アンデス文明
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アンデス文明
アンデス文明とは、1532年のスペイン人(白人)によるインカ帝国征服以前に、現在の南米大陸、ペルーを中心とする太平洋沿岸地帯およびペルーからボリビアへつながるアンデス中央高地に存在した文明。
メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明といったいわゆる世界四大文明などと異なり文字は持たない。その担い手は、1万2千年前に、ベーリング海峡を渡ってアジアから移動してきたモンゴロイド(黄色人種)の中の古モンゴロイドとされる。
アンデス文明の特徴
アンデス文明の中心地帯は、主に、海岸部、山間盆地、高原地帯に分かれる。山間部と高原地帯は一緒に扱われることも多い。
アンデス文明の大きな特徴としては次の7点が挙げられる。
- 文字を持たない。
- 青銅器段階。
- 鉄を製造しなかった。また、利器として青銅はほとんど利用されることはなく、実際には新石器段階に近かった。
- 金や銀の鋳造が発達していた。
- これらの製品は、そのほとんどがスペイン人によって溶かされインゴットになってスペイン本国へ運ばれていった。
- 家畜飼育が行われていた。
- 車輪の原理を知らなかった。
- 駄獣はいたがこの原理を知らなかったため、戦車や荷車などは発達しなかった。
- 塊茎類を主な食料基盤とする。
- アンデス文明では、塊茎類(ジャガイモやオカ、マシュア(イサーニョ)、サツマイモ、マニオク(キャッサバ)、アチーラなど)を食用資源として主に栽培していた。
- 世界の四大文明やメソアメリカ文明が穀物を主要食料基盤として発展したのに対し、アンデス文明では、穀物の主要食料源としての価値は低く、穀物資源を主な食基盤とした文明ではなかった。穀物では、トウモロコシが、一部は食用されてはいた可能性はあるが、スペイン人の記録文書などから、主に、チチャと呼ばれる「酒の原料」として利用されていたことが確認されており、食用ではなかったと言われている。考古遺物からもチチャを飲むために利用したと言われているコップや貯蔵していたといわれているカメなどからトウモロコシのかすと思われる残滓が検出されているという。このほか、キヌアなどの雑穀やマメ類などの利用も高原地帯で見られた。
- ただ、海岸地帯では、古い時期から魚介類も多く利用されていた。そのため、一部の研究者は、海岸のアンデス文明の曙には、魚介類を主要食糧基盤とする説もある。だが、最近では、漁労が生業として他から独立していたというモデルへは、反論が多く、実際に、現段階でもっとも古い遺跡であるペルーの首都リマ北方にあるカラル遺跡(BC3000-BC1800:世界遺産)では、農耕と組み合わせが主張されている。
- 実際に、塊茎類ほど食用作物として、アンデス地域全体に広がった作物は少なく、その意味ではアンデス文明を底辺で支えた最も重要な食料基盤であった。同じく、トウモロコシもアンデス中に広がったが、これは食用ではなく酒(チチャ)の原料として広がった経緯があり、厳密には「食料基盤」とはいえない。
- アンデス特有の生態学的環境と文化・文明の発展に深い関係が見られる。
- 生態学的環境とのかかわりが非常に強く、また複雑に結びついている。他の旧大陸の文明がすべて大河沿いに発展してきたのに対して、アンデスでは、山間部や高原地帯の果たした役割が非常に大きい。ただし、実際には、海岸の河川沿い、山間盆地、高原地帯といったまったく異なる生態学的環境で、互いに交流を持ちながらも、それぞれが独自の文化を発展させ、総体としてアンデス文明を発展させてきた。山間盆地や高原地帯で見られる独特の環境利用法については、国家規模の社会の成立過程に大きく寄与したのではないかという説(垂直統御説)もある。
このほか、アイリュ(またはアイユ、Ayllu)と呼ばれる地縁・血縁組織の存在、双分制、トウモロコシ酒チチャの利用、コカの葉などを利用した儀礼などもアンデス文明圏、特に山間盆地や高原地帯で見られた特徴である。また、チリ北部からペルー南部には硝石が豊富にあるが火薬の製造も行われなかった。鉄鉱石が豊富な地域が多いが鉄の鍛造は行われることはなく、武具もあまり発達せず、石製の棍棒や弓矢程度であった。一方で、棍棒の武器によるものであろうか、陥没した頭蓋に対して、脳外科的手術を行い血腫などを取り除く技術が存在していた。形成期といわれる紀元前の社会の遺跡から見つかった頭骨の中には、陥没した痕が治癒していることを示すものがある。これは、頭蓋が陥没したあとも生き延びたことを示している。これらの外科的手術は、儀礼的な面から発達した可能性も否定できない。アンデスに自生するコカが麻酔として利用されていたという。
さらに世界最古の免震装置であるシクラが発見されている。
アンデス文明の中心は、およそ2ヶ所あるともいわれ、その2ヶ所に人口も集中していたといわれている。ひとつが、現在のペルー共和国、トルヒーヨ市周辺の北海岸地帯、もうひとつがペルー共和国南部からボリビア多民族国北部にあるティティカカ湖盆地一帯といわれている。しかしながら、文明の勃興期(形成期)には、中央海岸地帯にも盛んに大規模建造物が建てられたり、また、中期ホライズン(ワリ期:後述)やインカ帝国は、ティティカカ湖沿岸の文化と深い関係を持つものの、中央あるいは南部山間盆地から興っている。そのため、2つの中心という観点は、あくまでも仮説の段階にある。
アンデス文明と現代
