメリカの探検家エドワード・トンプソンがこの泉にもぐり、人骨やたくさんの財宝を発見した。
なお、これに似たもので、人の心臓が捧げられた戦士の神殿がある。
天文台
エル・カラコルというあだ名のつけられた「天文台」は906年に建設された。約9メートルの岩の上に建てられ、高さは約13メートル。中心部に螺旋階段が作られており、ドーム部には縦に細長い窓の作られた厚い壁で構築されている。なお、この窓は天体観測における重要な照準線になっており、西側は春分と秋分の日没、月が最北端に沈むときの方向2つを確認することができる。その他、基壇となっている岩の北東隅は夏至の日の出、南西隅は冬至の日の出の方角をそれぞれ差している。
◆アステカ文明
アステカ(Azteca、古典ナワトル語: Aztēcah)とは1428年頃から1521年までの約95年間北米のメキシコ中央部に栄えたメソアメリカ文明の国家。メシカ(古典ナワトル語: mēxihcah メーシッカッ)、アコルワ、テパネカの3集団の同盟によって支配され、時とともにメシカがその中心となった。言語は古典ナワトル語(ナワトル語)。




「アステカ」という名称
「アステカ」という名称は19世紀はじめのアレクサンダー・フォン・フンボルト(ドイツの博物学者兼探検家である)が名付けた造語で、自称ではない。民族の伝説上の故地であるアストランに由来する名称だが、メシカの人々はアストランを去った後に新しい民族としてのアイデンティティを得たのであって、故地によって名前をつけるのは適切ではないという批判がある[1]。それ以外にも、言語・地理・政治・民族・土器の種類などのどれを基準としてアステカと言っているのかわからない、範囲としてもメシカのみを指す場合もあれば、メキシコ盆地のすべての人を指す場合もあれば、ナワトル語話者すべてを指す場合もあれば、アステカ三国同盟を指す場合もあれば、マヤとオアハカ州の住民を除くメソアメリカすべての人々を指す場合もある、という問題がある。とはいえ、アステカという言葉は長く使われているために、にわかに変えられないが、より明確にするためには以下のような語を用いることができる。
- 地理的名称としては中央メキシコ、またはその中のメキシコ盆地など
- 民族名としてはナワ族、またはその一部であるメシカ(ただし「ナワ」は研究者による呼称であり自称ではない)
- 言語名としてはユト・アステカ語族のナワ語群、またはその一部であるナワトル語
アステカ文明の歴史
建国
歴史的には、アステカ人の移動と定住は12世紀ごろより続いた北部からのチチメカ人の南下・侵入の最後の1章にあたる。アステカ神話によればアステカ人はアストランの地を出発し、狩猟などを行いながらメキシコ中央高原をさまよっていた。やがてテスココ、アスカポツァルコ、クルワカン、シャルトカン、オトンパンなどの都市国家が存在するメキシコ盆地に辿りつき、テスココ湖湖畔に定住した。1325(または1345)年、石の上に生えたサボテンに鷲がとまっていることを見たメシカ族は、これを町を建設するべき場所を示すものとしてテスココ湖の小島に都市・テノチティトランを築いた。その後、一部が分裂して近くの島に姉妹都市・トラテロルコを建設したとされる。
アスカポツァルコの属国として
アステカはメキシコ盆地の最大勢力であるテパネカ族の国家アスカポツァルコに朝貢してその庇護を受けていたが、1375年アカマピチトリはアスカポツァルコ王国の許可を得て国王(トラトアニ)に即位し、世襲の王族となった。当時のアスカポツァルコ王テソソモクは一代の英主であり、彼の時代にアスカポツァルコはメキシコ盆地のかなりの部分を制圧する。アステカはアスカポツァルコの属国として兵員を提供する義務があったが、やがてアスカポツァルコの許可のもと、アステカは独自に出兵を行うようになり、テスココ湖の南部にあるいくつかの集落を領土にくわえた。こうして、アカマピチトリはアスカポツァルコの属国として領土を拡張することで国力を増加させた。
1396年にアカマピチトリが死去すると、その子であるウィツィリウィトルが長老による評議会によって王に選出された。ウィツィリウィトルも父同様アスカポツァルコに従い、その過程で領土を拡大した。このころ、アスカポツァルコ最大のライバルはテスココ湖東岸のアコルワ人の都市テスココとなっていた。テスココ王のイシュトリルショチトル・オメトチトリはチチメカの王を称し、アスカポツァルコと対決する姿勢を取った。イシュトリルショチトルの妻はアステカの有力者であるチマルポポカの娘であり、この姻戚関係を利用してテスココはアステカに共闘を呼び掛けたが、1417年にアステカの第三代国王に就任したチマルポポカは、アスカポツァルコとの同盟を堅持してテスココと敵対する方針を取った。
