エーゲ文明
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エーゲ文明(エーゲぶんめい)は古代ギリシアにおける最古の文明。有名なトロイア、ミケーネ、ミノアの三文明のほか、さらに古い段階のキクラデス文明やヘラディック期(英語版)ギリシア本土の文化などがある。ドイツのシュリーマンのミケーネ遺跡発掘により存在が確認された。

エーゲ文明の経緯
前期エーゲ文明では基本的に戦争もなく比較的平和な時代だったと推測される。 それは発掘された王の宮殿からも推測できる。城壁もなく開放的な城の姿は海洋民族の特徴と言える。一方、後期エーゲ文明では城塞がその特徴の1つとなっている。
地中海を通じて古代オリエントと近く、他地域に先駆け文化が発達。線文字A、線文字Bなどの高度な文明を残し、古代エジプト文明の影響を受けたとされ、また青銅器文化も栄えた。(線文字Aは未解読)しかし紀元前12世紀頃すべて突然滅亡。原因は未だ解明されていない。貢納王政の衰退とも言われているが、北方ギリシア系ドーリア人、もしくは海の民の侵入との説が有力。三文明滅亡後のギリシアは人口が激減し線文字も人々から忘れ去られていったようである。
エーゲ文明滅亡から古代ギリシア諸ポリス成立までの約400年間は記述による記録も残っていないためこの時期については不明である。そのためその時期を暗黒時代と呼ぶ。
【エーゲ各文明の比較】
●ミノア(ミノス、クレタ)文明
●ミケーネ文明
- 全盛期 B.C.1600頃~B.C.1200年頃
- 政治 小国分立
- 発見者 1876年 シュリーマン
- 民族 ギリシア系民族アカイア人
- 中心地 ミケーネ・ティリンス
- 美術 獅子の門 黄金のマスク
●トロイア文明
●キクラデス文明
- B.C.3000頃~B.C.2000頃
- 発見者 1899年 クリストス・ツンタス
- 中心地 キクラデス諸島
◆ミノア文明
ミノア文明(ミノアぶんめい)は、エーゲ文明のうち、クレタ島で栄えた青銅器文明のことである。伝説上のミノス王にちなみ、ミノス文明とも呼ばれるが、クレタ文明と呼ばれることもある。
▼クレタ島ミノア文明地図
▼クレタ島のクノッソス宮殿

ミノア文明(クレタ文明)の歴史
紀元前2000年頃の中期ミノア期に、地中海交易によって発展し、クノッソス、マリア、ファイストスなど、島内各地に地域ごとの物資の貯蔵・再分配を行う宮殿が建てられた。宮殿以外にもコモスやパレカストロのような港湾都市が繁栄。また、貿易を通じてエジプトやフェニキアの芸術も流入し、高度な工芸品を生み出した。紀元前18世紀ごろには、線文字Aを使用している。
紀元前1600年頃の後期ミノア期には、各都市国家の中央集権化、階層化が進み、クノッソス、ファイストスが島中央部を、マリアが島東部をそれぞれ支配するに至ったが木材の大量伐採による自然環境の破壊が文明そのものの衰退を招き[1]、紀元前1400年ごろにミュケナイのアカイア人がクレタ島に侵入、略奪されミノア文明は崩壊した。
クレタの宮殿建築は非対称性・有機的・機能的な構成で、中庭は外部から直接に進入することができ、かつ建物の各部分への動線の起点となっている。建物は常に外部に対して開放されており、当時のクレタが非常に平和であったことが推察される。
初期の宮殿建築では、宮殿に接して市民の公共空間が設けられていたが、後期ミノア時代に社会体制が中央集権化・階層化するとともに次第に公共空間は廃れ、他の建築物が建てられた。祭政を一体として行っていたために、独立した祭儀場を持たない。
ミノア文明は、紀元前15世紀半ばに突然崩壊した。その原因を、イギリスの考古学者アーサー・エバンスらは、サントリーニ島の巨大爆発(ミノア噴火)に巻き込まれたとする説を唱えた。しかし、アクロティリ遺跡の調査によってミノア文明が滅んだのは、ミノア噴火より50年後ほど経た後であり、サントリーニ島の噴火が直接の原因ではないことがほぼ確定している。
ミノア文明以前
| 年代 | 土器による編年 | 文化推移による区分 |
|---|---|---|
| 前3650年-3000年 | EMI | 前宮殿時代 |
| 前2900年-2300年 | EMII | |
| 前2300年-2160年 | EMIII | |
| 前2160年-1900年 | MMIA | |
| 前1900年-1800年 | MMIB | 古宮殿時代 (第1宮殿時代) |