新大陸の諸文明や諸文化は、メソアメリカ文明や北米先住民の諸文化も含め、ことごとくヨーロッパ人(白人)の侵略によって滅ぼされるか変容を余儀なくされてしまったが、アンデス文明の場合、その一部は現代でもまだ根付いている。たとえば、地方へ行けば、インカ期から続くアイリュと呼ばれる血縁・地縁組織が機能している所もある。農具でも斜面の多い土地ではインカ期とほとんど変わらない踏み鋤が用いられている。そして、インカ期に建造されたテラス状の段々畑(アンデネス)が現代まで継続して利用されている。いまだテンジクネズミ(クイ)を食肉用家畜として飼養していたり、ラクダ科動物のキャラバン隊も存在する。トウモロコシから作られた酒チチャを農耕儀礼などの時に皆で饗するのも、インカ期から見られる習慣である。
ヨーロッパ人による物質的な征服に続いて行われたのは、魂の征服である。つまり、キリスト教布教のため先住民の持っていた独自の宗教は弾圧を受けた。その後、カトリック化が進み、また征服以降しばらく続いた異教徒弾圧などで、アンデス文明に存在した精神世界は徹底的に破壊されたが、それでも形を変え現代でも生き残っている。特に、大地の神パチャママへの信仰は、先住民社会に深く残っている。また、都市部においても祭りなどの中にパチャママ信仰に基づく慣習があり、アンデス地域に住む人々に広く浸透している。なお、これら在来の神は、カトリックの聖人と同一視されることが多い。このようなシンクレティズムが現代アンデス先住民の精神文化の特徴となっている。
アンデス地域の生態学的環境
アンデス文明を理解するためには、アンデス地域の生態学的環境を理解する必要がある。この世界的にも独特な生態学的環境は、アンデス文明の発展と深くかかわっているからである。
アンデス地域、特に中央アンデス地域(現在のペルー共和国とボリビア多民族国北部)は、非常に多様な生態学的環境をもっている。南北に長く、東西に狭い地域に標高が高い山々が密接して連なるため、限られた地域に多様な生態系が存在する。ハビエル・ブルガル・ビダルは、アンデス地域をその生態学的環境と先住民による区分をもとにして、8区に分けた。
それは、
- 海岸砂漠地帯のチャラ、
- 山間および海岸地帯に広がる熱帯地域のユンガ、
- おおよそ標高3000mくらいまでのキチュア、
- 標高4000mくらいまでの高原地帯のスニ、
- さらに4800mくらいまでの草原地帯のプナ、
- それ以上の氷雪地帯を含むハンカ、
アンデス山脈の東側のアマゾン地帯を、
- 1000m以下のオマグワ、
- それ以上のルパ・ルパに分けている。
これら生態学的環境の差は、それぞれに地域で行われる生業にも影響を及ぼしており、ユンガ地帯は熱帯産の作物や果物類が、キチュア帯ではトウモロコシも含む多く栽培種が、スニではほとんどの栽培種が育たないためジャガイモなどの塊茎類とキヌアなどの雑穀が主として栽培されている。プナはおもに牧畜に利用されている。
また、これらの異なる生態学的環境を一集団や家族単位で同時に保有し、利用を行っており、これがアンデスの文化の特徴のひとつとなっている。
アンデス文明の歴史
アンデスへの適応
南米に人類が住み始めた痕跡を示す遺跡で最古のものは、1万4000年前という年代測定値を示す遺跡もみられるものの、確実なのはクローヴィス文化に並行する1万1000年前の基部が魚の尾びれのような形状の魚尾型尖頭器を用いた狩人たちの遺跡である。チリの首都サンティアゴの南120kmにあるマストドンの解体処理を行ったタグワタグワのようなキルサイトは、この時代の特色を示す遺跡である。やがて紀元前7500年ころまでに洞窟の開口部や岩陰を利用して生活をする人々が現れ、ペルーのトケパラ洞窟やアルゼンチンのラス・マノス洞窟には、そのような人々の狩猟への願いを表現した洞窟壁画が描かれた。
紀元前5000年頃から農耕・牧畜を行う社会となり、土器の製作、使用を行うようになる直前までを古期という。ペルー北部高地のラウリコチャ遺跡のⅡ期(紀元前6000年~同3000年)に、I期に多かった鹿に替わって、リャマ、アルパカ等のラクダ科動物の骨の出土量の増加が見られ、中央高地のウチュクマチャイ洞窟の5期(紀元前5500年~同4200年)でやはりラクダ科動物の骨の出土量の増加が見られることからラクダ科動物を飼育しようとする試みがなされ始めたと考えられている。また紀元前6000年頃までにはトウガラシ、カボチャ、ヒョウタン、インゲンマメなどの栽培が開始されたことが北高地のギタレーロ洞窟出土の植物遺存体などから確認されている。また、紀元前3000~同2000年頃から綿、カンナなどの栽培が始まったと考えられている。
諸王国の成立前夜
紀元前2500年頃になると、現在のペルーのリマ市北方のスーペ谷に、カラル(Caral)という石造建築を主体とするカラル遺跡(ノルテ・チコ文明)が現れる。遺跡の年代は、紀元前3000年から2500年ころと推定されている。しかし、発掘され現在復元されている遺跡群は、すでに非常に精緻なつくりをしているため、さらに遡る可能性もある(一部、形成期と呼ばれる紀元前1800年以降の遺跡も復元されている)。海岸遺跡は日干しレンガ製が多いが、この時期の遺跡には海岸遺跡の中でも石造建築がある。カラル遺跡からは、かなりの量の魚介類が出土している。
また、ペルー北海岸にワカ・プリエッタの村落跡やアルト・サラベリー、中央海岸のカスマ谷にワイヌナ、中央海岸地帯にアスペロ、同じく中央海岸地帯でリマの北方にエル=パライソといった神殿跡が築かれる。エル=パライソはU字型に建物が配置され、その一辺が400mに達するものである。一方山間部では、小型の神殿が建てられるようになる。紀元前3000年頃に、北高地サンタ川上流にラ=ガルガーダの神殿、紀元前2500年頃には、コトシュ遺跡(ペルー、ワヌコ県)に、交差した手をモチーフにした9m四方の「交差した手の神殿」が築かれた。
しかし、いずれも、当時はまだ土器を持たない時代といわれており、土器の誕生以前にこのような神殿群を誕生させたところに、アンデス文明の特徴があるともいえる。王の存在を強く認めるようなものは今のところ出ていない。この時期を、アメリカ合衆国の編年では、先土器時代と区分することもある。