1418年、アスカポツァルコとテスココはついに開戦し、アスカポツァルコが勝利。イシュトリルショチトルは殺害され、息子のネサワルコヨトルは逃亡してテスココはアスカポツァルコの支配下に入った。この戦いでアステカは大きな役割を果たし、アスカポツァルコの最有力の同盟都市のひとつとなった。
アステカの覇権
1426年にテソソモクが死亡すると、アスカポツァルコ王にはテソソモクの息子であるマシュトラが即位したが、権力闘争が激化し、その過程でチマルポポカも暗殺された。かわって1427年に王位についたイツコアトルはアスカポツァルコへの敵対を強め、一触即発の雰囲気となった。この時テスココの旧主であるネサワルコヨトルが同盟案を携えてテノチティトランを訪れ、アステカに援助を要請した。この案は受け入れられ、まずアステカ軍はテスココへ侵攻してネサワルコヨトルを支配者とし、その後両都市と、さらに湖の西岸にあるテパネカ人の都市トラコパンの三都市が同盟を結んでアスカポツァルコへ侵攻し、1428年に滅亡させた。こうしてアステカはテスココと共闘してアスカポツァルコを倒し、湖の西岸にあるトラコパンを加えてアステカ三国同盟を結成した。これがいわゆる「アステカ帝国」である。こののちアステカの勢力がほかの二都市を圧して伸びていくものの、国制上はアステカは最後までアステカ(テノチティトラン)・テスココ・トラコパンの三都市同盟だった。アスカポツァルコ崩壊後、三都市はその領土を分割し、テスココは湖の東部を、トラコパンはアスカポツァルコを含む湖の西部を、そしてテノチティトランは湖の北部と南部の支配権を得た。この勢力図はその後も継承され、各都市はそれぞれその方向に勢力を拡大していった。
アスカポツァルコを滅ぼし覇権を握ると、イツコアトルは勢力拡大に乗り出した。まず最初に手を付けたのが、ネサワルコヨトルへの軍事援助とテスココ湖南部への出兵である。テスココを奪回したばかりのネサワルコヨトルはいまだ安定した勢力基盤を築き上げておらず、このためイツコアトルはネサワルコヨトルへの援軍としてテスココ湖東部のアコルワ人地域への出兵を行い、この地域をテスココの勢力範囲として確定させた。アコルワ人地域の制圧をもって、1431年にネサワルコヨトルはテスココ王に正式に即位した。一方テノチティトラン独自の動きとしては、テスココ湖南部のソチミルコ地域へ出兵し、この地域を完全にアステカの支配下においた。この地域はチナンパ畑の広がる非常に肥沃な穀倉地帯であり、ここを制圧したことでアステカの食糧事情は大幅に改善され、また同盟の他二都市に対する優位を保つ力の源泉ともなった。この地域を制圧するとすぐにイツコアトルはテノチティトランとテスココ湖南部のイツタパラパンとを結ぶ土手道を築き、これによってテノチティトランから帝国南部への交通が大幅に改善されたほか、淡水のテスココ湖南部と塩水のテスココ湖北部の水が交わるのを防ぎ、南部の農業生産に改善をもたらした。1433年にはさらにメキシコ盆地の南にあるクアナウワク(現在のクエルナバカ)地方に同盟三都市で共同出兵して占領し、これがアステカの領土拡大の端緒となった。アステカ王イツコアトル・テスココ王ネサワルコヨトル・トラコパン王トトキルワストリの三者同盟は強固なものであり、特にテスココ王のネサワルコヨトルは法治システムや征服した領内の旧支配者を復位させて間接統治するシステムの整備、さらにはテスココ湖内の堤防建設などによってアステカの基礎を固めるのに大きな役割を果たした。
1440年、イツコアトルの後を継いでモクテスマ1世が即位する。モクテスマ1世はまず南に隣接する地域(現在のモレロス州やゲレーロ州北部)などの支配を固めるとともに、ネサワルコヨトルの支援を得てテスココ湖を南北に分断する堤を築いた。この堤によってテスココ湖の水位調節がうまくいくようになったほか、テスココ湖中部のテノチティトラン周辺の湖水の塩分濃度を下げ、農業用水の確保も可能になった。統治が固まると、モクテスマ1世は遠征を頻繁に行い、メキシコ湾岸の熱帯地方を占領・従属させて勢力を拡げた(花戦争)。また、南東のミシュテカ人地方にも侵攻し、商業都市コイシュトラワカをはじめとするいくつかの地域を支配下におさめた。征服した土地に対して貢ぎ物を要求したが統治はせず、自治を許していた。被征服地は度々反乱を起こしたが、武力で鎮圧された。1469年にモクテスマ1世が死去したころには、現在のベラクルス州の大半にあたる太平洋岸地区や、プエブラ州の南部、オアハカ州の一部までがアステカ領となっていた。
