古代エジプト王朝の主なファラオと業績
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エジプトは不毛の砂漠地帯であるが、毎年春のナイル川の増水で水に覆われる地域には河土が運ばれて堆積し、農耕や灌漑が可能になる。この氾濫原だけが居住に適しており、主な活動はナイル河畔で行われた。ナイル川の恩恵を受ける地域はケメト(黒い大地)と呼ばれ、ケメトはエジプトそのものを指す言葉として周囲に広がるデシェレト(赤い大地、ナイル川の恩恵を受けない荒地)と対比される概念だった。このケメトの範囲の幅は非常に狭く、ナイル川の本流・支流から数kmの範囲にとどまっていた。しかしながら川の周囲にのみ人が集住しているということは交通においては非常に便利であり、川船を使って国内のどの地域にも素早い移動が可能であった。この利便性は、ナイル河畔に住む人々の交流を盛んにし、統一国家を建国し維持する基盤となった。

ナイル川本流からナイル川の上流は谷合でありナイル川1本だけが流れ、下流はデルタ地帯(ナイル川デルタ)が広がっている。最初に上流地域(上エジプト)と下流地域(下エジプト)でそれぞれ違った文化が発展した後に統一されたため、ファラオ(王)の称号の中に「上下エジプト王」という部分が残り、古代エジプト人も自国のことを「二つの国」と呼んでいた。

毎年のナイル川の氾濫を正確に予測する必要から天文観測が行われ、太陽暦が作られた。太陽とシリウス星が同時に昇る頃、ナイル川は氾濫したという。また、氾濫が収まった後に農地を元通り配分するため、測量術、幾何学、天文学が発達した。
エジプト文明と並ぶ最初期における農耕文明の一つであるメソポタミア文明が、民族移動の交差点にあたり終始異民族の侵入を被り支配民族が代わったのと比べ、地理的に孤立した位置にあったエジプトは比較的安定しており、部族社会が城壁を廻らせて成立する都市国家の痕跡は今の所発見されていない。
古代エジプトの歴史
古代エジプトは、次の時代に区分されている。
- エジプト原始王時代 (紀元前4200年頃-紀元前3150年)
- エジプト初期王朝時代 (紀元前3150年-紀元前2686年)
- エジプト古王国 (紀元前2686年-紀元前2181年)
- エジプト第1中間期 (紀元前2181年-紀元前2040年)
- エジプト中王国 (紀元前2040年-紀元前1663年)
- エジプト第2中間期 (紀元前1663年-紀元前1570年)
- エジプト新王国 (紀元前1570年-紀元前1070年)
- エジプト第3中間期 (紀元前1069年-紀元前525年)
- エジプト末期王朝 (紀元前525年-紀元前332年)
- プトレマイオス朝 (紀元前332年-紀元前30年)
◆エジプト原始王朝時代(黎明期、上・下エジプト)
◆◆エジプト初期王朝時代(第1 - 2王朝)
紀元前3150年頃、上エジプトのナルメル王が下エジプトを軍事的に征服し、上下エジプトを統一してエジプト第1王朝を開いたとされる。従来はエジプト第1王朝の建国者とされてきたメネス王がナルメル王にあたるのか、それとも別の王に比定されるのかについては諸説ある。また、ナルメルは上下エジプトの王として確認される最古の王であるが、ナルメル王よりも古い上下エジプトの王がいた可能性もある。ヘロドトスによれば第1王朝期に、上下エジプトの境界地域に首都としてメン・ネフェル(メンフィス)が築かれたとされ、以後第一中間期の第8王朝にいたるまでエジプトの各王朝はここに都した。エジプト第1王朝は紀元前2890年頃に王統の交代によってエジプト第2王朝となった。この初期王朝時代の2王朝については史料が少なく、不明な点も多い。
◆第一王朝の創始者・ナルメル王(Narmer)
前31世紀の古代エジプトのファラオである。セルケト(「さそり王」)の後継者で、エジプト第1王朝の創始者であると考えられている。
1898年に James Edward Quibell がヒエラコンポリスで発見した、有名な『ナルメルのパレット』には、上下エジプトのシンボルを示すナルメルの姿が描写されており、これによって、ナルメルが上下エジプトの統一者であると考えられるようになった。
従来はメネス(Menes)が最初の統一王とされ、マネトの王名表にもメネスが最初のファラオとして記載されていることから、エジプト最初のファラオが誰なのかについて論争が巻き起こった。エジプト学者の間では、メネスとナルメルが同一人物であるとする説や、ナルメルによって統一されたエジプトをメネスが継承したとする説、ナルメルの統一事業をメネスが引き継いで完成させたとする説などがある。
これら諸説と並んで論じられるのが、エジプトが統一されて間もなくナルメルがこれを引き継ぎ(この場合、統一王は「さそり王」ではないかと考えられる。彼の名前が刻まれたメイスヘッドがヒエラコンポリスで発見されている)、おそらく統一以前からすでに用いられていたであろう統一のシンボルを採用したという説である。
ナルメルが実在したという物証が多数ある一方で、現在のところ、メネスはマネトの王名表や伝承にしか登場しないということは特筆すべきであろう。
1994年の夏、イスラエル南部の Nahal Tillah で発掘調査隊が刻印の入った陶片を発見し、そこには「ナルメルのパレット」と同様、セレクに収まったナルメルの名が刻まれていた。この陶片は大きな円形の台の上から発見され、それはハリフ・テラスにあった貯蔵庫の土台であったと考えられる。研究によって、この陶片は約5000年前、前3000年頃にナイル谷からイスラエルへ運ばれた酒甕の破片であると結論付けられた。
2014年、ヒエラコンポリスの遺跡でナルメルより古い墓とミイラが発掘された。
◆エジプト第一王朝・メネス王
(アラビア語: مينا、ギリシア語: Μήνης、エジプト語:Meni)は、エジプト初期王朝時代のファラオである。上下エジプトを統一し、エジプト第1王朝を創設したとされている。
メネスの実在については、2017年現在でも議論の対象であるが、エジプト学の主流では、歴史学、考古学的な様々な証拠に基づいてメネスを第1王朝の最初のファラオであるナルメルと同一であると見なしている。
古代の伝承によると、メネスは、紀元前3000年と2850年の間に、上下エジプトを1つの王国に統一し、第1王朝を興した人物とされている。
しかし彼の名前はカイロ石やパレルモ石のような現存の遺物には残っておらず、エジプト第5王朝期に作られた王名表の石碑にも表れない。彼の名前は後の文献に、ホルスから直接王座を受け継いだ最初の人間のエジプト王として登場する。またさらに後の王名表にも人間の最初の王として記載されている。マネトも彼のことを重要な人物として記述している。メネスは、古代ローマを興したロームルスのように、古代エジプトの多くの歴史を作った人物として描かれている。マネトは、メネスは「軍を前線に率い、偉大な栄光を勝ち取った」と記述している。
マネトはティニスを第1王朝及び第2王朝の首都とし、メネスはティニス出身であるとしている。一方、ヘロドトスはメネスが干拓堤防を築いてナイル川の流れを変えた後、首都としてメンフィスを建設したと記述している。
◆◆エジプト古王国時代(第3 - 6王朝)
紀元前2686年頃成立したエジプト第3王朝からは、エジプト古王国期と呼ばれ、エジプト最初の繁栄期に入る。首都は一貫してメンフィスに置かれた。古王国時代には中央政権が安定し、強力な王権が成立していた。このことを示すのが、紀元前2650年頃に第3王朝第2代の王であるジョセル王が建設した階段ピラミッドである。このピラミッドは当初それまでの一般的な墓の形式であったマスタバで建設されたが、宰相イムホテプによる数度の設計変更を経て、最終的にマスタバを6段積み重ねたような階段状の王墓となった。これがエジプト史上最古のピラミッドとされるジェゼル王のピラミッドである。このピラミッドは以後の王墓建設に巨大な影響を与え、以後マスタバに代わりピラミッドが王墓の中心的な形式となった。◆紀元前2613年にはスネフェルが即位し、エジプト第4王朝が始まる。
この第4王朝期には経済が成長し、またピラミッドの建設が最盛期を迎えた。スネフェル王は紀元前2600年頃にヌビア、リビュア、シナイに遠征隊を派遣して勢力範囲を広げる一方、まず屈折ピラミッドを、さらに世界初の真正ピラミッドである赤いピラミッドを建設した。
◆エジプト第3王朝・第2代のジェセル王
(Djoser, 生没年不明)はエジプト第3王朝のファラオ(第2代目)。在位は紀元前2668年から紀元前2649年。