| 前1800年-1700年 | MMII | |
| 前1700年-1640年 | MMIIIA | 新宮殿時代 (第2宮殿時代) |
| 前1640年-1600年 | MMIIIB | |
| 前1600年-1480年 | LMIA | |
| 前1480年-1425年 | LMIB | |
| 前1425年-1390年 | LMII | 諸宮殿崩壊後の時代 (最終宮殿時代) |
| 前1390年-1370年 | LMIIIA1 | |
| 前1370年-1340年 | LMIIIA2 | |
| 前1340年-1190年 | LMIIIB | |
| 前1190年-1170年 | LMIIIC | |
| 前1100年 | 亜ミノア文化 |
クレタ島ではギリシャ本土やキクラデス諸島と並行しながら独自の進化を遂げていた。そのため、本土や島嶼部で発掘されるソースボートはクレタ島では稀にしか発見されず、その逆にクレタ島で発掘されるヴァシリキ様式(de)ティーポットは本土や島嶼部で発見されることは稀である。
そのため、初期青銅器時代にキクラデス諸島での文化断絶が発生したにもかかわらず、クレタ島ではその傾向は見られず、中期青銅器時代に至ると宮殿が築かれるようになった。この青銅器時代の文化推移についてクレタ島ではエーゲ海で見られる初期、中期、後期と並行した形で前宮殿時代、古宮殿(第1宮殿)時代、新宮殿(第2宮殿)時代、諸宮殿崩壊後(最終宮殿、もしくはクレタのミケーネ)時代という区分が用いられることが多い。なお、各時代は土器の様式の変化に伴い、右の表のように細分化されている。
ミノア文化の盛衰については研究者のあいだでも議論が続いており、高編年を取る者、低編年を取る者の間で100年ほどの差が出ている。ミノア文化について明らかにするには線文字Aの解読、宮殿から得られる情報の整理、宮殿周囲の都市やヴィラ、聖域なども考慮して研究することが必要であるとされており、研究が続いている。
前宮殿時代
土器様式
この細分化された編年で前宮殿時代に属するEMI、EMII、EMIII(初期青銅器時代)、MMIA(中期青銅器時代初期)のにおいて、EMIはピュルゴス土器と呼ばれる部分的に磨かれた装飾が見られる灰黒色の土器、または水差しが発見されることの多い白色に赤線が描かれたアイオス・オヌフリオス土器が代表となる。
EMIIはさらにAとBに細分化されており、Aの方ではクウマサ土器と呼ばれるアイオス・オヌフリオス土器が発展した彩文土器や刻文が彫られた灰色土器が見られる。それに対してBではヴァシリキ土器が多く見られる。このヴァシリキ土器はクレタ東部に多く分布しており、器の外面が磨かれ黒や赤の光沢がある斑が見られるのが特徴である。
EMIIIでは黒地に白で文様が描かれているが、この特徴はMMIAにも受け継がれており、MMIAでは赤色がこれに加わっている。
特徴
前宮殿時代の代表的遺跡としてミルトスのフルヌウ・コリフィ遺跡が上げられるが、この遺跡はEMIIに所属する。この遺跡はEMII末期に焼壊した後、定住者が現れなかったために当時の様相を残している。
この遺跡は計画的に建てられた物ではなく、家々も小さな部屋で構成されているが、その後の時代に形成された宮殿のような大型の貯蔵庫と思しきものが発見されている。また、遺跡周辺には膨大な数の石皿が発見されており、当時、この遺跡で穀物が粉にされていたことが想像されている。
埋葬については共同墓地に何世代もの人々が葬られており、クレタ中部のメサラ平野で見られるトロス墓、クレタ島部のモクロス島で見られる長方形の施設が存在する。ただし、このトロス墓はミケーネ時代のように地下ではなく地上に作られている。また、アルハネスのトロスCではキクラデス文化の石偶が発見されており、クレタ島とエーゲ海島嶼部が交流していたことが窺える。
その後、前2000年頃になるとクレタ島におけるミノア文化を特徴づける宮殿が成立することになる。これらの宮殿は計画的に建設されており、また、規格化もなされている。そのため、フルヌウ・コリフィの集落のように自然発生したものではなく、クノッソス、マリア、フェストス、ザクロスで発見されたそれぞれの宮殿は基本的に同一な構造である。これらの宮殿の規格、構造が同一であることは何らかの人物が主導したと想像されており、この宮殿の成立によってミノア文化の人々が支配する側と支配される側と二分化が始まっていたと思われる。