1469年、モクテスマ1世の死去に伴いアシャヤカトルが即位した。彼もまた周辺地域に盛んに出兵し、征服を行った。1472年にはテスココ国王であり、長年アステカ三国同盟の重鎮であったネサワルコヨトルが死去した。1473年には、アステカ内の2大都市であり、徐々に対立を深めていたテノチティトランとトラテロルコの間で内戦がおこった。この内戦は短期間で終わり、テノチティトランの優位が確立された。国内の再統一を済ませると、アシャヤカトルは西へと侵攻し、1475年から1476年にかけての戦いでトルーカを征服し、西に隣接する大国タラスコ王国へと侵攻したものの、大敗を喫した。1479年には、太陽の石を奉納している。
1481年にアシャヤカトルが死去するとその弟であるティソクが即位したものの、彼は軍事的には無能であり、1486年に暗殺された。
1486年にティソクの弟であるアウィツォトルが即位すると、再び軍事的拡張が再開した。彼の代にアステカ帝国の領土は太平洋沿岸の熱帯地方まで到達した。アステカの支配地域は太平洋岸に沿って西に細く伸びるようになったが、これは西の大国タラスコ王国への侵攻拠点とする目的も持っていた。治世の末期には南東方向へも進出し、現在のチアパス州南端にあたりカカオの大生産地であったソコヌスコまでを征服したが次第に前線が遠くなるにつれ兵站の問題が発生し、それ以上先へ進むことは出来なかった[11]。この遠征の指揮官は、次の国王となるモクテスマ・ショコヨツィンであった。アウィツォトルの治世には、それまでテノチティトランなどの帝国中心都市のみに限られていた神殿の建設などの公共事業も積極的に推し進められ、宗教的な統一が図られるようになった。
1502年、アウィツォトルが死去し、モクテスマ・ショコヨツィンがモクテスマ2世として王位につくと南方の太平洋沿岸へ遠征を行い、ヨピ人などを服従させて新たな領土を獲得した。しかし、南端のトトテペク王国は抵抗を続けた。モクテスマ2世は儀礼の強化などにより貴族と平民の間の差を確立する政策を取った。また、モクテスマ2世は優れた指揮官であり、彼の時代にオアハカの大部分がアステカ領となり、また周辺諸国へも積極的に出兵していった。
1519年にエルナン・コルテス率いるスペイン人が到来した時点で、アステカの支配は約20万平方キロメートルに及び首都テノチティトランの人口は数十万人に達し、当時、世界最大級の都市であった。中心部には神殿や宮殿が立ち並び市もたって大いに繁栄した。この時アステカの勢力は絶頂に達しており、領域は本来の領土であるメキシコ盆地をはるかに越え、現在のメヒコ州、モレロス州、プエブラ州、ゲレロ州、オアハカ州、ベラクルス州、イダルゴ州の大部分、ケレタロ州の南部、チアパス州の海岸部を支配下におさめ、メキシコ中部をほぼ統一する中央アメリカ最大の帝国を築き上げていた。ただし、トラスカラ州にはトラスカラ王国が割拠しており、アステカと激しい戦いを連年つづけていた。また、西部のタラスコ王国との戦いも膠着していた。東に広がる後古典期のマヤ文明の諸国には進軍することはなかったが、商人(ポチテカ)による交易ネットワークによって結ばれていた。1519年の状況はこのようなものであり、近隣諸国でアステカを打倒しうる勢力は存在せず、統治システムにも綻びは見られなかった。
スペインのアステカ帝国征服
「一の葦」
アステカには、かつてテスカトリポカ(ウィツィロポチトリ)神に追いやられた、白い肌をもつケツァルコアトル神が「一の葦」の年(西暦1519年にあたる)に戻ってくる、という伝説が存在した。帰還したケツァルコアトルが、かつてアステカに譲り渡した支配権を回復すると信じられていた。「一の葦」の年の10年前には、テノチティトランの上空に突然大きな彗星が現れた。また女神の神殿の一部が焼け落ちてしまった。その後も次々と不吉な出来事が起こった。アステカ人たちは漠然と将来に不安を感じていた。そうした折であった「一の葦」の年の2年前(1517年)から東沿岸に現れるようになったスペイン人は、帰還したケツァルコアトル一行ではないかと受け取られ、アステカのスペイン人への対応を迷わせることになった。