出生については諸説あり、先代サナクトの弟説や、サナクトとニマアトハピ(先々代カセケムイの娘)との子供説があるが、ジョセルの別名ネチェリケトとは「神の肉体」を意味し、ジェセルは「聖なる」という意味の接頭語であることもあり、彼の死後、王位継承者により神聖性がアピールされている事を考えると王弟説が信憑性を帯びて来る。
なお、ジェセルは即位時の名称ではなく、階段ピラミッドなどにつけられた名はいずれもネチェリケトである。最初にジェセルという名が発見されたのは、彼の階段ピラミッドであったが、実際にはそのジェセルという名はエジプト新王国時代に書かれたものだった。両者が同一人物だと確認されたのは、アスワンのセヘル島の碑文であり、第三王朝時代の日付のある部分にジェセルの名が刻まれている。
ジェセルの時代、エジプトはシナイ半島の鉱物資源によって得た富を用いて勢力拡大に乗り出し、南方のアスワン付近まで進出した。先のセヘル島の碑文も、勢力の拡大を示している。
トート神の神官であった、イムホテプを宰相として登用。ナイル川の渇水により飢饉となった際、ジェセルはイムホテプに下問すると、「ナイル川の水源の主であるクヌムの神殿に土地を寄進すれば再びナイル川は氾濫するであろう」と答えたという。また、史上初のピラミッドとも言われる階段ピラミッドをサッカラに建立させた(ジェセル王のピラミッド)。
◆エジプト第3王朝・ジェセル王のピラミッド (Pyramid of Djoser) は、古代エジプト第3王朝第2代ファラオのジェセルによってサッカラに建設されたピラミッドである。

サッカラのピラミッドともいう。典型的な階段ピラミッドであり、単に階段ピラミッドともいう。
史上初のピラミッドとも言われ、その建設方式や宗教的理念は後代のエジプト社会に影響を与えた。
高さ62メートルであり、東西125メートル、南北109メートルの長方形の底面を持っている。後代に建設されたピラミッドは通常正方形の底面を持っているが、階段ピラミッドの場合は五次に渡る設計変更の結果長方形の底面を持つことになった。
階段ピラミッドは元来、初期王朝時代から見られる正方形のマスタバとして高さ10メートル、一辺63メートルの規模を持って建設される予定であった。しかし、建設を担当したジェセルの重臣イムホテプらによって東側に向けて何度も拡張が繰り返され、最終的には階段上の概観を持つピラミッドとして完成したのである。
ピラミッドの地下には深さ28メートルの地下室が設けられており、遺体を納める玄室や、玄室を取り巻く多数の部屋、回廊が張り巡らされた。

階段ピラミッドは単体ではなく、周辺の付属建造物とあわせてピラミッド複合体(ピラミッド・コンプレックス)を形成していた。北側に葬祭殿、東側に王宮、及びセド祭用の神殿、南側に「南墓」、西側に巨大な倉庫があり、この複合体全体を高さ10.4メートル、東西277メートル、南北545メートルの外壁が取り囲んでいた。全体を石造で建設する建造物としてはエジプト史上初ともいえるものであり、このピラミッドの建造によってイムホテプは建築家としても名声を博した。
ピラミッド複合体の構成要素は後代のものとは異なっている。階段ピラミッドは神的性格を持った王の墓として、臣下の墓とは一線を画す墓形式として新たに設計されたものであった。その形状は後世に書かれた碑文から、王が天に昇るための階段を意味するといわれている。また、ピラミッド複合体全体の構成は上エジプトと下エジプトの墳墓様式を合わせたものであり、セド祭用神殿の併設という点もあわせて、単純な王の葬祭施設であると同時に、現世における王の支配権、及び権威を象徴する場としての意味を強く持っていた。支配権を表すという性格は、墳墓としての機能を持たない小ピラミッドが別に多数建設されている点からも明らかである。
三大ピラミッドなどと共にメンフィスとその墓地遺跡として世界遺産に登録されている。
階段ピラミッドが建設された当時、石灰岩や花崗岩を用いた建築様式は未だエジプトでは一般化していなかった。この建物を建てたことによって設計者イムホテプは「初めて石の建物を建てた」と後に称えられているが、石を用いた建築自体は階段ピラミッド以前にも例がある。それは第2王朝の王カーセケムイの墓室である。
しかし、建物全体を石造で建設したという点ではやはり階段ピラミッドの建設は画期的であった。初期の石造建築では世界各地で見られるように、石造に特化した建築様式が確立されていないため、古い日干し煉瓦や葦による建造物の建設方式を真似て作られた。
こうした例は古代ギリシアや、インドの宗教建築に今日も見られるものである。
このピラミッドの建設後しばらくの間、古代エジプトの王達によって次々とピラミッドが建設されるようになった。
◆エジプト第4王朝創始者・スネフェル王(Sneferu、希: Soris)は古代エジプト・古王国時代のファラオで、エジプト第4王朝の創始者である。在位は紀元前2613年から紀元前2589年。

彼の父はフニという説があり、異母妹とみられるヘテプヘレスと結婚した。この説では、ヘテプヘレスが正室の、スネフェルが側室の子とされている。この結婚によって、スネフェルは王位を相続した。
スネフェルとヘテプヘレスの間の子供には、エジプトで最大のピラミッドを作ったクフがいる。スネフェルは、実はクフよりも沢山ピラミッドを作っている。彼が最初に手がけたのはメイドゥームにある父フニのもので、階段ピラミッドから初めて真正ピラミッドに作り直させた。その後、すぐそばに自分のピラミッドも作った。さらにダハシュールに赤いピラミッドと屈折ピラミッドとを作った。メイドゥーム近くのセイラにある小さな崩れピラミッドもスネフェルが作ったと考えられている。スネフェルの作ったピラミッドはどれもクフの作ったギザの大ピラミッドよりも小さいが、スネフェルがピラミッド建設に使った石の総体積は、全てのファラオの中で最大である。


◆エジプト第4王朝第2代・クフ王(Khufu)
古代エジプトのファラオ。古王国前半(紀元前26世紀)のエジプト第4王朝を統治した。クフは第4王朝の第2代王であり、前王のスネフェルから王位を継承した。一般的に世界七不思議の一つ、ギーザの大ピラミッドを建造させた人物であるとされている。しかし、彼の治世の記録はあまり多く残されてはいない。
◆スネフェルの次の王であるクフの時代に、ピラミッド建設は頂点を迎え、世界最大のピラミッドであるギザの大ピラミッドが建設された。


クフの姿を確認することができる完全な状態で残った肖像は、1903年にアビュドスにある後世の神殿遺跡から発見された3インチの大きさの象牙製の像が唯一の物である。他のレリーフと彫像は断片しか見つかっておらず、彼が建てた多くの建造物は失われている。ギーザにある彼のネクロポリスから発見された碑文と後世作られた文学作品から得られる情報がクフについて知られている全てである。
後世の文学作品の例として、クフは第13王朝時代に作られたウェストカー・パピルスと呼ばれる文書にかかれた物語の主要登場人物である。