また、宮殿は中央に長方形の広場が形成され、その周囲に各種機能を担うブロックが配置されているが、この西側にはさらに広場が構築されている。この西側の広場から宮殿を見たときに宮殿が最も威容を持つようにされており、ここにも二分化の傾向が暗示されている。
古宮殿時代
土器様式
この時代、カマレス土器と呼ばれる白、クリーム色、赤、オレンジ色で大胆に抽象的文様が描かれた土器が生まれる。また、MMIB期に入るとろくろが導入されたと想像されており、その技術はかなり向上している。これらの高い技術は宮殿の成立に伴って製陶が専門化されたことにより生まれたと考えられている。
特徴
クノッソスの宮殿の最古部はMMIBに属しているが、この時期に宮殿が完成されたわけではなく、北西部と西側の貯蔵庫が最初に構築され、その後、東側の建物が構築されたと考えられている。西側の広場ではクールーレスと呼ばれる円形のピットが3つ掘られており、これらは穀物を地下に貯蔵していたとされている。また、最西部ではオリーブ油やワインなどが貯蔵されており、宮殿が構築当初から農産物の貯蔵に使用されていたことが窺える。また、中央広場東部では土器の補完や紡績の作業場として使用されていたことが推測されており、これらの発展はメサラ平野のフェストス宮殿でも見ることができ、フェストスでは古宮殿時代はフェイズ1、フェイズ2、フェイズ3の三段階に分けられているが、それぞれのフェイズで貯蔵庫、加工の場としての性格が進行している。
クノッソスの宮殿における祭祀、行政の中核は宮殿西翼の東部で行われており、この中でも重要な箇所である「玉座の間」は過去にミケーネ時代(LMII)に至ってから構築されていたと思われていたが、その後の研究の結果、この時代に構築されたことが明らかになっている。このようにクノッソスでは祭祀施設が宮殿内部に構築されていたが、マリアの宮殿では宮殿外のMu地区(Quartier Mu)と呼ばれる複合施設に構築されている。
これら古宮殿時代の宮殿は高編年では前1780年に地震で全て崩壊したと考えられている。しかし、その後、崩壊した宮殿の上に同様の計画をもってより規模を拡大したうえで再建されている。
新宮殿時代
土器
新宮殿時代に至ると土器フェイズではMMIIIからLMIBに分類されるが、この時代にミノア文化は最盛期を迎える。MMIII期に入るとカマレス土器はあまり見られなくなり、その代わりに亀甲波状文が施されたものが現れはじめる。さらに土器の形状も様々なものが生まれ始め、後期青銅器時代に見られる土器で導入された技術が生まれ始めているのがMMIIIの特徴でもある。
LMIA期に入ると明色地に暗色(赤、茶)で水平方向に渦巻や草花を描くことが普及しはじめる。草花文はカマレス土器にも描かれることがあったが、LMIA期はそれとちがい柔軟で自然主義的な文様が多く、これはフレスコ画にも共通している。
LMIBに入ると新たに「宮殿伝統」として高度な芸術性を持った精製土器群が現れる。この土器には海洋文様式、草花文様式、抽象文様式、交互様式の4様式が見られる。
特徴
古宮殿時代に一度は崩壊したクノッソスの宮殿もその上に新たに宮殿が再建された。この再建は同時に行われたものではなく、徐々に造営されたと考えられている。この再建時に「玉座の間」も玉座が作られ、それを取り巻くベンチも作られたと考えられるが、この玉座が作られた経緯、その機能については現在も議論が続いている。
ただし、玉座背後の壁には一対のグリフォンが描かれているが、この一対のグリフォンが印章などに描かれていた場合、女性を守る図で描かれることが多いことからこの玉座に座って宗教的、もしくは世俗的な行為を行ったのが女性であった可能性が高い。また、「玉座の間」の南側には宮殿における信仰の中心地であったと考えられている神聖な円柱を含む祭祀施設が構築されており、さらにその奥側には神聖な供物を保管する地下格納庫が構築されていた。
この地下格納庫では陶製の蛇を持つ女神像や線文字Aが刻まれた粘土板が出土しているが、これらのものが同じ場所で出土したことは祭祀と行政が堅く結ばれていたことを示していたと思われる。
新宮殿でも中央広場が構築されており、この広場では牛飛びの儀式が行われた場所とされているが、これには異論も存在しており、西側広場で行われていたものを描いたと思われるフレスコ画と中央広場で行われていたものを描いたフレスコ画では描かれた若者の服装や髪型に違いが見られるが、これはこの広場が運動場であったわけではなく、集会場、いわゆる古代ギリシャにおいて行われたアゴラを暗示するものと考えられている。