アステカの滅亡
メソアメリカ付近に現れたスペイン人は、繁栄する先住民文化をキューバ総督ディエゴ・ベラスケスに報告した。1519年2月、ベラスケス総督の配下であったコンキスタドールのエルナン・コルテスは無断で16頭の馬と大砲や小銃で武装した500人の部下を率いてユカタン半島沿岸に向け出帆した。コルテスはタバスコ地方のマヤの先住民と戦闘を行い(セントラの戦い)、その勝利の結果として贈られた女奴隷20人の中からマリンチェという先住民貴族の娘を通訳として用いた。
サン・フアン・デ・ウルア島に上陸したコルテスは、アステカの使者からの接触を受けた。アステカは財宝を贈ってコルテスを撤退させようとしたが、コルテスはベラクルスを建設し、アステカの勢力下にあるセンポアラの町を味方に付けた。さらにスペイン人から離脱者が出ないように手持ちの船を全て沈めて退路を断ち、300人で内陸へと進軍した。コルテスは途中の町の多くでは抵抗を受けなかったが、アステカと敵対していたトラスカラ王国とは戦闘になり、勝利し、トラスカラと和睦を結んだ。10月18日、チョルーラの虐殺が起きた。1000人のトラスカラ兵と共にメキシコ盆地へと進軍した。
1519年11月18日、コルテス軍は首都テノチティトランへ到着し、モクテスマ2世は抵抗せずに歓待した。コルテス達はモクテスマ2世の父の宮殿に入り6日間を過ごしたが、ベラクルスのスペイン人がメシカ人によって殺害される事件が発生すると、クーデターを起こしてモクテスマ2世を支配下においた。
1520年5月、ベラスケス総督はナルバエスにコルテス追討を命じ、ベラクルスに軍を派遣したため、コルテスは120人の守備隊をペドロ・デ・アルバラードに託して一時的にテノチティトランをあとにした。ナルバエスがセンポアラに駐留すると、コルテスは黄金を用いて兵を引き抜いて兵力を増やした。雨を利用した急襲でナルバエスを捕らえて勝利すると、投降者を編入した。
コルテスの不在中に、トシュカトルの大祭が執り行われた際、アルバラードが丸腰のメシーカ人を急襲するという暴挙に出た(トシュカトル大祭の虐殺)。コルテスがテノチティトランに戻ると大規模な反乱が起こり、仲裁をかって出たモクテスマ2世はアステカ人の憎しみを受けて殺されてしまう(これについては、スペイン人が殺害したとの異説もある)。1520年6月30日、メシーカ人の怒りは頂点に達し、コルテス軍を激しく攻撃したので、コルテスは命からがらテノチティトランから脱出した。この出来事をスペイン人は「悲しき夜(ノチェ・トリステ)」と呼ぶ。王(トラトアニ)を失ったメシーカ人はクィトラワクを新王に擁立して、コルテス軍との対決姿勢を強めた。7月7日、オツンバの戦い。
1521年4月28日、トラスカラで軍を立て直し、さらなる先住民同盟者を集結させたコルテスはテテスコ湖畔に13隻のベルガンティン船を用意し、数万の同盟軍とともにテノチティトランを包囲した(テノチティトラン包囲戦)。1521年8月13日、コルテスは病死したクィトラワク国王に代わって即位していたクアウテモク王を捕らえアステカを滅ぼした。
植民地時代の人口減少
その後スペインはアステカ帝国住民から金銀財宝を略奪し徹底的に首都・テノチティトランを破壊しつくして、遺構の上に植民地ヌエバ・エスパーニャの首都(メキシコシティ)を建設した。多くの人々が旧大陸から伝わった疫病に感染して、そのため地域の人口が激減した(但し、当時の検視記録や医療記録からみて、もともと現地にあった出血熱のような疫病であるとも言われている)。
その犠牲者は征服前の人口はおよそ1100万人であったと推測されるが、1600年の人口調査では、先住民の人口は100万程度になっていた。スペイン人は暴虐の限りを尽くしたうえに、疫病により免疫のない先住民は短期間のうちに激減した。
アステカの社会構造
国制
アステカは国制上はメシカ人のテノチティトラン・アコルワ人のテスココ・テパネカ人のトラコパンの三都市同盟であり、それは1428年の同盟締結から1521年の帝国滅亡にいたるまで全く変わらなかった。同盟内でテノチティトランに次ぐ勢力を持ったのはテスココで、学問や文化の中心地となっていた。とくにテスココ王のネサワルコヨトルは政治・文化面で様々な貢献をなした名君であり、その子であるネサワルピリも名君として知られ、この2代においてはテスココはアステカに対抗しうる力を持った存在であった。トラコパンはこの三都市中では最も勢力が弱く格下扱いとなっていた。しかし、徐々にテノチティトランおよびトラテロルコを中心とするメシカ(アステカ)が勢力を拡大していき、三都市同盟を代表するようになっていった。アステカ帝国の歴代君主とはすなわちメシカ人のトラトアニを指す。かなりの独立性を持っていたテスココも、ネサワルピリの死後急速にアステカの支配権が強まっていった。