クフに言及する文書の大半は紀元前1千年紀の後半にエジプト人とギリシア人が書いたものである。古代の歴史家マネト、ディオドロス、ヘロドトスは彼の性格を非常に否定的に伝えている。これらの記録によって、クフの人格について不明瞭で否定的なイメージが残されている。
古代エジプトのファラオは時代による変異はあるが、ホルス名、二女神名、誕生名等、複数の王名を使用していたが、この王は「クフ」の名で一般的に知られている。この名前はカルトゥーシュと呼ばれる外枠に囲まれて表記されていた。この時代に導入されたいくつかの王名、宗教的称号は、エジプトのファラオ達が王名を特定の神に関連づけることで、自身の神聖な出自と地位を強調する事を望んでいたでことを示す物であろう。クフは自身を創造と成長を司る大地の神クヌムから全権を与えられた者と見なしていたかもしれない。それ故に彼の王名はクヌム神と結びつけられた。
このファラオは公式に二つの誕生名(クヌム・クフ 及び クフ)を使用している。最初の(完全な)王名はクフのクヌム神に対する宗教的忠誠を明確に表している。第二の(短縮された)王名はそうではない。なぜ短縮された王名が使われたのかはわかっていない。短縮されたことでクフの名前とクヌム神の繋がりは隠されてしまっている。しかし、短い名前は他のどの神にも結び付かないということは(絶対にないとは言い切れないが)ないであろう。
ホルス名はファラオがホルス神の化身であることを表す名前であり、クフのホルス名はメジェドゥ(Mejedw) である。発掘された同時代の記録ではこの名前が用いられている。
クフがどの程度の期間エジプトを統治したのかは未だに明白ではない。なぜならば、後世の歴史的文書は相互に矛盾し、同時代の資料は乏しいからである。第19王朝時代に作成されたトリノ王名表はクフに23年の在位年数を与えているが、古代の歴史家ヘロドトスは50年とし、マネトは63年としている。これらの数値は現在では古くなった情報源の誇張もしくは誤読によるものと考えられている。
クフの同時代史料として三つの重要な情報がある。一つ目はリビア砂漠のダフラ・オアシスで発見されたもので、クフのホルス名を含む「メフェトの旅行、ホル・メジェドゥの下で13回牛を数えた後」という記事が石碑に刻まれている。
第二の記録は、クフのピラミッドの埋葬室の上にある重力軽減の間から発見された。これらの碑文は「クフの友人達」という名前を与えられた労働者達に言及しており、そのそばに「17回目の牛を数える年」という記述がある。
そして、第三の記録としてワジ・アル・ジャルフから、正しい治世年数を得るためのこれまでにない証拠が得られた。発見されたいくつかのパピルス断片には、現在のワジ・アル・ジャルフにあった王室用の港からの手書きの報告書が含まれている。この記録は、「ホル・メジェドゥ(Hor-Mejedw)の下で13回牛を数えた後の年」に貴重な鉱石とトルコ石を積んだ王室専用の船が到着したことを述べている従って、クフの治世で最もよく知られる特定された年は「13回牛を数えた後の年」である。
現代のエジプト学者達はクフの在位年数の謎を明らかにするためにスネフェルの治世に注目している。彼の時代、牛は2年に1回数えられていた。この牛を数えるという行為はエジプト全土で行われる税金の徴収額を決定する経済的イベントであった。同時代史料とパレルモ石碑文の最新の研究は、クフ王治世下でもこれまで考えられていたように牛は毎年ではなく2年に1回数えられていたという説を強化している。
トーマス・シュナイダー、マイケル・ハース、ライナー・シュタデルマンのようなエジプト学者達は、トリノ王名表の編者が古王国時代前半に牛の頭数確認が隔年で行われていたことを考慮していたのかどうか疑問視している。第19王朝時代にはこの課税は毎年行われていた。
要約すると、もし重力軽減の間の碑文を、2年に1回の牛の頭数確認に基づいて解釈するならば、クフは34年以上在位していたことになる。もしトリノ王名表の編者が隔年の課税という古い制度を考慮していないとするならば、クフは46年間在位したという風に読み取れる。
◆エジプト第4王朝・クフ王が建設したギザの大ピラミッド
クフ王が建設したギザの大ピラミッドは、ピラミッド建築の頂点とされ、最大規模を誇る。
現在高さ138.74m(もとの高さ146.59m)、底辺230.37m、勾配51度50分40、容積約235.2万m3で、平均2.5tの石灰岩を約270万-280万個積み上げたと計算される。


長さと高さの比は黄金比であるとする俗説があるが、実際に計算すると黄金比との相対誤算は3パーセント強であり、方位の誤算で1分程度に収まるピラミッドの建築技術に比して際立って大きい。
14世紀にリンカン大聖堂の中央塔が建てられるまで世界で最も高い建築物であった。
こうした規模とともに石積技術も最高水準にある。例えば、底辺の長さの誤差は20cm、方位の誤差は1分57秒-5分30秒という正確さである。
王の間上部には、重量軽減の間と呼ばれる空間があり、19世紀にイギリスの軍人ハワード・ヴァイスが発破によって発見した。最上部にはクフ王の名前(字が間違っている)が残されている。
◆その後、クフの2代あとにあたるカフラー王がカフラー王のピラミッドとその門前にあるギザの大スフィンクスを建造し、さらにその次のメンカウラー王がメンカウラー王のピラミッドを建設し、ピラミッドの建設は頂点に達した。
この3つのピラミッドは三大ピラミッドと呼ばれ、エジプト古王国時代を代表する建造物となっている。

◆エジプト第4王朝・カフラー王(Khafra、カフレー、ケフレン、チェフレンとも)は古代エジプト人の王(ファラオ)。古王国時代の第4王朝を統治した。クフの息子であり、ジェドエフラーの跡を継いで王となった。

◆エジプト第4王朝・カフラー王のピラミッド
カフラー王のピラミッド(Khafre's Pyramid)とは、エジプトのギーザにある古代エジプト・古王国時代第4王朝のファラオ、カフラー王のピラミッドである。三大ピラミッドのうちクフ王のピラミッドに次ぎ2番目の大きさであるが、クフ王のピラミッドより高い台地に建てられているため、人の目には一番高く見える。

高さ143.87m(現在の高さ136m)、底辺:215.29m、勾配:53度10分。四角錐の頂上部分には石灰石の化粧石が残っている。参道の入り口には、スフィンクスがピラミッドを守護するように建っているが、スフィンクスの建てられた時代には諸説ある。

◆エジプト第4王朝・メンカウラー王
メンカウラー(Menkaure, またはMenkaura、生没年不明)はエジプト第4王朝のファラオ(6代目)で、在位は紀元前2532年から紀元前2504年。


メンカウラーとは、ラーの魂のように永遠である」という意。父はカフラーであり、母はカメレルネブティ1世。妻は二人が確認されている。一人はカフラーとカメレルネブティ1世の第1王女、つまり兄弟姉妹婚となるカメレルネブティ2世であり、もう一人の名称は知られていないが、7代目ファラオとなったシェプスセスカフを産んだ。
メンカウラーについて、ヘロドトスがミケリヌス(Mykerinos)という名で伝説を残している。ヘロトドスによれば、巨大なピラミッドを建造したクフとカフラーは暴君であり、過酷な統治を行われていたが、メンカウラーが王となると慈悲深い統治に一変し、そのためその建造したピラミッドもクフの半分の高さにも満たない大きさに留めたと伝えている。しかし、神々は「エジプトの民は150年の困難にあるだろう」という信託をすでに告げており、メンカウラーの善政は神々を否定したものとみなされた。神々はメンカウラーを許さず、ブトの守護神ウアジェトの信託という形でメンカウラーの統治を残り6年と定めた。メンカウラーはその運命に抗い、夜も王宮を昼のような明かりで満たした。昼夜を無くし、期限を伸ばそうとしたのだが、神々を謀ることはできず信託の通り6年後に死亡した。
実際に知られているところでは、メンカウラーの統治は28年間にも及んだ。ピラミッドの建設期間は十分にあったが、彼のものとされるギザ南端の第3ピラミッドはクフに比べて70メートルと、半分以下の高さとなっている。その小ささが、前述のような伝説を残す余地となった。しかも調査の結果、当初の予定はわずか30メートルの高さでしかなかったことが判明する。建築途中に計画が変更されてようやく70メートルに達したものであった。この経緯について、クフとカウラーによる当初財政の逼迫と、後の改善によるものとする研究者の指摘がある。
◆エジプト第4王朝・メンカウラー王のギザの第3ピラミッド
ギザの第3ピラミッドがメンカウラーのものであることは、伝承によって伝えられるところであったが、実際に確認されたのは、1837年から1838年にかけてのイギリスの軍人、ハワード・ヴァイスによる調査を待たねばならなかった。