紀元前1800年頃になると、土器の利用が始まることが確かめられる。
そして、紀元前800年頃からチャビン文化が発達するようになる。これ以降、チャビン様式がアンデス北部に影響するようになり、そのためこのチャビン様式が広まった時代をチャビン=ホライズン若しくは初期ホライズンと呼ぶこともある。同じころ、北海岸には精緻な土器を伴ったクピスニケ文化が発達する。
しかし、紀元前後頃になると神殿を中心とした社会は消滅し、しばらくして王国が誕生する。
日本のアンデス文明調査団は、神殿建築がアンデス高地において広範囲に広がる紀元前2500年から形成期とすることを提唱しているが、ペルーでは紀元前1800年ころの土器の使用開始をもって形成期の始まりとする。アメリカ合衆国の編年体系では、社会進化論的名称体系を避けるため、土器の存在しない紀元前1800年以前を先土器時代、土器が出現してチャビン文化が広まる前の紀元前800年ころまでを草創期、チャビン文化がアンデスに広まるといわれている紀元前800年から紀元前250年ころを前期ホライズンとする。
王国の興亡
紀元頃になると、ペルー北海岸、現在のトルヒーリョ市周辺にモチェ文化が、現在のナスカ市周辺にナスカ文化が興る。これら海岸地帯では灌漑水路が発達している。日本やペルーでは、この時期を地方発展期、アメリカ合衆国の編年では前期中間期と呼ぶ。
山間部では、紀元700年頃になるとワリ文化が発達し、都市的な様相をなす建造物群が各地に造られる。また、ワリがアンデス中にテラス状の段々畑(アンデネス)を広げたと言われている。この時期、「正面を向いた神」と「首級を持つ翼のある神」といったモチーフが土器や織物を媒体にして、ペルー領域に広まった。そして、これらの図像がボリビアのティワナク文化の図像と類似していたため、かつては「海岸ティアワナコ」あるいは「ティワナコイデ(類ティアワナコ)」と呼ばれていた。現在では、これらの図像はワリ文化のものとされており、ティワナク文化と区別されている。
また、現在のボリビアの高原地帯では、紀元前後頃から紀元400年頃にかけてティワナク文化が興り、紀元1100~1200年頃まで続く。
このワリが広がり、ティワナクと共存していた時期を、ペルーではワリ期、アメリカ合衆国の編年では中期ホライズンとよぶ。日本ではペルーの研究者の影響でワリ期を用いる概説書が多いが、それでも「中期ホライズン」を併記したり、「ワリ帝国説」を否定する意味を込めて「中期ホライズン」を使う研究者もいる。
その後、ペルーの北海岸では、8世紀頃からラ=レチェ川流域にシカン文化、9世紀後半頃からモチェ川流域トルヒーヨ市周辺にチムー王国が興る。チムー王国は14世紀頃までにシカンの国家を併合した。また、ペルー中央海岸地帯、現在のリマ市北方のチャンカイ谷では人型を模した素焼きの土器で有名なチャンカイ文化が花開く。さらに、遅くとも10世紀頃にはリマ近郊のルリンにあるパチャカマ神殿を中心とするパチャカマ文化が花開く。パチャカマ神殿の起源はさらにさかのぼることが分かっている。ティティカカ湖沿岸では、ティワナク社会が崩壊した後、アイマラ族による諸王国が鼎立し、覇を争うようになる。中でも、ティティカカ湖北岸のコリャ(Colla)と、ティティカカ湖南西岸のルパカ(Lupaca)は強力で、互いに覇を争っていた。インカはこの争いを利用して、両者を征服、さらにティティカカ湖南岸のパカヘ(Paqaje)なども征服し、1470年ころまでにティティカカ湖沿岸を平定する。しかしながら、インカ帝国内においても、この地域には特権が与えられていたことが、スペイン人征服者による記録文書に記されている。
この時代は、一般的な傾向として、ペルーでは地方王国期、アメリカ合衆国の編年では後期中間期、日本では両者を用いることがある。
最後に、ペルー南部の山間部にあるクスコ盆地でインカが興り、15世紀前半から急速に勢力を拡大して各地を征服し、15世紀後半にはチムー王国を屈服させ、アンデス一帯に広がるインカ帝国を成立させる。
最後の先住民国家 -インカ帝国-
諸王国をまとめる形で最終的に、インカ帝国が誕生する。その領土は、北は現在のコロンビア南部から、南はチリのサンティアゴまでにわたるアンデス文明圏のほぼ全域を押さえた最後の先住民国家であった。首都はクスコにあった。
インカはこれまでのアンデス文明の集大成とも呼べるものであり、インカ独自に開発したものよりも、むしろそれまでの技術を継承して発達させた部分が多い。
たとえば、キープと呼ばれる結縄(縄の結び目で数などを表す)やアンデネス(段々畑)、道路網などはワリ期にさかのぼるといわれ、壮大な石造建築技術はティワナクやワリに、金の鋳造技術はシカンからチムーを経てインカへ受け継がれている。
ただし、現在、クスコやペルー南部で多く見られる精巧な作りのアンデネスのほとんどはインカ時代のものであり、また、道路網もインカ期に整備されたものが多い。
終焉
1532年、わずかの兵隊と火器でもって、スペイン人によるインカ帝国の征服が行われる。その後、先住民たちによって何度も抵抗が試みられたものの、最終的に完全に征服され、ここに1万年以上続いたモンゴロイドのみによって発達してきたアンデス文明は終焉を迎えた。
新大陸の文明は、旧大陸のそれとまったく異なり、独自に発達してきた文明である。独力で築き上げてきたその文明の成り立ちは、人類の歴史におけるいわば壮大な実験でもあった。また、旧大陸の文明と比べ、かなり特色を持つが、王や皇帝を頂点とするピラミッド型の社会構造を持つという点で、アンデス文明は旧大陸の文明と似た様相も持っていた。
◆インカ帝国