三都市はそれぞれ自都市に属する属国を持っており、そこから貢納を受け取っていた。各属国の王は以前からその土地を支配していた王であることもあったし、宗主国から任命された支配者であることもあった。各都市はそれぞれ領域を広げていったが、アステカ帝国の特徴としては、帝国内に多数の独立勢力を抱えていたことである。トラスカラ王国などのこういった独立勢力は、アステカと激しい戦闘を繰り広げ、周辺地域がすべてアステカの支配下に落ちても抵抗を続けていた。これらの独立勢力はやがてスペイン人の侵入時にスペインと同盟を結び、兵力・物資の供給地並びに根拠地として、アステカ滅亡に大きな役割を果たした。また、周辺諸地域への支配は厳しく、しばしば反乱が起き、それに対する再征服もよくあることであった。こうした支配地域の反感は、スペイン人侵入時にそれら地域の離反という形で現れ、帝国の急速な瓦解の一因となった。
アステカの階級社会
アステカでは多神教に基づいた神権政治が行われ、王(トラトアニ)は王家の中から選ばれた。王であるトラトアニはもともと外務をつかさどる長であり、内務をつかさどる長であるシワコアトルとは対になる存在であった。シワコアトルの地位にはアステカ帝国成立期にはイツコアトルの弟であるトラカエレルが就いており、強い権限をいまだ保持していたが、トラカエレルの死後にその地位は急速に低落し、スペイン人が到来したころにはトラトアニは完全な絶対君主となっていた。貴族階層には、世襲貴族に加え、戦争などで功績をあげて平民から引き上げられた貴族が存在した。大多数の平民はマセワルであった。さらに商人(ポチテカ)は、平民ではあるが特別な法や神殿を持つ特権集団を形成していた。最下級に戦争捕虜や負債などのために身売りした奴隷(トラコトリ)が存在した。奴隷は自由身分に解放されることもあったが個人の所有物として相続の対象とされた。
軍国主義
アステカは軍国主義の色彩の強い国家であった。この性格は終末古典期以降のメソアメリカの諸国家に特徴的であり、アステカはテオティワカン衰退後の終末古典期から後古典期の中でとりわけ強大な国家であった。ジャガーの戦士や鷲の戦士を中核とする強力な軍隊が征服戦争をくり返し諸国民に恐れられ、服属する国家から朝貢を受ける見返りに自治を与えて人民を間接統治した。諸国を旅する商人は時に偵察部隊としての役割も果たし、敵情視察や反乱情報の収集に従事した。武器としては鉄器は存在せず、青銅器も武器には使用されず、黒曜石による石器が中心であり、黒曜石の刃を木剣に挟んだマカナや、木製の柄の先に黒曜石の刃を付けた石槍であるホルカンカやテポストピリー、手持ちの投槍器であるアトラトルなどが主な武器であった。
アステカの道路網整備と経済の発達

アステカは軍隊の迅速な移動を可能にするため道路網を整備していた。この道路網を通じて諸地域の産物がアステカに集まりその繁栄を支えた。テノチティトランの中心部では毎日市場が開かれたという。基本的な商業活動は物々交換であったが、カカオ豆が貨幣として流通し、カカオ豆3粒で七面鳥の卵1個、カカオ豆30粒で小型のウサギ1匹、カカオ豆500〜700粒で奴隷1人と交換できた。トウモロコシや芋類・豆類などの農産物、プルケ酒やタバコなどの嗜好品、専門の職人によって製作された質の高い陶製品やさまざまな日用品が、市場で売買されていた。こうした地域に根付いた商業のほか、長距離交易も行われていた。長距離交易はポチテカによって行われており、ケツァールの羽やヒスイ、カカオといった熱帯産の高級品を主に取り扱っていた。こうした商品の主な産地は東方のマヤ文明の諸都市やその近隣地方であった。また、支配下諸地域からの貢納もこの道路網を利用して行われており、持ち込まれる大量の貢納品はアステカ経済の大きな一部分をなしていた。
食料