他にもメンカウラーの遺跡の調査は、ハーバード大学のジョージ・ライスナー教授率いるボストン美術館の合同調査班によって、1905年から1927年の期間で行われた。河岸神殿、葬祭殿といったピラミッドに付随する遺跡を修復し、その過程で粘板岩彫像を数点発掘した。ハトホル(王妃カメレルネブティ2世の像と酷似)とノモスの守護女神バトを左右に配したメンカウラーの像(三体像)、王と王妃の像(二体像)といった王の像は、クフやカウラーといった巨大ピラミッドを残した王と比べても数が多く、加工の難しい粘板岩にもかかわらず技術的にも高度なものだった。アラバスターによる彫像も残されている。また、未完成状態の像が多数発見されており、ピラミッド周辺の施設も治世の後期に規模を拡大させたことと、その急死による事業の中止が伺える。

続くエジプト第6王朝も長い安定の時期を保ったが、紀元前2383年に即位し94年間在位したペピ2世の治世中期より各地の州(セパアト、ギリシア語ではノモスと呼ばれる)に拠る州侯たちの勢力が増大し、中央政府の統制力は失われていった。紀元前2184年にペピ2世が崩御したころには中央政権の統治は有名無実なものとなっており、紀元前2181年に第6王朝が崩壊したことにより古王国時代は終焉した。
◆◆エジプト第1中間期(第7 - 10王朝)
第6王朝崩壊後、首都メンフィスにはエジプト第7王朝、エジプト第8王朝という短命で無力な後継王朝が続いたが、実際には各地の州侯たちによる内乱状態が続いていた。この混乱の時代を総称し、第1中間期と呼ぶ。やがて上エジプト北部のヘラクレオポリスに興ったエジプト第9王朝がエジプト北部を制圧したものの全土を統一することはできず、上エジプト南部のテーベに勃興したエジプト第11王朝との南北対立の情勢となった。
◆◆エジプト中王国時代(第11 - 12王朝)
紀元前2060年頃に第11王朝にメンチュヘテプ2世が即位すると、紀元前2040年頃に第9王朝の後継であるエジプト第10王朝を打倒してエジプトを再び統一し、エジプト中王国時代が始まった。首都は引き続きテーベにおかれた。また中王国期に入るとピラミッドの造営も復活したが、第4王朝期のような壮大なピラミッドはもはや建造されず、日干しレンガを多用したものが主となった。
◆中王国時代開祖・第11王朝メンチュヘテプ2世


メンチュヘテプ2世は紀元前2060年頃、父王アンテフ3世の後を継ぎ即位した。当時のエジプトは第一中間期と呼ばれ、各県を治める州侯がメンフィスの中央政府から離反し、全土の覇権を伺う戦乱の時代であった。中でも、上エジプト第20県の首都ヘラクレオポリスを本拠とした第10王朝は特に強大で、一時的に全土を配下に収める程の勢いであった。対して、テーベの第11王朝もメンチュヘテプ2世の祖父アンテフ2世の時代に南方のヒエラコンポリスからエレファンティネまでに至る地域を手中に収め、北方では第10王朝との国境をアビドスを州都とする第8県まで押し上げた。その後は両勢力の間に休戦協定が結ばれ、メンチュヘテプ2世が即位した頃まで互いに睨み合う状況が続いていた。
メンチュヘテプ2世の治世14年目、アビドスで反乱が発生した。この反乱を契機として両国の間に再び戦端が開かれる。メンチュヘテプ2世は迅速に反乱を鎮圧した後、第10王朝の勢力圏へと侵攻を始めた。戦況はテーベ側に優勢のまま進み、やがて上エジプト第15県のヘルモポリスをはじめとする多数の州がテーベの側に寝返った事で決定的となった。治世21年目(紀元前2040)頃に第10王朝の本拠地ヘラクレオポリスを陥落させ、治世第39年頃には第10王朝最後の王を下し、エジプトを完全に統一することに成功した。これをもってエジプト第1中間期は終焉、二度目の隆盛期である中王国時代が始まった。
メンチュヘテプ2世のエジプトの再統一という功績がいかに輝かしいものであったのか、それは治世中に頻繁に変更されたホルス名が物語っている。即位した当初は、スアンクイブタウィ(両国の心を生かす者)と名乗ったが、治世14年目以降は、白冠の主を意味するネチェルヘジェトというホルス名を付けた。そして全土を完全に支配下に置いた治世第39年以降はスマタウィ(両国の統合者)となった。
全土を統一したメンチュヘテプ2世の治世の後半は、長きにわたる戦乱で荒廃したエジプトの繁栄を取り戻すための事業に費やされた。上エジプト長官など古王国以来の官職を復活させるとともに、新たに下エジプト長官を置くなどして行政機構を整備していった。敵対的な州侯は廃し、メンチュヘテプ2世の息のかかった人物にすげ替えていった。一方で、戦いの過程でテーベ側に寝返ったヘルモポリス侯など、戦局に大きく影響した州侯に対してはそれまでと変わらぬ待遇を与えた。 国外への軍事活動も積極的に行った。南方への遠征では第二瀑布までの下ヌビア地方にまで到達してこれを支配下におさめ、更に南方にあるプント国(現在のソマリア地方)へ隊商を送った。西方の砂漠地帯にも軍事遠征が行われ、オアシスに勢力を持ったリビア人を支配下に収めた。
紀元前1991年頃にはアメンエムハト1世によってエジプト第12王朝が開かれ、首都もメンフィス近郊のイチ・タウィへと遷した。第12王朝期は長い平和が続き、国内の開発も急速に進んだ。特に歴代の王が力を注いだのは、ナイル川の支流が注ぎこむ広大な沼沢地であったファイユーム盆地の開発であり、センウセルト2世の時代に着工した干拓工事は王朝後期のアメンエムハト3世時代に完成し、ファイユームは広大な穀倉地帯となった。センウセレト2世は紀元前1900年頃にアル・ラフーンにピラミッド(ラフーンのピラミッド)を造営している。
◆第12王朝初代ファラオ・アメンエムハト1世
(Amenemhat I, 在位:紀元前1991年 - 紀元前1962年)は、古代エジプト第12王朝の初代ファラオ(王)。

中王国はヌビアに対するものを除き対外遠征をあまり行わず、とくにシリア方面には軍事進出を行わなかったが、唯一の例外として紀元前1850年頃にセンウセレト3世がヌビアおよびシリアに遠征した。センウセレト3世は名君として知られており、国内においては州侯の勢力を削ぎ、行政改革を行って国王の権力を拡大している。つづくアメンエムハト3世期にも政権は安定しており、紀元前1800年頃にはファイユーム盆地の開発が完成し、またハワーラのピラミッドが造営されている。しかし彼の死後は短命な政権が続き、紀元前1782年頃には第12王朝が崩壊して中王国期も終焉を迎えた。
◆第12王朝・センウセルト3世