宮殿
ミノア文化の宮殿は各地から集まる物資の貯蔵、加工を行い、それを再分配するシステムの中心地であった。マリアやザクロスでは宮殿を中心に町が形成されている。ただし、ザクロスの場合は海に面した地域で港湾都市が形成され、その後、宮殿が形成されたと推測されている。グルニア、コモス、パレカストロでは宮殿とは別の箇所で町が形成されている。特にパレカストロでは町の規模が宮殿を上回っており、街道を中心に形成されている。また、発掘が進められているコモスも港湾都市であり、宮殿と同規模の町が発見されている。
新宮殿時代に至ると都市とは別にヴィラと呼ばれる孤立家屋が普及し始める。ヴィラは複数の部屋で構成される一軒屋、もしくは複数の家屋群で構築されていることがあるが、これらは宮殿と同じように物資の貯蔵施設があり、アルハネス南のヴァシペトロのヴィラではワイン、オリーブ油を製造する遺構が発見されており、さらにこのヴィラは円柱をめぐらした吹き抜けの2階部分にバルコニーがついたものが発掘されており、これは当時の姿をよく伝えている。
ミノア文化は多神教であったが、宮殿は信仰の中心地でもあった。各地の宮殿は祭祀に関わる施設が作られ、多くの宮殿には聖域が構築されており、そこには『聖別の角』が飾られていた。
ミノア文明の発掘
ミノア文明発掘は1884年、クレタ島を訪れたイタリアの研究家ハルブヘルによる、前5世紀に著されたとされるゴルテュン法典の発見が嚆矢となった。
その後、イギリスの考古学者であるアーサー・エヴァンズは、エジプトやメソポタミアの例を見る限り、ハインリヒ・シュリーマンが発見したトロイアとミュケナイにおける高度な文明は文字なしには成立し得ないと考え、アテネの店先で見たクレタ島起源の護符のような印章に象形文字と思われる記号があったことからクレタ島へ向かった[19]。
エヴァンスはクレタ全域を踏破した後、ギリシャ人ミノス・カロケリノスが1878年に発見したケファラの丘を発掘地に定めた。エヴァンスにとって幸運なことに1900年にクレタ島がオスマン帝国からギリシャ領となっていたことやミロス島のフィラコピ遺跡に携わっていたマッケンジーの協力を得たことにより発掘は順調に進んだ。
1900年、クノッソス宮殿が発掘されギリシャ本土より200年以上前にギリシャを彩った文明の痕跡が発見された。エヴァンスはこれをミノア文明(Minoan)と名付けた。
◆ミケーネ文明
ミケーネ文明(ミケーネぶんめい)またはミュケナイ文明(ミュケナイぶんめい)は、エーゲ文明のうち、ペロポネソス半島のミケーネ(ミュケナイ)を中心に栄えた青銅器文明である。
ミケーネ文明の概要
イギリスの考古学者アーサー・エヴァンズは、自身の考察から、1900年にクレタ島のクノッソスを発掘し、そこで発見した線文字Bをミノア文明(クレタ文明)発祥のものと考えたが、1939年にピュロス王宮で線文字Bの刻まれた粘土版が発見され、実際にはこれはミケーネ文明で用いられたものと判明した。1952年にはミケーネ王宮、1971年にはティリンスでも、線文字Bを記した粘土版が発掘されている。ミケーネやチリンスの遺跡などは19世紀にシュリーマンによって発掘された。
ミケーネ文明は、紀元前1450年頃、アルゴリス地方で興り、ミノア文明と同じく地中海交易によって発展した。ミノア文明との貿易を通じて芸術などを流入し、ついにはクレタ島に侵攻、征服したと考えられる。このころ、ミケーネはトローアスのイリオスを滅ぼし(トロイア戦争)、後にこれをホメーロスが叙事詩『イーリアス』の題材としたが、イリオスで大規模な破壊があったことは認められるものの、これが事実かどうかは推察の域を出ない。紀元前1150年頃、突如勃興した海の民によって、ミケーネ、ティリンスが破壊され、ミケーネ文明は崩壊した。これは後にスパルタを形成するドーリア人の手による。
ミノア文明の建築が開放的であったのに対し、ミケーネ文明の建築は模倣的で巨石を用い、円頂墓を作る等、堅牢な城壁で囲まれ閉鎖的なものとなっているが、これはミノア文明とは異なり外敵の脅威にさらされる可能性があった為と考えられている。中庭はミノア文明のそれとは異なり、動線の基軸として機能していない。中庭に代わる動線の基軸はメガロンと呼ばれる室内空間で、記念性を持った特権的な空間を構成し、中庭はその付属物である。 建物は対称性が重視されている。