アステカの食糧生産の基盤は、高い生産性を誇るチナンパ農業である。アステカの覇権以前はテノチティトランの島内にチナンパが造成されていたものの、テノチティトラン・トラテロルコ両市の食糧をまかなうにはとても足りず、食糧の安定供給は急務となっていた。アステカが覇権を握ると勢力圏内に積極的にチナンパの造成を始め、とくにテスココ湖の南部には大規模なチナンパ地帯が造成されて穀倉地帯となっていた。このほか、テスココ支配下のアコルワ人地域では段々畑が造成されるなど、食糧供給と農業開発にアステカの歴代君主は心を砕いた。
アステカの中心作物はトウモロコシであり、これは主穀であり経済の基盤ともなっていた。トウモロコシは粥やタマル(団子)、トルティーヤにして食べられていた。このほか、アステカで主に栽培されていた作物にはトウガラシ、インゲンマメ、トマト、アマランサス、カボチャ、サツマイモ、クズイモ、ピーナッツなどがあった。飲料としてはリュウゼツランから醸造されるプルケ酒が重要であったが、より格の高い飲料としてはカカオから作られるショコラトルが珍重されていた。ショコラトルは価値が高く、原料のカカオ豆は貨幣として流通するほどだった。また、香料としてはバニラが珍重されていた。
アステカの文化
アステカ文明は、先に興ったオルメカ・テオティワカン・マヤ・トルテカ文明を継承し、土木・建築・製陶・工芸に優れていた。鉄器は存在せず、青銅器は利用はあったものの装飾品利用が主なものであり、日用品や武器などは黒曜石などの石で造られたものが大半であった。
アステカは大規模な土木工事を盛んに行った国家であり、神殿の建設や水利工事などで高い技術力を持っていた。特に水利工事は湖に囲まれているテノチティトランを都とするアステカにとっては非常に重要な技術であり、上記のイツコアトルによるイツタパラパン道の建設やモクテスマ1世によるテスココ湖中堤防の建設などの湖の治水が積極的に行われた。このほか、塩水湖中にあり生活用水の不足しがちなテノチティトランに水を供給するため、モクテスマ1世は1466年にチャプルテペク水道橋を建設し、西のチャプルテペクの泉から湖を越えて市内に水を供給した。
アステカは、精密な天体観測によって現代に引けを取らない精巧な暦を持っていた。アステカの暦は2つあり、占術に使う260日暦(トナルポワリ)と、国家行事を運営するための太陽暦である365日暦(シウポワリ)の二つの暦の体系を持っていた。この二つの暦が重なり合うのは52年に1度であり、そのためアステカにおいては52年を1つの周期として扱っていた。
アステカはそれまでのメソアメリカ諸文明の神々を継承し取り入れ、複雑な信仰体系を構築した。アステカ神話においてはアステカの民族神であるウィツィロポチトリをはじめ、ケツァルコアトルやテスカトリポカ、雨神トラロックなど様々な神があがめられ、崇敬を受けていた。アステカ神話においては世界の創造と破壊は過去4回起きており、現在の世界は5番目のものであると考えられていた。1479年にアステカ王アシャヤカトルによって奉納され、現代では最も高名なアステカの遺物のひとつとなっている太陽の石には、この世界観や暦が刻まれている。
アステカの人身御供
アステカ社会を語る上で特筆すべきことは人身御供の神事である。人身御供は世界各地で普遍的に存在した儀式であるが、アステカのそれは他と比べて特異であった。メソアメリカでは太陽は消滅するという終末信仰が普及していて、人間の新鮮な心臓を神に奉げることで太陽の消滅を先延ばしすることが可能になると信じられていた。そのため人々は日常的に人身御供を行い生贄になった者の心臓を神に捧げた。また人々は神々に雨乞いや豊穣を祈願する際にも、人身御供の神事を行った。アステカは多くの生贄を必要としたので、生贄を確保するために戦争することもあった(花戦争)。
ウィツィロポチトリに捧げられた生贄は、祭壇に据えられた石のテーブルの上に仰向けにされ、神官達が四肢を抑えて黒曜石のナイフで生きたまま胸部を切り裂き、手づかみで動いている心臓を摘出した。シペ・トテックに捧げられた生贄は、神官達が生きたまま生贄から生皮を剥ぎ取り、数週間纏って踊り狂った。人身御供の神事は目的に応じて様々な形態があり、生贄を火中に放り込む事もあった。
現代人から見れば残酷極まりない儀式であったが、生贄にされることは本人にとって名誉なことでもあった。通常、戦争捕虜や買い取られた奴隷の中から、見た目が高潔で健康な者が生贄に選ばれ、人身御供の神事の日まで丁重に扱われた。神事によっては貴人や若者さらには幼い小児が生贄にされることもあった。
アステカの歴代君主
- 1375年: アカマピチトリ
- 1395年: ウィツィリウィトル
- 1417年: チマルポポカ