◆◆エジプト第2中間期(第13 - 17王朝)
◆◆エジプト新王国時代(第18 - 20王朝)
◆新王国時代第18王朝初代ファラオ・イアフメス1世

イアフメス1世はさらにヒクソスを追ってパレスチナへと侵攻し、第15王朝を完全に滅ぼした。これが嚆矢となり、以後のエジプト歴代王朝はそれまでの古王国期や中王国期とことなり、パレスティナ・シリア方面へと積極的に進出するようになり、ナイル川流域を越えた大帝国を建設するようになっていった。このため、新王国時代は「帝国時代」とも呼ばれる。首都は統一前と同じく引き続きテーベにおかれた。
イアフメス1世はさらに南のヌビアにも再進出し、この地方を再びエジプトの支配下に組み入れた。
次のアメンヘテプ1世はカルナック神殿の拡張などの内政に力を入れた。
◆第18王朝2代目ファラオ・アメンヘテプ1世
アメンホテプ1世(在位:紀元前1551年 - 紀元前1524年)は、古代エジプト第18王朝の第2代ファラオ(王)。即位名はジェセルカラー。意味は「聖なるはラーの魂」。

少年期終わり頃に父イアフメス1世を亡くし、母である王妃イアフメス・ネフェルトイリが摂政として後見することでファラオとして即位を果たす。その名の通り、アメン神への信仰が深く、テーベにアメン神を祀るカルナック神殿を建設した。これには篤信という以外に、後に自分の妹で、先王イアフメス1世の娘婿のトトメス1世を自らの後継者と定めたが、その地位を安定させるための政治取引として、当時はテーベ南方の地方神であった新興のアメン神を時勢に即して後援するとの意図もあった。このほか内治においては官僚制度を整備し、軍事面では父イアフメスが戦争に苦しんだことから、軍事制度を全面的に改革したのちシリアやヌビアへの遠征を行い、成功させている。彼の作り上げた戦闘集団としてのエジプトの軍隊と優秀な官僚制度は新王国繁栄の礎となった。
彼のミイラは現在、カイロのエジプト考古学博物館で展示されている。その胸元には埋葬時に添えられたと思われる数輪の花も残っている。

紀元前1524年頃に即位したトトメス1世はこの国力の伸長を背景に積極的な外征を行い、ティグリス・ユーフラテス川上流部を地盤とする大国ミタンニへと侵攻し、ユーフラテス河畔の重要都市カルケミシュまで侵攻してその地に境界石を建立した。また彼は陵墓の地として王家の谷を開発し、以後新王国時代の王のほとんどはこの地へと埋葬された。
◆第18王朝第3代・トトメス1世
(Thutmose I、在位:紀元前1524年 - 1518年、あるいは紀元前1506年 - 1493年)は、古代エジプト第18王朝の第3代ファラオ(王)。

誕生名「トトメス」(Thutmose)の意味は「(月神)トートの造りしもの、トートに生み出されしもの」。即位名「アアケペルカラー」(Akheperkare)の意味は「偉大なるは(太陽神)ラーの魂」。
アメンホテプ1世の子であったが、側室、または妾の子であった。優秀な軍人であり、シリア、ヌビアへの遠征軍を指揮して信頼を勝ち取り、アメンホテプ1世の妹で、先王の娘・王女イアフメスと結婚したことで、王の他の実子たちを差し置いて後継者と定められた。 その後、アメンホテプ1世の絶大な信頼を受けて共同統治者として実績を積み、各方面に遠征を行って領土を拡大し第18王朝の最初の絶頂期を現出させた。 宗教政策ではアメンホテプ1世によって後ろ盾としてつけられたアメン神官団と良好な関係を維持し、カルナックのアメン大神殿の造営を継続するなどしている。二代にわたるファラオの後援を得て、この時代以降アメン神官団の権力は飛躍的に拡大していくことになる。

◆第18王朝・第4代のトトメス2世(在位:紀元前1518年 - 1504年、あるいは前1493年 - 1479年)は、古代エジプト第18王朝の第4代ファラオ(王)。即位名はアアケペルエンラー。意味は「偉大なるはラーの形」。

次のトトメス2世は早世したため、紀元前1479年頃に子のトトメス3世が即位したものの若年であったため、実際には共治王として即位したトトメス2世の王妃であるハトシェプストが実権を握り、統治を行っていた。ハトシェプストは遠征よりも内政や交易を重視し、この時代にプントとの交易が再開され、またクレタなどとの交易も拡大したが、一方で遠征を行わなかったためミタンニとの勢力圏の境界にあるシリア・パレスチナ地方の諸国が次々と離反していった。
◆第18王朝・第5代のファラオ・ハトシェプスト女王
(トトメス2世の王妃)
ハトシェプスト(ラテン文字表記:Hatshepsut)は、古代エジプト第18王朝第5代のファラオ(在位:紀元前1479年頃 - 紀元前1458年頃)。


▲ハトシェプスト女王葬祭殿は、エジプト・ルクソール西岸にある古代エジプト唯一人の女性ファラオ、ハトシェプストが造営した葬祭殿。ハトシェプストの側近で建築家センムトが設計を行った。後にトトメス3世によって壁画や銘文が削られるなど一部破壊を受けた。手前にはメンチュヘテプ2世の王墓があり、あわせて、デル・エル・バハリ(Deir el-Bahri。アラビア語で「北の修道院」の意味。後にコプト正教会の教会として使われていたため)とも呼ばれている。1997年11月、ルクソール事件の現場となり外国人58人を含む62人が亡くなる事件が発生し、その中には多くの日本人新婚旅行者も含まれた。
紀元前1458年頃にハトシェプストが退位すると、実権を握ったトトメス3世は打って変わってアジアへの積極的な遠征を行い、メギドの戦いなど数々の戦いで勝利を収めて国威を回復させた。
◆第18王朝第6代・トトメス3世
トトメス3世(Thutmose III)は、古代エジプト第18王朝6代目のファラオ(在位:紀元前1479年頃 - 紀元前1425年頃)。
即位名はメンケペルラー、意味は「ラー神の顕現は永続なり」である。


父王トトメス2世によって後継者に指名されていたが、幼くして父王が亡くなったため、継母ハトシェプストが即位、全権を掌握することになる。治世の前半は、ハトシェプストの補佐という形でしか政治を行えず、大半の時間を軍隊で過ごしたと伝わる。この時期の経験から高い軍事的能力を身につけ、ハトシェプストの退位後となる治世の後半はハトシェプスト時代の外交を改めて周辺諸国に遠征し、国威を回復、エジプト史上最大の帝国を築いた。ことにメギドの戦いでの大勝で名高い。その積極的な外征と軍事的偉業から、「エジプトのナポレオン」と呼ばれることも多い。
実権を掌握してからはハトシェプストの存在を抹殺しており、ハトシェプストの名前や肖像を軒並み削り取った。これには「恨みによるもの」とした説と「女王の前例を残さないよう、即位した事実を抹消する為」とした説がある。
これにはまた、ほかの見方として提言された説もある。つまり、トトメス3世は、いかなる悪意をもってしても、ハトシェプストの過去的存在と、その地位を抹消したのではないというものである。カルナック神殿の大々的な増改築のため、前女王の築いたものも解体し、拡大再建築する為にといった前提名分があり、その下でなされた現場作業上の再利用処置であったとしている。したがって、トトメス3世は、何らかの下心をもって抹消すべき指示を下したものではないと見る。
彼は、共同統治の折りには、内政国策からの治世は女王に任せれば良しとし、自らは外部国外事情などしっかり把握し、軍事を良くし、英気と実力を養うことで大いに自らを培い、邁進充足し、何ら禍根となりうる相互のわだかまりもそこにはなかったと解釈されている。が、しかし王国財政面での双方の折り合い、協力には何らかの言い分、主張の不一致があったかも知れない。
続くアメンホテプ2世、トトメス4世、アメンホテプ3世の時代にも繁栄はそのまま維持され、エジプトの国力は絶頂期を迎えた。しかしこのころにはもともとテーベ市の守護神であった主神アメンを奉じる神官勢力の伸長が著しくなっており、王家と徐々に衝突するようになっていた。
◆第18王朝第7代ファラオ・アメンホテプ2世
アメンホテプ2世(Amenhotep II, 在位:紀元前1453年 - 1419年、あるいは紀元前1427年 - 1400年)は、古代エジプト第18王朝の第7代ファラオ(王)。即位名はアアケペルウラー。意味は「偉大なるかなラー神の出現」。