のちのポリス社会と異なり、王が君臨し統治下の村々から農作物、家畜などを貢納させていた。貢納を受ける役人が存在していたが、エジプトやメソポタミアほど統治機構の整備は進まなかった。
◆トロイア文明
イリオス(古代ギリシア語イオニア方言形:Ἴλιος, Īlios イーリオス)は、ギリシア神話に登場する都市。イリオン(イオニア方言形:Ἴλιον, Īliov イーリオン)、トロイア(アッティカ方言形:Τροία, Troia トロイア、イオニア方言形:Τροίη, Troiē トロイエー、ドーリス方言形:Τρωία, Trōia トローイア)、トロイ(英語:Troy)、トロイアー(古典ラテン語:Troja トロイヤ)などとも呼ばれる。現在のトルコ北西部、ダーダネルス海峡以南(同海峡の東側、アジア側、トルコ語ではトゥルヴァ)にあったとされる。遺跡の入り口には、有名な「トロイの木馬」の複製が建てられている。
一般に、ハインリヒ・シュリーマンによって発掘された遺跡がイリオスに比定されている。神話ではかなりの規模を持った都市国家であるが、現在発掘によって確認される遺跡は城塞以上のものではない。ギリシア神話においては、アガメムノーンを頭とするアカイア軍に滅ぼされたとされ、そのあらましはホメロスの『イーリアス』をはじめとする叙事詩環に描かれている。
トロイの古代遺跡については、イリオス遺跡を参照のこと。
伝説上のイリオス(トロイア)
イリオスの建設
かつてイリオスのある地域は、スカマンドロス河とニュンペーのイダイアの子であるテウクロス(テラモーンの子テウクロスとは別)が王として治めており、テウクロイと呼ばれていた。そこへアトラースの娘エーレクトラーにゼウスが生ませた子であるダルダノスがサモトラケ島からやってきた。ダルダノスはテウクロスの客となり、彼の娘バティエイアと領地の一部をもらった。彼はそこにダルダノスという都市を築き、テウクロス王の死後、テウクロイの一帯はダルダニアと呼ばれるようになった。
ダルダノスの後はエリクトニオスが相続した。エリクトニオスの後はトロースが継いだ。トロースは、自分の名にちなんでダルダニアの地をトロイアと呼ぶことにした。
トロースはスカマンドロス河の娘カリロエーと結婚し、クレオパトラー(プトレマイオス朝の女王クレオパトラ7世とは別人)、イーロス、アッサラコス、ガニュメーデースをもうけた。ガニュメーデースが気に入ったゼウスは、鷲に変身してガニュメーデースをさらい、オリュンポスの給仕係とした。そして、その代償に馬を与えた。なお、アッサラコスの子がカピュスで、カピュスの子がアンキーセース。アンキセスの子がローマの元となった都市を築いた英雄アイネイアースである。
トロースの子イーロスはプリュギアで、その地の王が主催した競技会の相撲の部に優勝。賞品として50人の少年と50人の少女を得た。また王は彼に斑の牛をあたえ、「その牛が横になったところに都市を築けという神託が下ったから、その通りにしなさい」といった。イーロスが牛の後についていくと、牛はアテという丘で横になった。そこでイーロスはそこに都市を築き、イリオスと名づけた。イーロスはアドラーストス(テーバイ攻めの七将の一人のアドラーストスとは別人)の娘エウリュディケと結婚し、ラーオメドーンをもうけた。イーロスの後はラーオメドーンが継いだ。ラーオメドーンの子供には、娘のヘーシオネー、息子ティートーノス、ポダルケースなどが生まれたという。
アポロンとポセイドンによる城壁の建築
あるときアポローンとポセイドーンはゼウスに対する反乱をくわだてた。このためゼウスの怒りを買い、人間の姿に身をやつし、イリオス王ラーオメドーンのためにイリオスの城壁を築くという罰を受けた(一説によると、城壁を築いたのはポセイドンだけで、アポローンは羊飼いの役目をしていたという)。 城壁完成の後にアポローンとポセイドーンが報酬を貰おうとすると、ラーオメドーンはそれを拒絶した。アポローンとポセイドーンは怒り、アポローンは疫病で、ポセイドーンは海の怪物でイリオスを悩ませた。
その後、怪物にラーオメドーンの娘ヘーシオネーをささげれば、災いから逃れることができるという神託が下った。そこで、海から来る怪物に見えるように、海岸近くの岩にヘーシオネーを縛り付けた。それを見たヘーラクレースは、ガニュメーデースの代償にゼウスが与えた馬をくれるなら、怪物を倒してヘーシオネーを救おうと申し出た。ラーオメドーンが請合ったので、ヘーラクレースは怪物を倒してヘーシオネーを救った。ヘーラクレースが報酬の馬を貰おうとすると、ラーオメドーンは拒絶した。ヘーラクレースは、いずれイリオスを攻め落としに来るぞ、と捨て台詞を残して去っていった。