- 1427年: イツコアトル
- 1440年: モテウクソマ・イルウィカミナ(モクテスマ1世)
- 1469年: アシャヤカトル
- 1481年: ティソク
- 1486年: アウィツォトル
- 1502年: モテウクソマ・ショコヨトル(モクテスマ2世)
- 1520年: クィトラワク
- 1521年: クアウテモック
サポテカ(またはサポテック、サポテカ文化、サポテカ文明)は、メキシコ南部、オアハカ州のモンテ・アルバンを中心として栄えていたとされる文明。その開始時期については、先古典期前期末のサン・ホセ・モゴテのティエラ・ラルガス相(Tierra Largas;1400B.C.~1150B.C.)の時期と考えられる。この時期にサン・ホセ・モゴテは、7.8haほどの集落となり、その規模は、オアハカ盆地の他の集落の5~8倍であった。この頃、メソアメリカでは最古の部類に属する5.5m×4.5mほどの長方形を呈する6号建造物をはじめとした公共建造物が築かれるようになった。ロサリオ相(Rosario;700B.C.~500B.C.)になると人口は1300~1400人ほどになり、サン=ホセ=モゴテの首長は、翡翠の装飾品を身につけるようになり、頭蓋変形や黒曜石の短剣を用いた放血儀礼(Bloodletting)などが行われていたこともわかっている。首長は、生前は、中庭のある日干し煉瓦の家に住み、死後には、その遺体は豪華な墓に埋葬された。ロサリオ相の終末期には、神殿と思われる公共建造物の入り口の敷居部分から発見された石碑3号にみられるように、象形文字を刻んだ石碑が建てられるようになる。石碑3号に刻まれた犠牲にささげられた捕虜の名前の「一の地震」は、現在のところ確認可能なメソアメリカ最古の文字の使用例であるとともに、最古の260日暦の使用例であることで知られる。サン・ホセ・モゴテは、500B.C.頃放棄されたと考えられる。
その契機となったのは、先古典期中期から後期にかけてのオアハカ盆地での抗争の激化であり、盆地北部のエトラ(Etla)谷のサン・ホセ・モゴテと、盆地東部のトラコローラ(Tlacolula)谷地域の勢力と盆地南部のバジェ・グランデ(Valle Grande)又はサアチラ(Zaachila)谷地域の勢力がオアハカ盆地の覇権を争い、モンテ・アルバンが建設される直前の時期には、丘の上に防御機能を持った集落が次々と建設された。この争いの終結は、前500年頃とされるモンテ・アルバンの建設により終息したが、その起源については、トラコローラ、バジェ・グランデの連合体が、サン・ホセ・モゴテに対抗して、モンテ・アルバンを築いたという説と、サン・ホセ・モゴテが前二者に対抗してモンテ・アルバンを築いたという二つの説があり、後者の説がいまのところ有力とされている。 モンテ・アルバンI(前500年~前100年)で知られているのは、中央広場南西部隅にある「踊る人々の神殿」(Temple of the Danzantes)で、神殿の周囲におかれた石彫には、あたかも踊っているように見える人物像「Danzante」や未解読のサポテカ文字とともにマヤにも受け継がれることになる点と棒表記の数字が暦と思われる表記とともに刻まれている石碑が建立された。「踊る人々」の石彫は、140以上見られ、モンテ・アルバンの支配者によって捕虜にされて拷問にかけられたり、殺害された首長や王たちを刻んでいると推定されている。このような石彫を刻むことによってモンテ・アルバンの支配者の権力、軍事力を誇示し、正当化する意味があったと考えられている。人物像の脇に刻まれたサポテカ文字は犠牲になった人物の名前を示していると考えられる。モンテ・アルバンII期(前100年~200年)にかけて、都市の西部と北部に約3kmにわたって防御壁が築かれ、ダムと約2kmにわたる用水路が建設された。モンテ・アルバンの人口は紀元前100頃には1万7000人、オアハカ盆地全体では、5万人に達したと推定される。 その後、テオティワカンとの交流を受けつつ、モンテ・アルバンIII期(200年~750年)には、最終的にモンテ・アルバンに集中した人口は、2万5000人を数えるまでになり、規模も6.5km2に拡大した。盆地全体の人口は、一時期11万人を超えたと考えられている。モンテ・アルバンの中央広場が完全に建物で囲まれたのがこの時期である。III期の後半、すなわちIIIb期は、広場の出入り口が3ヶ所に限られ、防御性が増したことから、貧富の差が拡大し、庶民層の不満が高まって不安定になっていったとも考えられる。