父トトメス3世同様に遠征を行い、内政でも見事な手腕を発揮して父が回復したエジプトの国威と広大な帝国を維持することに成功した。 陵墓は後に王家の谷と呼ばれる土地に築かれ、後代には王たちのミイラを墓荒らしから守るために安置する場所として使われた。また彼のミイラはカイロのエジプト考古学博物館に所蔵されており、身長183センチと、現存するファラオのミイラの中では最も長身とされている
◆第18王朝第8代ファラオ・トトメス4世
トトメス4世(Thutmose IV, 在位:紀元前1419年 - 1386年、あるいは紀元前1401年 - 1391年、紀元前1397年 - 1388年)は、古代エジプト第18王朝の第8代ファラオ(王)。即位名はメンケペルウラー。意味は「永遠なるかなラー神の出現」。一般に

世に言う『夢の碑文』に記されるところによると、まだ王子だった頃、夢の中でホル・エム・アケトから「砂に埋もれたスフィンクスを掘り出せば王位を獲得できる」というお告げがあったとされ、それによりファラオになったという。このエピソードは広く知られている。
史実と関連付けた解釈では、スフィンクスとはヘリオポリスの太陽神崇拝を示すという研究もある。事実即位後のトトメス4世はアメン神官団の影響力の排除を試み、アメン大神官が就任する慣例であった要職に腹心を任じるなどの施策を行っている。これらの施策は息子アメンホテプ3世の時代になって、テーベからマルカタへの遷都という形でいっそう顕在化する。また、墓所にも様々な神と対話する姿が描かれており、アメン神官団との間には相当の確執があったようである。軍事面ではヒッタイトの危機に対抗するため、ミタンニをはじめとする諸国との間に同盟を締結、シリア方面の情勢を安定させる成果を挙げている。
◆第18王朝第9代ファラオ・アメンホテプ3世
(英: Amenhotep III)は、古代エジプト第18王朝の第9代ファラオ(王)(在位:紀元前1386年 - 紀元前1349年、または紀元前1388年 - 紀元前1351年)。
即位名はネブマアトラー。「真実の主はラーなり」の意。正妻はティイ。子はアメンホテプ4世など。


こうしたことから、次のアメンホテプ4世は紀元前1346年ごろにアクエンアテンと名乗って伝統的なアメン神を中心にした多神崇拝を廃止、アメン信仰の中心地である首都テーベからアマルナへと遷都し、太陽神アテンの一神崇拝に改める、いわゆるアマルナ宗教改革を行った。このアテン信仰は世界最初の一神教といわれ、アマルナ美術と呼ばれる美術が花開いたが、国内の統治に集中して戦闘を避けたため、当時勢力を伸ばしつつあったヒッタイトにシリア・パレスチナ地方の属国群を奪われ、国力が一時低下する。
◆第18王朝ファラオ・アメンホテプ4世
アメンホテプ4世(英: Amenhotep IV、紀元前1362年? - 紀元前1333年?)は、古代エジプト第18王朝の王(ファラオ)(在位:紀元前1353年? - 紀元前1336年頃?)。別名アクエンアテン。「アメンホテプ」は「アメンヘテプ」とも表記する。

▼アメンホテプ4世と彼の家族がアテンを信仰している姿

改革の原因
宗教的意義
改革の内容
- 首都をテーベからナイル川を277キロほど下った東岸のアケトアテン(「アテンの地平線」の意)に移転。
- 従来の多くの神々の崇拝を禁じて、神々の像を破壊し、唯一神アテンへの信仰に切り替えた。自らもアクエンアテン(イクナートン,アトンに愛されるものの意)と名前を変えた。
- アマルナ美術と呼ばれる、写実的・開放的な芸術を生み出した。
▼ネフェルティティは、アメンホテプ4世の正妃で、ツタンカーメンの義母。
古代エジプトの三大美女の一人

古代エジプトの三大美女と言えば、
・クレオパトラ(プトレマイオス朝の女王)
・ネフェルタリ(ラムセス2世の正妃)
・ネフェルティティ(アメンホテプ4世の正妃)
【アメンホテプ4世の死後】

テーベにアメンホテプ4世のの墓とされるものが発見されているが、(おそらく彼の反対勢力により)レリーフは一切削られている。彼のミイラと棺は王家の谷のKV55から発見されており、破壊を恐れて移動されたと見られる。これらはエジプト考古学博物館で保管されているが、棺が破壊されていたためミイラの保存状態が悪く、白骨化してしまっており一般には非公開である。棺も、修復して公開されているが顔の部分が削られてしまっている。
2010年2月17日、ザヒ・ハワスらの調査により、DNA鑑定でツタンカーメンのミイラと比較した結果、このミイラはほぼ間違いなくアメンホテプ4世であることが発表された。それと共に、母ティイとツタンカーメンの母のミイラ(共にアメンホテプ2世王墓(KV35)で発見)も身元が特定され、ツタンカーメンの母はアメンホテプ4世の同父同母の姉妹であることが明らかになった。(アメンホテプ3世とティイの5人の娘のうち、三女ヘヌトタネブ(Henuttaneb)、四女ネベトイアハ(Nebetah)、五女ベケトアテン(Beketaten)の中のいずれかではないかとされる)
◆第18王朝ファラオ・ツタンカーメン
(トゥトアンクアムン、Tutankhamun、Tutenkh-、-amen、-amonとも。紀元前14世紀、紀元前1342年頃 - 紀元前1324年頃)は、古代エジプト第18王朝のファラオ(在位:紀元前1333年頃 - 紀元前1324年頃)。より厳密な表記ではトゥト・アンク・アメン (Tut-ankh-amen)。


紀元前1333年頃に即位したツタンカーメン王はアメン信仰を復活させ、アマルナを放棄してテーベへと首都を戻したが若くして死去し、アイを経てホルエムヘブが即位する。ホルエムヘブは官僚制を整備し神官勢力を統制してアマルナ時代から混乱していた国内情勢を落ち着かせたが継嗣がおらず、親友であるラムセス1世を後継に指名して死去した。これにより第18王朝の血筋は絶え、以後は第19王朝と呼ばれる。
王朝が交代したと言ってもラムセス1世への皇位継承は既定路線であり、権力はスムーズに移譲された。ラムセス1世も老齢であったために即位後ほどなくして死去し、前1291年に即位した次のセティ1世はアマルナ時代に失われていた北シリア方面へと遠征して再び膨張主義を取るようになった。
◆第19王朝・セティ1世


◆第19王朝ラムセス2世
紀元前1279年ごろに即位した次のラムセス2世は古代エジプト最大の王と呼ばれ、彼の長い統治の時代に新王国は最盛期を迎えた。紀元前1274年にはシリア北部のオロンテス川でムワタリ2世率いるヒッタイトと衝突し、カデシュの戦いが起きた。この戦いは痛み分けに終わり、この時結ばれた平和条約(現存する最古の平和条約)はのちにヒッタイトの首都ハットゥシャから粘土板の形で出土している。またラムセス2世は国内においてもさまざまな大規模建築物を建設し、下エジプトのデルタ地方東部に新首都ペル・ラムセスを建設して遷都した。