インカ帝国(インカていこく、スペイン語:Imperio Inca、ケチュア語:タワンティン・スウユ(Tawantinsuyo, Tahuantinsuyo))は、南アメリカのペルー、ボリビア(チチカカ湖周辺)、エクアドルを中心にケチュア族が築いた国。文字を持たない社会そして文明であった。
首都はクスコ。世界遺産である15世紀のインカ帝国の遺跡「マチュ・ピチュ」から、さらに千メートル程高い3,400mの標高にクスコがある。1983年12月9日、クスコの市街地は世界遺産となった。
前身となるクスコ王国は13世紀に成立し、1438年のパチャクテク即位による国家としての再編を経て、1533年にスペイン人のコンキスタドールに滅ぼされるまで約200年間続いた。最盛期には、80の民族と1,600万人の人口をかかえ、現在のチリ北部から中部、アルゼンチン北西部、コロンビア南部にまで広がっていたことが遺跡および遺留品から判明している。
インカ帝国は、アンデス文明の系統における最後の先住民国家である。メキシコ・グアテマラのアステカ文明、マヤ文明と対比する南米の原アメリカの文明として、インカ文明と呼ばれることもある。その場合は、巨大な石の建築と精密な石の加工などの技術、土器や織物などの遺物、生業、インカ道路網を含めたすぐれた統治システムなどの面を評価しての呼称である。なお、インカ帝国の版図に含まれる地域にはインカ帝国の成立以前にも文明は存在し、プレ・インカと呼ばれている。
インカ帝国は、被征服民族についてはインカ帝国を築いたケチュア族の方針により比較的自由に自治を認めていたため、一種の連邦国家のような体をなしていた。
インカの国名
ケチュア語で、「タワンティン」とは、「4」を意味し、「スウユ」とは、州、地方、文脈によっては国を表す。訳すと「四つの邦」という意味である。
「四つの邦(スウユ)」とは、
- クスコの北方の旧チムー王国領やエクアドルを含む北海岸地方のチンチャイ・スウユ(ケチュア語族: Chinchay Suyo、「北州」)
- クスコの南側からチチカカ湖周辺、ボリビア、チリ、アルゼンチンの一部を含むコジャ・スウユ(ケチュア語族: Colla Suyo、「南州」)
- クスコの東側のアマゾン川へ向かって降るアンデス山脈東側斜面のアンティ・スウユ(ケチュア語族: Anti Suyo「東州」- アマゾンのジャングル)
- クスコの西側へ広がる太平洋岸までの地域のクンティ・スウユ(ケチュア語族: Conti Suyo、「西州」)
の4つを指す。4つのスウユへは全てクスコから伸びる街道が通じており、インカの宇宙観に基づいて4つの区分を象徴するよう首都のクスコも設計されていた。
なお、インカとはケチュア語で王(ないし皇帝)を意味する言葉だった。スペイン人はこの言葉を初めはケチュア族をさす言葉として使われ、次第に国をさす言葉として発音および使うようになった。
インカ帝国の歴史
考古学期 ・ アンデス文明
アンデス文明はおそらくBP約9,500年(約紀元前7500年)ころまでに始まったと考えられている。インカの祖先は、現在「プーナ」と呼ばれているペルーの高原地方を根拠に遊牧民族として暮らしていたと思われている。この地勢条件により、彼らの身体は低身長化、体型の頑健化という特徴をもって発達した。平均身長は、男性が1.57m、女性が1.45mであった。高地に適応するため、彼らは他地域の人々に比べ肺活量が30パーセントほど大きくなり、心拍数も少なく、血液の量も他地域の人々より多い2リットルとなり、ヘモグロビン量も2倍以上であったことが遺体から推測されている。
アンデスの研究者らは、約500年間にわたり偉大な国家権力の行政資本と儀式により栄えたチチカカ湖地方のティワナクをインカ帝国の最も重要なさきがけ(プレ・インカ)のひとつとして認識している。
クスコ王国(12世紀頃–1438年)
ケチュア族は、12世紀頃にクスコへ移住し、インカ族として成立した。最初のインカ族の統治者(サパ・インカ)であるマンコ・カパックの指揮の下、彼らはクスコ(ケチュア語:Qusqu'Qosqo)に小規模の都市国家を築いた。彼と続く7人のサパ・インカの在位期間は明確でないが、1250年から1438年頃までと想定されている。インカ帝国が成立する前の当地の文明は文字による記録を全く残していないため、インカは、どこからともなく出現したように見えるが、あくまで当地の過去を踏まえて成立したものである。彼らは先行する文化(ワリ帝国、中期ホライズン)から、建築様式、陶器、統治機関などを借用していた。
タワンティンスウユ(1438年–1527年)
インカは中央高原地帯のクスコで発生し、海岸部に広がっていった。考古学者は、標高5,300mに及ぶ高原の温帯で永久的な居住地の跡を発見した[いつ?]。彼らの高地における資産は、リャマ、アルパカ、ビクーニャに限定されていた。
インカによる征服の基盤は、彼らの組織であると信じられている。彼らの神の象徴は太陽神であり、官僚制度は11あった王のアイリュに所属する官僚による団体から成り立っており、家系は正皇后であるコヤとなった自らの姉妹との近親婚によって継続した。インカは平等の考えに基づいた社会であった。全ての人民が、生きるために働かねばならず、貴族ですら見本を示した。しかし数人の考古学者は、これが2つの階級からなる制度を支えるための建前にすぎなかったと信じている。その理由として官僚エリートが法を犯したときの刑罰は大して厳しくなく、このことは体制の維持のために上層階級が重要視されたことを意味した。