ヘーラクレースによるイリオス攻め
ヘーラクレースは参加者を募ってイリオス攻めを行った。18艘の船による軍勢の中にはペーレウス(アキレウスの父)やテラモーン(大アイアース、テウクロスの父)もいた。軍勢は船をおりてイリオスを目指した。イリオス王ラーオメドーンはヘーラクレースらの留守に船を襲ったが、逆にヘーラクレースたちに包囲され、捕虜となった。
ヘーラクレースたちはイリオスを包囲し、テラモーンがイリオスへの一番乗りを果たした。ヘーラクレースは自分よりも優れた者の存在が許せなかったので、テラモーンを殺そうとした。テラモーンは機転をきかせて石を集めるふりをした。不思議に思ったヘーラクレースがテラモーンに尋ねると、テラモーンは勝利者ヘーラクレースにささげる祭壇を築いているのだ、といった。ヘーラクレースは喜び、ラーオメドーンの娘ヘーシオネーを彼に与えた。
戦いの後、ヘーラクレースはヘーシオネーに捕虜のうちから一人だけ連れて行くことを許した。ヘーシオネーはラーオメドーンの息子ポダルケースを選んだ。ヘーラクレースがポダルケースの購いを求めると、ヘーシオネーは代償としてベールを差し出した。このことから、ポダルケースはプリアモス(ギリシャ語の「買う」はプリアマイ)と呼ばれることとなった。この時ポダルケース以外のラーオメドーンの息子はすべて殺された。
トロイア戦争
イリオスは、プリアモス王の時にギリシア勢に攻め込まれ、滅亡することとなった。
この戦争の発端はゼウスの思慮によるもので、人口調節のためとも神の名声を高めるためとも伝えられる。プリアモス王の后ヘカベーは、息子パリス(アレクサンドロス)を生むとき「自分が燃える木を生み、それが燃え広がってイリオスが焼け落ちる」という夢を見た。この夢の通り、パリスはイリオスにとって災厄の種となった。パリスは、ヘーラー、アテーナー、アプロディーテーの三女神の美の競合、いわゆるパリスの審判によりアプロディーテーからスパルタ王メネラーオスの妻ヘレネーを奪って妻とすることを約された。彼はスパルタからヘレネーを奪ったため、メネラーオスは直ちにトロイアにヘレネーを帰すよう求めた。しかし交渉は決裂、メネラーオスは兄アガメムノーンとともにトロイア攻略を画策した。
アガメムノーンを総大将としたアカイア軍(ギリシア勢)はイリオスに上陸、プリアモス王の王子ヘクトールを事実上の総大将としたイリオス軍と衝突した。多大な犠牲を出しながら戦争は10年間続き、アカイア軍の間には次第に厭戦気分が蔓延しはじめた。しかし、アカイア軍の将オデュッセウスは一計を案じ(一説には女神アテーナーが考えて)、エペイオスに木馬を造らせた。この、トロイアの木馬の詭計によってイリオスは一夜のうちに陥落した。陥落したイリオスから逃げ出すことができたのは、アイネイアースなど少数の者たちだけだった。
トロイのイリオス遺跡
| |||
|---|---|---|---|
トロイの考古遺跡 | |||
| 英名 | Archaeological Site of Troy | ||
| 仏名 | Site archéologique de Troie | ||
| 登録区分 | 文化遺産 | ||
| 登録基準 | (2),(3),(6) | ||
| 登録年 | 1998年 | ||
| 公式サイト | 世界遺産センター(英語) | ||
| 地図 | |||
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| 使用方法・表示 | |||
シュリーマンによるトロイアの発掘
ハインリヒ・シュリーマンによって発掘が行われるまで、イリアスは神話上の架空都市にすぎないというのが一般の通念であった。
このような常識に対し、シュリーマンは自著『古代への情熱』で、幼いころにイリアスの子供向けの物語を読み、イリアスは実際に起きた出来事をもとにした物語だと考えて発掘を決意し、資金を集めるために商人になったと述べている。
1868年、シュリーマンはトロイアのあった場所としてダーダネルス海峡西端のチャナッカレ近郊にあるヒッサリクの丘(en)に見当をつけた。アキレウスがヘクトールを追い回すことができるような場所、近くにイリアスに書かれた川(スカマンドロス河)があるような場所が他にないというのが彼の説明である。