▲ネフェルタリ(ラムセス2世の正妃)
その次のメルエンプタハ王の時代には紀元前1208年ごろに海の民の侵入を撃退したが、彼の死後は短期間の在位の王が続き、内政は混乱していった。
紀元前1185年頃には第19王朝は絶え、第20王朝が新たに開かれた。
第20王朝第2代のラムセス3世は最後の偉大なファラオと呼ばれ、この時代に新王国は最後の繁栄期を迎えたが、彼の死後は国勢は下り坂に向かい、やがて前1070年頃に第20王朝が滅ぶとともに新王国時代も終わりを告げた。これ以後古代エジプトが終焉するまでの約1000年は、基本的には他国に対する軍事的劣勢が続いた。
◆第20王朝第2代ファラオ・ラムセス3世
ラムセス3世 (Ramesses III) は、エジプト新王国・第20王朝の2代目のファラオである。古代エジプトで大きな権威を持った最後のファラオと称されている[4][5][6][7]。「ラメセス3世」や「ラメス3世」という表記も見られる[2]。以下の本文中における「ラムセス」の表記は全て「ラムセス3世」を表す。


ラムセスが在位した時期は古代ギリシアが暗黒時代に入り政治的に混乱していた時期と重なっており、「海の民」やリビュア人といった外敵の攻撃に晒された。経済的な苦境にも陥り、国内ではストライキも起こった。
古代エジプト史に初めて「海の民」が登場するのは第19王朝のメルエンプタハの在位中である。石碑にはメルエンプタハの在位5年目に「海の民」がリビュア人と連合を組んでリビュアの海岸からナイル川デルタに侵入したがエジプト軍がこれを撃退したとの記述がある。
ラムセスの在位8年目にペレセト (Peleset) 、チェッケル (Tjeker) 、シェケレシュ (Shekelesh) 、デニエン (Denyen) 、ウェシェシュ (Weshesh) などの各民族からなる「海の民」がレヴァント地方より陸上および海上からエジプト領内へ侵入した。
まず、エジプト軍は陸路から北東国境に侵入した「海の民」の軍を破った(ジャヒの戦い)。次いで海より侵入した「海の民」の軍に対してエジプトの海軍は貧弱であったとの評判にもかかわらず頑強に戦った。ラムセスが海戦で取った作戦は弓隊を海岸沿いに配置して、「海の民」がナイル川の河岸から上陸しようとした時に「海の民」の軍船目掛けて切れ目無く矢を一斉に射撃し続けるというものであった。また、ガレー船や平底船などを並べて堅牢な壁のような防御陣を構築し、それらの船の船首から船尾に至るまでエジプト軍の兵士を多数乗船させた。
エジプトの軍船は「海の民」の軍船をグラップリングフック (鉤縄) で引き寄せて、両軍の兵士による白兵戦の末にエジプト軍が勝利した。「海の民」が矢による攻撃に対して備えが出来ていなかったことおよび帆船のみであった「海の民」に対してエジプトは櫂を備えており自由に船を操れたことがエジプト軍が勝利した理由として挙げられる。
ラムセス在位前よりリビュア人はナイル川デルタの西部を支配していたが、そのリビュア人に対してラムセスは2度にわたり戦争を行った。在位5年目に行った1度目の戦争はラムセスがリビュアに政治介入したことがきっかけとされる。この戦争でエジプトはリブ、メシュウェシュ、セペド (Seped) などの各部族から成るリビュア軍に勝利し、リビュア軍は戦死者約12,500名、捕虜約1,000名を出した。
ただし、この戦争の後もリビュア人はナイル川デルタの西部に定着して、デルタ中部のクソイスなどを攻撃するに至った。なお、在位11年目に起こった2度目の戦争までの間にケペル (Keper) がリビュアの全部族を統一していた。
2度目の戦争はメシュウェシュ人がエジプトに定住する目的でナイル川デルタに侵入したことによって勃発したが、エジプト軍はこの戦争で決定的な勝利を収めた。リビュア軍は戦死者2,000名以上、ケペルを含む多数が捕虜となり、ケペルの息子でメシュウェシュの首長であったメシェシェル (Meshesher) は捕虜となった後に処刑された。この後リビュア人による侵入は無くなり、リビュア人はエジプトの傭兵として体制に組み込まれていった。
「海の民」およびリビュア人との合計3度の戦争の後にラムセスの在位中は戦争は起こらなかった。ハリス・パピルスには「誰にも妨げられることなく自由に旅行できるようになった」、「兵士たちの武器は倉庫に収められたままであった」とラムセスが語ったと記されている。
ハリス・パピルスは、ラムセスがピラメセス、ヘリオポリス、メンフィス、アシリビス、ヘルモポリス、ジルジャー、アビュドス、コプトス、エル・カブといったエジプト各地およびヌビアやシュリアの都市の各神殿に黄金の彫像およびモニュメントとなる建築物などの膨大な寄進物を残したと記している。
ラムセスはテーベ (現:ルクソール) とカルナックに神殿を建築した。中でもカルナックにあるメディネト・ハブと呼ばれるラムセスの葬祭殿と行政施設の機能を併せ持つ建造物はアメンホテプ3世が元々神殿としていたものを土台にコンスを祀る神殿として建築が始まり、ラムセスの在位12年目に完成した。
メディネト・ハブには「海の民」やリュビア人との戦闘のレリーフを刻んだ。なお、メディネト・ハブは新王国時代の遺跡の中で最も保存状態の良い建造物の一つである。
ラムセスの時代に行われたオペト祭では黄金で装飾された最高級のレバノンスギで製造された全長67メートルの船が使われたとされる。
一方でラムセスは古代エジプト史上で神官階級の影響下に置かれた初のファラオとされる。ラムセスはアメンの神官、ラーの神官、プタハの神官に対して穀物100万袋、銀370キログラム相当を奉納した。また、3つの神官団で169の都市、500の所領、50の造船所、88隻の船、50万頭の家畜を所有していたとされる。
その中でもアメン神官は上述の奉納物の内、62万袋 (62%) の穀物、318キログラム (86%) の銀、2,104の耕作地、46の造船所、83隻の船、42万頭の家畜を受け取り、ヌビア地方の金鉱山の採掘権を持ち、アメン神殿の高官はテーベに駐屯する軍隊の最高司令官でもあった。なお、ラムセスの在位時に国家財政はすでに破綻状態にあり、このことが後述の職人によるストライキの要因の一つになったと考えられている。
また、ラムセスの配下としてテーベで徴税を担当していたメリバステト (Meribastet) がこの地で勢力を増した。その息子であるラメセスナクトはラムセス4世の時代にアメン神殿の大司祭に任命され、メリバステトの一族が大司祭職を世襲していった。このことが後のアメン大司祭国家の成立に繋がることになった。

◆◆エジプト第3中間期(大司祭国家、第21 - 26王朝)
第20王朝末期にはテーベを中心とするアメン神官団が勢力を増していき、紀元前1080年頃にはアメン神官団の長ヘリホルがテーベに神権国家(アメン大司祭国家)を立てたことでエジプトは再び南北に分裂することとなった。
紀元前1069年に成立した第21王朝は首都をペル・ラムセスからタニスへと移し、アメン大司祭国家に名目的な宗主権を及ぼした。紀元前945年にはリビュア人傭兵の子孫であるシェションク1世が下エジプトに第22王朝を開き、アメン大司祭国家を併合して再統一を果たすが、その後は再びアメン大司祭が独立したほか下エジプトに5人の王が分立するなど混乱を極めた。
こうした中、エジプトの強い文化的影響を受けていた南のヌビアが勢力を拡大し、紀元前747年にはピアンキがヌビアから進撃してエジプト全土を制圧し、第25王朝を開いた。しかしその後、メソポタミアに強力な帝国を築いたアッシリアの圧迫にさらされ、紀元前671年にはアッシリア王エセルハドンの侵入をうけて下エジプトが陥落。一時奪回に成功したものの、アッシュールバニパル王率いるアッシリア軍に紀元前663年にはテーベを落とされて第25王朝のヌビア人はヌビアへと撤退した。
◆第25王朝 ヌビアのブラック・ファラオ


エジプト第25王朝(紀元前747年 - 紀元前656年)は、第3中間期の古代エジプト王朝。複数の王朝が並立していたエジプトに侵入してこれを統一したヌビア人達の王朝を指し、クシュ朝と呼ばれることもある。1世紀近くエジプトを支配した。