インカ帝国の拡張が始まった原因は、おそらくその気候条件の結果であろうと推定されている。パチャクテクは彼自身が選び抜いた家庭出身の指揮官を訓練した。兵卒は、木製の柄と石製又は青銅製の斧頭を備えた青銅製の戦斧、投石器、ランス、投げ槍、弓矢、皮革で覆った木製の盾、綿或いは竹製の兜、刺し子の鎧により武装した。攻略された属州においては、インカの官僚が従前の地方官僚の上に置かれた。これら官僚の子弟はクスコに人質に取られ、攻略された属州の忠誠の保証とされた。インカ帝国はケチュア語を公用語に、太陽崇拝を国教とした。また、急速な灌漑と台地栽培方式の開発により生産力を増強するために労働力を搾取し、肥料としては沿岸の島々で発見された堆積グアノを使用した。インカの社会制度は、儀式と神の名による強制により裏打ちされた厳格な権威主義政体を要したのだ。伝統的にインカの軍は皇子に統率されていた。
パチャクテクは彼の帝国に欲した地方に工作員を派遣し、政治組織、軍事力及び資源に関する報告を得た後、その地の指導者に宛て、彼らがインカに従属する指導者として富裕となることを約束すること、高品位の織物などの高級品を贈ること、そして彼の帝国に加わることの利を強調した手紙を送った。多くの場合彼らは、インカの統治を既成事実として受け入れ平和裡に従った。各指導者の子弟はインカの統治制度について学ぶためクスコに集められ、その後故郷に戻って指導者となった。これによりサパ・インカは、それまでの指導者の子弟にインカの高貴性を吹き込むとともに、運がよければ、帝国内の様々な地方の家族出身の彼らの娘と結婚することとなった。
チチカカ湖地方の征服・アイマラ諸王国とコジャ王国
1438年、彼らはサパ・インカ(最上位の王)パチャクテク・クシ・ユパンキ(パチャクテクとは世界を震撼させる者、世界を造り変える者の意)の命令下、壮大な遠征による拡大を始めた。パチャクテクという名は、現代のアプリマク県にいたチャンカ族を征服した後に与えられたものである。パチャクテクの在位中、彼と彼の息子トゥパック・インカ・ユパンキは、アンデス山脈のほぼ全て(おおよそ現代のペルーとエクアドルに当たる)を制圧した。
1445年、第9代パチャクテクは、チチカカ湖地方の征服を始めた。
北征・チムー王国の征服
パチャクテクの皇子であったトゥパック・インカ・ユパンキは1463年北征を始め、1471年パチャクテクが死亡してからはサパ・インカとして征服事業を継続した。彼の手になった征服中、最も重要であったのはペルー海岸を巡る唯一の真の敵であったチムー王国に対するそれであった。トゥパック・インカ・ユパンキの帝国は、現エクアドル、現コロンビアにまで及ぶほど北に伸長した。彼は既存の文化、特にチムー文化の様式を、発展させ取り入れた。
トゥパック・インカ・ユパンキの皇子であったワイナ・カパックは、現エクアドルとペルーの一部に当たる北部にわずかな領土を付け加えた。
南征・マプチェ族の抵抗
帝国の南進は、マプチェ族による大規模な抵抗に遭ったマウレの戦いの後に停止した。最盛期のインカ帝国の領域は、ペルー、ボリビア、エクアドルの大部分、マウレ川以北のチリの広大な部分を含み、また、アルゼンチン、コロンビアの一角にまで及んでいた。しかし、帝国南部の大部分(コジャ・スウユと命名された地方)は砂漠(アタカマ砂漠、アタカマ塩原など)による不毛地帯であった。
国家の再編とその構成・四つの邦
パチャクテクは、クスコ王国を新帝国「四つの邦(スウユ)」(タワンティンスウユ、インカ帝国の正式名称)に再編した。タワンティンスウユは、中央政府及びその長であるサパ・インカと、強力な指導者に率いられる4つの属州(北西のチンチャイ・スウユ、北東のアンティ・スウユ、南西のクンティ・スウユ、南東のコジャ・スウユ)とから成り立つ連邦制であった。
パチャクテクはまた、根拠地或いは避暑地としてマチュ・ピチュを建設したと考えられている。マチュ・ピチュについては一方で農業試験場として建設されたとする見解も存在する。
内戦とスペインによる征服
天然痘はスペイン人の侵略者たちが最初に帝国に達するより前にコロンビアから急速に伝染した[要出典]。おそらくは効率的なインカ道路網により伝染(波及)が容易になったものである。天然痘はわずか数年間でインカ帝国人口の60パーセントから94パーセントを死に至らしめ、人口の大幅な減少を引き起こした。コンキスタドールの到来
スペインのコンキスタドール(征服者)たちは、フランシスコ・ピサロ兄弟に率いられパナマから南下し、1526年にインカ帝国の領土に達した。1527年、皇帝ワイナ・カパックが死去。彼らが大いなる財宝の可能性に満ちた富裕な土地に達したのは明確であったので、ピサロは1529年の遠征の後に一旦スペインに帰国し、その領域の征服と副王就任にかかわる国王の認可を当時のスペイン国王から得た。
インカ帝国内戦(1529年–1532年)
ワイナ・カパックの二人の息子たちであるクスコのワスカルとキトの北インカ帝国皇帝アタワルパとの間で、内戦(1529年–1532年)が起こった。内戦が発生した原因は未だに分かっていない。
スペインによる征服
1532年にスペインのコンキスタドール(征服者)がペルーに戻ってきたとき、インカ帝国はかなり弱体化していた。その原因としては、インカ帝国内戦が勃発したことや新たに征服された領土内に不安が広がったことが挙げられるが、それ以上に中央アメリカから広まった天然痘の影響が大きかったと考えられる。コンキスタドールは身長こそ少し高かったものの、インカには確かに途方もない高地に順応しているという利点があった。ピサロ隊の兵力は、わずか168名の兵士と大砲1門、馬27頭と決して抜きんでたものではなかった。そのため、万一、自隊を簡単に壊滅できそうな敵に遭遇したら、その場をどのように切り抜けるかをピサロはいつも説いていた。完全に武装されたピサロの騎兵は、技術面ではインカ軍に大きく勝るものであった。アンデス山脈では、敵を圧倒するために大人数の兵士を敵地に送り込む攻城戦のような戦闘が伝統的な戦法であったが、兵士の多くは士気の低い徴集兵であった。一方、スペイン人はすでに近代以前に「鉄砲」(Arcabuz)などの優れた兵器を開発しており、イベリア半島で何世紀にもわたるムーア人との戦いを経験し、さまざまな戦術を身につけていた。このようにスペイン人は戦術的にも物質的にも優位であったうえに、インカによる自領の統治を断ち切ろうとする何万もの同盟者を現地で獲得していた。