1870年、シュリーマンは、私財を投じてトロイアの発掘を開始。この発掘には既に功績を挙げたオリンピア発掘隊もかかわっている。シュリーマンの狙いは正しく、曲輪に囲まれた遺跡を発掘した。ヒッサリクの丘の遺構は複数の層から成っており、シュリーマンは火災の跡があった第II層をトロイアだとした。しかし、後の研究の結果、この層はトロイア戦争があったとされる時代よりも前の時代のものであった。
シュリーマンの発掘が学会で認められるには時間がかかった。当時の常識に反している上に、シュリーマンがまったくの素人だったからである。確かにシュリーマンの間違った推定と発掘により、遺跡の考古学的価値は大きく傷ついていた。しかし、当時は現代的な意味での考古学は未整備な状況であった。
- 1882年からドイツの考古学者ウィルヘルム・デルプフェルトが発掘に参加。
- 8年後の1890年、トロイ第7a市、メガロン(ギリシャ建築の宮殿)跡を発掘、第7層がホメロスのトロイと判定した。
- 1896年2月26日、シュリーマン死去、デルプフェルトは仕事を続ける。
- 1893年〜94年、デルプフェルトは第7市の要塞を発掘、ホメーロス『イーリアス』のトロイを確証した。
イリオス遺跡トロイアの構成
現在までの調査によると、イリオスの遺跡は9層から成り、シュリーマンが『イーリアス』当時のトロイアのものだとした第II層Gは、紀元前2500年から紀元前2200年のものだということがわかった。第I層、すなわち最初の集落は紀元前3000年頃に始まっており、初期青銅器時代に分類される。第II層は、エーゲ海交易によって栄えたと考えられており、トロイア文化ともいうべき独自の文化を持っていた。城壁は切石の下部構造を持ち、入り口は城壁を跨ぐ塔によって防衛されている。しかし、その後の第III層から第V層は繰り返し破壊されており、発展的状況は認められない。
紀元前1800年から紀元前1300年に至る第VI層において、イリオスは再び活発に活動を始めている。『イーリアス』の時代とされるものは紀元前1200年ころの第VII層Aだったが、これはシュリーマンの発掘によって大きく削られてしまったため、ほとんど何も残っていない。この時期に規模は拡張されているが、それでも曲輪の直径は140m程度で、都市機能はかなり矮小であると言える。従って、イリオス遺跡は都市というよりは城塞である(ただし、周辺一帯の大規模な発掘によって、曲輪の外側に都市機能が認められる可能性はある)。第VII層Aはすぐに崩壊し、後に貧弱な第VII層Bが続いていた。その後に第VIII層、第IX層が続くが、これらはギリシア人・ローマ人による町の遺構である。
トロイア戦争の時代を、ヘロドトスは紀元前1250年、エラトステネスは紀元前1184年、Dourisは紀元前1334年と推定した。トロイア戦争時代と推定される第VII層の発掘では、陶磁器の様式から、紀元前1275年から紀元前1240年と推定されている。
シュリーマンの発掘した遺跡がトロイア戦争の舞台として登場する古代都市イリオスであるか否かは議論のわかれるところである。ホメロスの『イーリアス』には複数の都市に関する伝承が混合している可能性が指摘されており、その複数の都市の中に、シュリーマンが発掘したこのトロイア遺跡が含まれているということについては概ね合意が得られている。しかし、ホメロスの『イーリアス』それ自体に考古学的事実と符合しない部分があり、また、最も重要な証拠となるべき第VII層の大部分がシュリーマンの発掘によって消失しているので、イリオス遺跡が伝説上のトロイアであるという決定的な証拠はない。ホメロスの伝承が全く架空の伝承とする立場もないわけではない。
とは言え、この遺跡の発掘が考古学の発展に与えた影響は大きく、そういった意味からもユネスコの世界遺産に登録されている。
ヒッタイトの記録によるイリオスとトロイア
紀元前13世紀中ごろのヒッタイト王トゥドハリヤ4世時代のヒッタイト語史料に、アナトリア半島西岸アスワ地方の町としてタルウィサが登場する。これはギリシア語史料のトロイアに相当する可能性が示唆されている。また、同史料にウィルサ王アラクサンドゥスが登場する。これもそれぞれギリシア語史料のイリオスとアレクサンドロスに相当する可能性が示唆されている。
トゥトゥハリヤ4世の治世はヒッサリク遺跡の第VII層Aの時代と一致しており、パリスの別名がアレクサンドロスであったことが知られている。このため、この史料の記録はギリシア史料によるトロイア戦争となんらかの関係があるのではないかと推測されている。