モンテ・アルバンIV期(750年~1000年)には、モンテ・アルバンは、人口4,000人ほどのセンターに衰退した。盆地全体の人口は、7万人に減少し、盆地南部のハリエサが人口1万6,000人をかかえる盆地最大の集落となった。しかしモンテ=アルバンに見られるような大建造物に囲まれた中央広場は築かれず、小センター同士が争う分裂抗争の時代となった。 また、特筆すべきなのは、このころから、美しい階段文様や雷文の建物で知られるミトラが盆地南部のトラコローラ河谷に興り、本格的に活動し始め、また、サアチラも発展し、墓地の壁画やレリーフには見るべきものが多い。これらのセンターは一部を除いて後古典期まで続くこととなる。
◆ミシュテカ文明
ミシュテカ(Mixteca)はメソアメリカの先住民で、メキシコのオアハカ州、ゲレーロ州、プエブラ州を合わせてラ・ミステカとして知られる地方に住む。ミシュテカ諸語はオト・マンゲ語族の中の大きな分派である。
ミシュテカという単語はナワトル語のミシュテカパン(Mixtecapan)、すなわち「雲の人々の地」に由来する。ミシュテカ語が話されていた地域は「ミシュテカ」として知られる。ミシュテカ人は自らのことを彼らの言葉でSa'an Davi、Da'an Daviと呼び、彼らの言葉の地域変種ではTu'un Savi、ñuu savi、ñuu djau、ñuu davi、naa saviと

先コロンブス期、ミシュテカはメソアメリカの主要な文明の1つだった。ミシュテカの重要な古代の中心地にはティラントンゴの古都に加え、アチウトラ、クイラパン、ワフアパン、ミトラ、トラシアコ、トゥトゥテペック、フストラワカおよびユクニュダウィの遺跡が含まれる。ミシュテカは古代都市モンテ・アルバン (ミシュテカが支配下に置く前のサポテカの都市を起源とする)を大幅に再建した。ミシュテカ工人が石材、木材、および金属で作った製品は当時のメソアメリカ全域を通じて珍重された。
ミシュテカはスペインの「征服者」(コンキスタドール)がやってくる前、アステカ皇帝アウィソトルによって30年ほど征服されていた。彼らはスペイン人とペドロ・デ・アルバラード率いる中央メキシコの同盟軍に鎮圧されるまで、スペイン人の支配に対し、激しく、血みどろの抵抗をした。
地理
ミシュテカ地域は、歴史的にも現在でも、おおよそオアハカ州の西半分に相当するが、いくつかのミシュテカの集落は隣接するプエブラ州北西部やゲレーロ州まで分布していた。ミシュテカの人々と彼らの母国はしばしば3つの地理的・文化的地域に分けられる: 山岳地帯、その周辺、およびオアハカ渓谷の西に住む「ミシュテカ・アルタ」すなわち高地ミシュテカ;これら高地の北方と西方に住む「ミシュテカ・バハ」すなわち低地ミシュテカ、そして南の平野と太平洋沿岸に住む「ミシュテカ・デ・ラ・コスタ」である。ミシュテカの歴史にとってミシュテカ・アルタは中央高地に位置するミシュテカ国家の首都とともに支配的な政治勢力だった。オアハカ渓谷それ自体はしばしば紛争境界地域となり、ときにはミシュテカに、ときには東の隣人サポテカに支配されていた。
コイシュトラワカ盆地にあるen:Ndaxagua洞窟は、ミシュテカの重要な聖地である。
言語と絵文書
ミシュテカ語とその近接諸語は、20世紀末の段階でおよそ300,000人に達する人々によって話されていると推定されているが、ミシュテカ語話者の大多数は、実務的にスペイン語も話すこともできる。ミシュテカ諸語のいくつかはミシュテカ語以外の名前、とくにクィカテコ語 (Cuicateco)やトリキ語 (Trique)と呼ばれる。
ミシュテカ語はその写本、もしくはその歴史と系図を鹿皮に「(屏風のように)折りたたまれた本」の形式で描いた絵文書によって人類学上よく知られている。ミシュテカの絵文書には、数字は○、文字は判じ絵のような絵文字を使い、絵全体で物語を表現している。絵文書に記載されたもっとも有名な物語は八の鹿王のものである。この名前は彼の生まれた日にちなみ、彼の個人名はジャガーの爪である。ボドリ絵文書とヌッタル(ナットール)絵文書を含むいくつかの絵文書に「八の鹿・ジャガーの爪」の叙事的な歴史に関連する記述があり、彼がミシュテカのほとんどの地域を征服し、統一することに成功したことと最後には52歳のとき戦いに敗れ生け贄になったことを記している。