最初の交戦は、現代のエクアドル、グアヤキル近郊の島で1531年4月に始まったプナの戦いであった。その後ピサロは、1532年7月にピウラを建設した。エルナンド・デ・ソトは内陸部の探検のために送り出され、兄との内戦に勝利し8万人の兵とともにカハマルカで休息中の皇帝アタワルパとの会見への招待状を携え帰還した。
ピサロとビセンテ・デ・バルベルデ神父らの随行者は、少数の供しか連れていなかった皇帝アタワルパとの会見に臨んだ。バルベルデ神父は通訳を通し、皇帝と帝国のカルロス1世への服従とキリスト教への改宗とを要求した投降勧告状(requerimiento)を読み上げた。言語障壁と拙い通訳のため、アタワルパは神父によるキリスト教の説明に幾分困惑し、使節の意図を完全に理解できてはいなかったと言われている。アタワルパは、ピサロの使節が提供したキリスト教信仰の教義について更に質問を試みたが、スペイン人たちは苛立ち、皇帝の随行者を攻撃、皇帝アタワルパを人質として捕らえた(アタワルパの捕縛、1532年11月16日)。
人質として捕らえられた皇帝アタワルパはスペイン人たちに、彼が幽閉されていた大部屋1杯分の金と2杯分の銀を提供した。ピサロはこの身代金が実現しても約束を否定し釈放を拒否した。アタワルパの幽閉中にワスカルという者は余所で暗殺された。スペイン人たちはこれをアタワルパの命令であったと主張、1533年7月のアタワルパ処刑に際しては、これは告訴理由の一つとなった。
最後のインカたち
スペイン人たちはアタワルパの弟マンコ・インカ・ユパンキ(一説に弟ではなく、下級貴族出身とも)の擁立を強行し、スペイン人たちが北部の反乱を鎮圧する戦いの間は協力関係が続いた。その間、ピサロの仲間ディエゴ・デ・アルマグロはクスコを要求した。マンコ・インカはスペイン人同士の不和を利用することを試み、1536年にクスコを回復したが、スペイン人たちに奪還された。
マンコ・インカはビルカバンバに後退し、彼とその後継者たちはそこで新しい「ビルカバンバ(Vilcabamba)のインカ帝国」(1537年 - 1572年)を更に36年間統治し、スペイン人たちへの襲撃や反乱の扇動を続けた。 こうした状況の中、伝染病が壊滅的な打撃を与えた。さらに、ヨーロッパから到来した他の病気の波により更に人口は減少した[3]。1546年(推定)のチフス、1558年のインフルエンザと天然痘、1589年の天然痘再流行、1614年のジフテリア、1618年の麻疹、こうしてインカ文化の残滓は破壊された。1572年、インカの最後の要塞が征服され、マンコ・インカの皇子で最後の皇帝トゥパック・アマルは捕らえられ、クスコで処刑された。ここにインカ帝国の政治的権威下でのスペインによる征服への抵抗は終結した。
後世への影響
インカ帝国が倒れた後、新たなスペイン人の統治者たちはインカ帝国に住む人々に厳しい苛政をしくとともに、インカ帝国の伝統を抑圧した。洗練された営農組織を含むインカ文化の多くの分野が組織的に破壊された。スペイン人たちは人民を死に至るまで酷使するためにインカのミタ制(労役)を利用した。各家族から1人が徴用され、ポトシの巨大な銀山に代表される金銀山で働かされた。
インカ帝国は滅ぼされた後も、様々な影響を後世に残した。インカ皇族とスペイン人のメスティーソだったインカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガは17世紀に『インカ皇統記』(1609年)を著したが、この中で理想化されたインカのイメージは18世紀になってから「インカ・ナショナリズム」と呼ばれる運動の源泉となった[4]。「インカ・ナショナリズム」はインディオのみならず、クリオージョ支配層にも共有されて様々な反乱の原動力となり、その中で最大のものとなったのが、1780年のトゥパク・アマルー2世の反乱(1780年 - 1782年)だった。
南アメリカがスペインから独立する19世紀初頭には、ベネズエラの独立指導者のフランシスコ・デ・ミランダやアルゼンチンの独立指導者のマヌエル・ベルグラーノらにはインカ帝国は新しい国家の立ち返るべき地点の一つと見なされた。特にベルグラーノが主要な役割を果たした1816年9月7日のトゥクマン議会では、新たに独立する南アメリカ連合州でのインカ皇帝の復古、ケチュア語とアイマラ語の公用語化などがスペイン語とケチュア語で書かれた独立宣言に盛り込まれたが、実際にはこのような政策は実現には至らなかった。
独立後のペルーにおいても、現実に存在するインディオが様々な人種主義的被害を受けたのに対し、既に滅びたインカ帝国は理想視され、国民的なアイデンティティの基盤となった。インカは今でもペルーの国民的な飲料インカ・コーラなどにその名を留めている。
政治
インカ帝国は、多言語、多文化、多民族の継ぎ接ぎによって成立していた。帝国の各構成要素は、均一であった訳ではなく、地方の各文化は、完全に統合されていたのでもなかった。政体は君主制であり、近親結婚によって生まれた一族による世襲政治である。これは彼らの宗教観から、広く交雑する事で、「皇族」の血筋が汚されると考えたためである。「サパ・インカ(皇帝)」は太陽神インティの化身としても考えられ、当時の官僚は、同時に神官でもあった。臣下が王に謁見するとき、王を直接見ることは禁じられていた。
インカ帝国は4つのスウユ(州)に区分されていた。各スウユはいくつかのワマン(県)に、ワマンは1万人の集団ウニュ(村)に分かれていた。ウニュ(村)の長にはインカ帝国が成立する前からの支配者階級が、スウユ(州)やワマン(県)の長にはインカの血をひく上級貴族が任命され、あわせてインカの貴族階級(クラカ)を形成した。