20世紀の発掘調査
- 1932年〜38年 シンシナティ大学の考古学班が発掘を再開。
- 1938年 第二次世界大戦の為に中断。
- 1950年 シンシナティ大学の調査結果発表、46層位が確認された。
- 1990年 シンシナティ大学、ドイツ・トルコの考古学者と共に発掘・整備。
世界遺産「トロイの考古遺跡」
イリオスの遺跡は、1998年、「トロイの考古遺跡」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
◆キクラデス文明
キクラデス文明(キクラデスぶんめい;Cycladic civilization)とは、新石器時代から青銅器時代初期にエーゲ海のキクラデス諸島に栄えた文明で、エーゲ文明に含められる。年代は紀元前3000年頃から2000年頃にわたり、これはクレタ島のミノア文明よりも前に当たる。
キクラデス文明の歴史
この文明で最も有名なのは、極度に様式化された大理石製の女性像である。これらは約1400体知られているが、20世紀初頭に盗掘され、出土地がわかっているのはその40%にすぎない。
エーゲ海西部ではすでに紀元前4000年より前に、アナトリアとギリシア本土の影響が混合した独特の新石器文化が栄えた。これはエンマ小麦、野生種の大麦、羊、山羊、海で捕れるマグロに依存していた。サリアゴスSaliagosやケファラKephala(ケア島)の遺跡からは、銅細工を行った証拠が得られている。
各島は小さくせいぜい人口数千人規模だったが、キクラデス文明後期の船の模型から、多数の島から50人ほどの漕ぎ手が集まって航海をしていたと思われる。
クレタ島で高度に組織化された宮廷文化が発展すると、キクラデス諸島は重要性を失ったが、デロス島だけは聖地としてギリシア古典期を通じて名声を保った(デロス同盟も参照)。
キクラデス文明の編年は大きく前期・中期・後期の3期に分けられる。前期は紀元前3000年頃始まり、紀元前2500年頃に中期(考古学的にはまだ不明の点が多いが)に移行する。キクラデス文明後期の終わり(紀元前2000年頃)までには基本的にミノア文明に融合した。ただキクラデス文明の編年には、文化史的なものと年代学的なものの間でやや食い違いがあり、これらを結び付けた編年も一定していないが、普通には次のようにまとめられる。
キクラデス文明の編年
- 前期キクラデスI期 (ECI) - グロッタ・ペロス(Grotta-Pelos)文化
- 前期キクラデスII期 (ECII) - ケロス・シロス(Keros-Syros)文化
- 前期キクラデスIII期 (ECIII) - カストリ(Kastri)文化
- 中期キクラデスI期 (MCI) - フィラコピ(Phylakopi)文化
- 中期キクラデスII期 (MCII)
- 中期キクラデスIII期 (MCIII)
- 後期キクラデスI期
- 後期キクラデスII期
- 後期キクラデスIII期
キクラデス文明の考古学的発掘
1880年代に初めて考古学的発掘が行われ、その後英国系研究機関British School at Athensや考古学者クリストス・ツンタス(ツンダス Christos Tsountas、1857-1934)による系統的調査が行われ、彼はいくつかの島で1898-99年に墳墓遺跡を発掘して「キクラデス文明」の名を使った。その後はしばらく注目されなかったが、20世紀半ばにコレクターたちがその現代風な彫刻(ジャン・アルプやコンスタンティン・ブランクーシを想わせる)を奪い合うようになったことで再び注目された。しかし遺跡が掘り荒らされ、偽物も盛んに取引され、多くのキクラデス彫刻は脈絡が断ち切られてしまった。これらの彫刻の意味はもはや完全にはわからないであろう。もう一つの謎に満ちた遺物には、「キクラデスのフライパン」(用途不明)がある。
考古学的知識が増すにつれ、紀元前5000年頃に小アジアから渡って来た農耕・海洋文化の大まかな様相がわかってきた。キクラデス文明は紀元前3300年頃から2000年頃にかけて3段階で発展し、ミノア文明の影響をしだいに強めていった。一方で、クレタ島クノッソスの発掘で発見された土器により、紀元前3400年から2000年頃にキクラデスの影響があったことが判明した 。キクラデス文明と同時期のギリシア本土の文化は、ヘラディック文化と呼ばれる。