土地・鉱山・家畜などすべての生産手段は共同体に帰属し貴族ですら私有を認められなかった[9]。この共同体をアイリュと呼ぶ。アイリュの土地はインカ皇帝・太陽神・人民の3つに分割され、インカ皇帝と太陽神の土地に対する労働を行わせ、その生産物を徴収する形態で徴税が行われた。こうして集められた生産物は再分配され、寡婦・老人・孤児などに支給されたり飢饉などの非常時に放出された。この体制は社会主義にも類似したものであった。また、アイリュの中にはアイニ(Ayni)と呼ばれる相互扶助的な仕組みもあった。
地方組織とは別に、男女の社会集団が存在した。男性には、ヤナコーナと呼ばれる集団があり、耕作や雑用のため世襲的にインカに仕えた。女性には、アクリャコーナやママコーナと呼ばれる集団があり、容貌の美しいものを徴用して作られた。アクリャコーナは各地の館にかこわれ、チチャや織物を作ることに従事した。ヤナコーナやアクリャコーナはアイリュに属さず、中央政府の監督を受けた。
それ以外に、鉱山労働や道路の建設などの労役が若干あった。この労役制度はミタ制と呼ばれる[10]。この労役の成果の一つとして、チャスキと呼ばれる飛脚による通信網を確立させ、広大な領土を中央集権により統治していた。なお、この通信網の名残として、チャスキという言葉はアンデスのいくつかの場所の地名としていまも残っている。日本で言うところの「宿」のようなものである。
経済
広漠とした平野は降雨量が少なく農耕に適さないために住む者も稀であったが、高原地帯は海から吹き上げる風によって雲が形成され霧雨が降るため、湿潤な環境となり農耕に適した。このような気候条件から、今日でも驚異的な高山都市を形成するに至った。標高差を利用して多様な物資を調達することはインカ帝国の成立以前から行われており、垂直統御とも呼ばれる[11]。
海に面した急勾配の土地を利用して段々畑を作り、トマトやトウガラシは低い土地に、寒冷地を好むジャガイモは高地にと、高度に応じた農作物の多品種生産を行っていた。ジャガイモやトウモロコシを主な作物とする農耕と、リャマやアルパカによる牧畜が行われていた。また、“クイッ、クイッ”と鳴くことから「クイ」と呼ばれたテンジクネズミも食用として広く民衆によって飼育されていた。
インカ帝国全体としては、高級品と労働力に対する課税と交換とに基づく経済が存在した。課税方法については、「周知の通り、高地においても平地においても、収税吏に課税された貢納物を支払うことに失敗した村はなかった。住民が貢納物の支払いを肯んじなかった場合、4か月毎に生きているシラミで満たされた大きな羽根を支払うべきであるとの命令をした州さえ存在した。これは貢納物の支払いに関し、教示し馴致させるインカの手法を示している。」という説明がなされている。
貨幣は用いられておらず、物々交換によって経済活動を行なっていた。北部のペルーやエクアドルにあたる地域では、ビーズ、ボタン状の金、銅製の斧の3種類の貨幣が用いられていたが、インカの正式な制度には採用されなかった。
ミイラ信仰
インカ帝国が西海岸部の砂漠地帯を領土に取り込んだ際、現地にあったミイラ信仰をとりこんだ。歴代の皇帝はこれを人心掌握や権威の保持など、政治的に利用した。例えば、インカがアマゾンに接した地域を征服する際、その地域ではそれまでは崖の中腹にある穴に先祖の骨を置いて墓としていたが、インカはそれらの骨を打ち捨てて代わりに布を巻いたミイラを崖に安置するようにした。こうして半ば強引に征服地の民衆の心の拠り所をインカの中央政権に刷りかえさせたのだった。また、歴代皇帝は死後ミイラにされて権威が保たれ、皇帝に仕えていた者達はそのミイラを生前と同じように世話をすることで領土や財産を保持した。これは即ち、次の皇帝は前の皇帝から遺産を相続できないということであり、結果、即位した新しい皇帝は自分の財産を得るために領土拡張のための遠征を行わざるを得なかった。代を重ねるにつれ死者皇帝が現皇帝の権威を凌ぐようになり、必然的に各々のミイラに仕える者達の権力も増大。それに対抗するため12代目の皇帝が、それまでの全ての皇帝のミイラの埋葬と、そのミイラとそれに仕える者達の所領や財産の没収を企て、それが内乱へと発展。その混乱の最中にスペインの侵攻があり滅亡した。
インカの文化
「知識は庶民のためのものではない」という考えのもと、いわゆる文化活動は貴族階級だけに許された。一般庶民はそれぞれの役務に必要なことだけを教えられ、それ以上を知ろうとすることは禁止されていた。手工業などの技術も貴族によって独占されていた。すなわち貴族が職人として労働に従事していたことになる。
建築
彼らは神殿、要塞、優れた道路を建設した。峻厳な山脈地帯に広がった国土を維持するため、王は国中の谷に吊り橋を掛け、道路を作った。その道路(インカ道路網)は北部のキトからチリ中部のタルカに至るまで5,230kmにも達した。急峻な地形であるために人力もしくは家畜(偶蹄目)によって物資を輸送するしかなく、車輪を用いた運搬手段は発明されなかった。また野生馬を飼いならし、人や物資の運搬に用いることはなかった。1トポ(約7km)毎に里程、約19km毎にタンボ(宿駅)が、サパ・インカと随行者のために設置されていた。チャスキ(飛脚)が約8km毎に設置され、1日あたり約240kmの割合で緊急連絡をリレーした。口頭による緊急連絡は、おそらく数に基づく符号を含むキープ(結縄)により補われた。これらはヨーロッパで古くに使用されていた割符と同等の物であった。この道路網は帝国の維持に必要であったが、皮肉なことにスペインによる征服をより容易にした。
道中のタンボには、食物の備蓄庫も置かれた。収穫された農作物は税として備蓄庫に徴収され、集められた備蓄食料は惜しみも無く民に放出された。この結果、インカはその豊満な食料を求めた人達の心を掴んで僅か3代50年で広大な国土を得ることが出来た。このシステムも、スペイン人が食料の補給に困ることなくインカを侵略できてしまった結果を生んだ。
★インカ神話
インカ神話(インカしんわ)はインカ民族(ケチュア族)に伝わる神話であるが、ここでは、『ペルーの神話』『アンデスの神話』などと呼ばれるアンデス山脈の諸民族の神話の総称と定義して解説する。
神話の背景
アンデス山脈の高地や海岸の砂漠地帯に発展したアンデスの諸民族は、それぞれが民族固有の神話伝承を口承で語り継いでいた。 しかしインカ帝国が15世紀末頃にこれら諸民族を統一すると、インカ民族の言語であるケチュア語を普及させるとともに、国家宗教である太陽の神殿祭祀を推し進めた。 各地の伝承はインカ民族の伝承や神話が入り込んで変容し、さらに民族固有の伝統が変化したり言語が失なわれたりすることもあった。
1532年から翌年にかけ、フランシスコ・ピサロらスペイン人の侵攻を受け、皇帝アタワルパを殺され首都クスコを奪われたインカ帝国は崩壊した。 地元民は、戦乱だけでなくヨーロッパ大陸から入ってきた病気によって、地区によっては全滅した例もあった。 さらにカトリック教会が従来の宗教に弾圧を加えた。 アンデスでは文字を使用していなかったため、スペイン人に征服される前の神話伝承の記録は、こうした出来事の中で多くが失われたと考えられている。
アンデスに侵入してきたスペイン人のうちの少数や、読み書きができるメスティーソとインディオが、神話などの口承を記録した。 これらは記録者の価値観によって内容が歪曲されている可能性がある。たとえばワマン・ポマの記録は貴重な内容であるものの、キリスト教の影響が濃く出ているとされている。 また記録者によっては、神話を聖書に沿った内容に改変したり、聖書に伝えられた出来事を重ねようとして神話を歪めたりする例もあった。しかし、まだヨーロッパ文明の影響を受けていない征服間もない時期の記録には、インカの伝承、国家的な祭祀の様子が詳しく書かれている。
主な神話
創世神話
ペルー南部高地の伝統的な創造神ビラコチャは、インカ民族に伝わる神であり、多くの記録者による異伝がある。 海岸地域では、太陽と兄弟であるとされる創造神パチャカマックが活躍する。 中部高地のワロチリ地方には4柱の創造神、ヤナムカ・トゥタニャムカ(ヤナムカ・インタナムカ)、ワリャリョ・カルウィンチョ、パリアカカ、コニラヤ・ビラコチャ(クニラヤ)の神話が伝えられている。 このほか、北高地のワマチューコ地方にも独自の神話が残っている。
北高地南部では、4つの世界、すなわちワリウィラコチャルナ(人類が洞窟に住み、無心に暮らす)、ワリルナ(定住して農業をし、創造神を知る)、プルンルナ(王や戦士が生じ、また海岸低地に進出)、アウカルナ(王国間で戦争)が次々に交代したという伝承がある。 また、南高地のチチカカ湖周辺にも、プルンパチャ、カリャックパチャ、プルンカチャ・ラカプティン、トナパ・ビラコチャという4つの世界が次々に現れたという伝承がある。
インカ民族を最初に支配したのはマンコ・カパックとされている。(詳細はインカ帝国#伝承を参照。)
なお、マンコ・カパックは4人兄弟の末っ子であるが、アメリカ大陸では一般的にこの「4」という数字が神聖視されている。
太陽の神話
インカ帝国の国教は太陽神信仰であったとされるが、創世神話において太陽は他の神に作られることはあっても太陽自体が主神の役割をすることはなかった。 パチャクテクを皇帝とするインカ帝国が諸民族を征服、支配した後で、帝国の支配の正当性を示すべく、昔からの神話を解釈し直して新たな神話を作り出した。ユパンキ(パチャクテクの初名)の物語は、太陽を父とするパチャクテクによる征服を正当化するものである。
インカ帝国崩壊後の神話
インカ帝国が崩壊した後、国家的祭祀と神話はじきに消滅してしまったが、アンデス各地に根強く伝わっていた神話、信仰、儀礼は残った。 ワマニをはじめとする山上の神、地母神パチャママへの信仰は強固に残存した。 また、神秘的な力を持った物や表象物や場所、神格、神像をさす『ワカ』という概念も信仰され続けた。 雷や稲妻も天の神の姿の1つとされて信仰され、雨を降らせる力にも関連づけられた。
パチャママは神話にはあまり登場しないものの、近代になっても農民がトウモロコシで作った酒を大地に撒き、地下にあって大地の作物を増殖させると信じられているパチャママを讃えている。
ケチュア人
ケチュア(Quechua、またはQuichua)は、かつてインカ帝国(タワンティンスーユ)を興したことで知られる民族である。ペルー、エクアドル、ボリビア、チリ、コロンビア、アルゼンチンに居住する。
▼アタワルパ(Atahualpa、ケチュア語族: Atawallpa:幸福な鶏、1502年頃-1533年7月26日、在位:1532年-1533年)は、インカ帝国の実質的に最後(13代)のサパ・インカ(皇帝)である(名目上最後の皇帝はトゥパク・アマル)。父は11代インカ皇帝ワイナ・カパック。マラリアか天然痘であると考えられている伝染病により父帝ワイナ・カパックが亡くなると、異母兄で12代インカ皇帝ワスカルを内戦で破り即位した。
▼トゥパク・アマル(スペイン語:Túpac Amaru、、ケチュア語:Tupaq Amaru=高貴な龍又は輝ける龍、1545年-1572年9月24日、在位:1571年-1572年)は、インカ帝国最後の「皇帝」である。ただし、彼が「皇帝」となるより遙か以前に、インカ帝国はフランシスコ・ピサロによって征服されており、一部の残党がクスコ北方のウルバンバ川流域に立てこもってスペインに抵抗を続けていた。この新しい亡命政権を「ビルカバンバ(Vilcabamba)のインカ帝国」と呼ぶ。彼は、この勢力に擁立されたが、その後短期間のうちにこの「ビルカバンバのインカ帝国」は滅亡した。
▼現代のケチュアの人々