ヌビア地方では、新王国時代のエジプト支配を経て、エジプト文化が広く普及するようになっていた。新王国の衰退に伴ってエジプトがヌビアから撤退した後、ヌビア人達はナパタを都として独自の王国を建設した(クシュ王国、ナパタ王国とも)。この都市はナイル川第4急湍よりやや下流、かつて「清純の山」と呼ばれていたゲベル・バルカルという岩山の麓にあり、ここに残存する遺物の数々から、ヌビア人が(少なくとも支配階級は)高度にエジプト化されていたことが把握できる。彼らはエジプト風の記念物を建設し、アメン神を信奉、ヒエログリフを用いて碑文を残した。さらにエジプトと同じようにアメン神官団が大きな力を持つようになり、しばしば政策にも影響を与えた。
このナパタを始めとしたヌビア地方の遺跡、及びエジプトから発見される遺物などから、ナパタの王家はアララという首長と、彼の兄弟カシュタによって始まったと考えられる。アララとカシュタの治世に関する記録はほとんど無いが、カシュタの王名を記した記念碑がアスワンで発見されていることから、彼が上エジプト南部地域まで勢力を拡張していたことが確認できる。
カシュタと王妃ペバトマの子がピアンキ(ピイ、ピエとも)で、彼はエジプトに対する支配を打ち立てることになる。ピアンキのエジプト征服については、ゲベル・バルカルのアメン神殿で発見された『勝利の碑文』と呼ばれる花崗岩製の大碑文から知ることができる。それによればピアンキ王は、当時のエジプトの分裂とリビア人王朝の支配、即ちタニスの第22王朝、レオントポリスの第23王朝、ヘルモポリスの王朝、ヘラクレオポリス(エジプト語: Hwt-nen-nesu - ネンネス)の王朝、そしてサイスの第24王朝による割拠状態を目にし、「旧宗主国の秩序とアメン神の権威を立て直す」ためにエジプトへの遠征を決意したと言う。
当時すでに上エジプトにはヌビアに忠実な地方支配者が幾人もおり、より直接的にはこれらの地方支配者が敵の攻撃を受けて救援依頼をしてきたのが遠征の理由であった。
【上エジプトの征服】
ピアンキは軍勢を率いて北上し、まずエジプトのアメン信仰の中心テーベ(古代エジプト語:ネウト、現在のルクソール)を抵抗を受けることもなく占領した。そこでピアンキはアメン神に捧げる宗教儀式を行うとともに、自分の妹であるアメンイルディス1世を、当時の「アメンの聖妻」シェプエンウエペト1世の養女にし、その後継者とした。これによってテーベのアメン神官団対するコントロールを強めた。エジプト北部では第24王朝のテフナクト1世を中心に対ヌビアの同盟が組まれたが、上エジプトの重要都市ヘラクレオポリスの王ペフチャウアバステトは早々にヌビアに従った。
テフナクト1世はヘルモポリスのニムロトを誘い、彼を同盟側に引き入れると、ヌビアへの従属を決めたヘラクレオポリスを包囲した。ヘラクレオポリス王ペフチャウアバステトは篭城してこれに対抗し、ヌビア軍の救援を待った。そしてヌビア軍が到着したことで、両軍は戦闘に入った。同盟軍側にはテフナクト1世の他、第22王朝のオソルコン4世、第23王朝のイウプト2世、ヘルモポリスのニムロトという3人の王、及びその他の州侯が多数参加していた。ヌビア軍はこの戦いで勝利し、ヘラクレオポリスを包囲していたテフナクト1世らは自領へと引いた。ペフチャウアバステトは包囲からの解放者としてピアンキを大歓迎したと言う。
ヘラクレオポリスに進駐したピアンキは周辺諸地域を平定しつつ、反転してヘルモポリスを攻撃した。ヘルモポリス王ニムロトは5ヶ月にわたって篭城し抵抗したが、食料の欠乏などのため勝算が無いのを理解すると降伏した。この結果、上エジプトの全域がヌビア軍の占領するところとなった。この時ピアンキが降伏したニムロトに対して、ヘルモポリスで飼われていた馬が飢えていることを叱責したという説話が、やはり『勝利の碑文』に残されている。
【メンフィスの陥落とピアンキの第25王朝】
上エジプトを平定したピアンキは遂に下エジプトの入り口に当たる古都メンフィスに迫った。第24王朝のテフナクト1世はメンフィスに8000人の兵士を配置して防御に当たらせた。一方メンフィスを包囲したピアンキは水上から都市を落とすことを画策した。ヌビア軍はナイル川各地の船を徴発すると、それを使って川を横断して市内に侵入し、メンフィスを陥落させることに成功したのである。
このメンフィスの陥落はピアンキのエジプト遠征の成功を決定付けるものであった。メンフィス陥落直後、第23王朝のイウプトは王子らとともにピアンキに降伏し、彼の庇護下で自領の統治権を維持する道を選んだ。下エジプトに入ったピアンキは、ラー信仰の中心都市ヘリオポリスに入り、そこでラー神に捧げる儀式を執り行った。ヘリオポリス進駐から間もなく、第22王朝のオソルコン4世も降伏してイウプトと同じようにピアンキの臣下となった。第24王朝のテフナクト1世は沼沢地帯に逃げ込みなお散発的な軍事行動を行っていたが、ここに至ってピアンキに降伏の意思を伝え忠誠を誓った。こうして全エジプトがヌビアの支配下に収まることとなった。このため、このヌビア人の王国は現在エジプト第25王朝と呼ばれる。これらの出来事を伝える『勝利の碑文』に、ピアンキ王の治世第21年(紀元前727年)という年号があることから、この遠征は紀元前728年頃、或いはその前後に行われたものであると考えられている。
勝利が確定するとピアンキは降伏した王、及び州侯達から莫大な献上品を受け取り、勝ち誇って本拠地ナパタへと帰還した。そしてナパタのゲベル・バルカルの聖域で新たな大規模な建築活動を執り行い、新王国時代にエジプトによって建てられた神殿を改修・拡張してその威光を示した。
しかしヌビア軍が引き上げた後、第24王朝のテフナクト1世はさっさと忠誠の誓いを翻して反乱を起こし、下エジプト全域を支配下においてしまった。テフナクト1世の反乱は少なくともピアンキの存命中には鎮圧されることが無かった。テフナクト1世が紀元前720年頃死去すると、第24王朝の王位は息子のバクエンレネフ(ボッコリス)に受け継がれた。
ナパタに戻って統治していたピアンキ王は紀元前716年に没した。続いて即位したのはピアンキの弟であるシャバカであった。マネトによればシャバカ(サバコン)はバクエンレネフ(ボッコリス)を捕らえて焼き殺したという。具体的な経緯を記した記録が無いが、シャバカ王の記念物がエジプト全域から発見されることから彼は実際にバクエンレネフを殺し、第24王朝を滅ぼしてエジプトを再統一したらしい。彼の治世に関することはあまりわかっていないが、少なくともメンフィス、デンデラ、エスナ、エドフ、そして何よりもテーベで壮大な建築活動を行っており、高い指導力を発揮したと考えられる。
◆◆エジプト末期王朝(第27 - 31王朝)
アッシュールバニパルはサイスを支配していたネコ1世にエジプト統治を委任し間接統治を行った。この王朝を第26王朝と呼ぶ。第26王朝は当初はアッシリアの従属王朝であったが、アッシリアの急速な衰退にともなって自立の度を深め、紀元前655年にはネコ1世の子であるプサメティコス1世がアッシリアからの独立を果たす。これ以後は末期王朝時代と呼ばれ、また第26王朝は首都の名からサイス朝とも呼ばれる。
アッシリアはその後滅亡し、その遺領はエジプト、新バビロニア、リディア、メディアの4つの王朝によって分割された。プサメティコス1世の次のネコ2世はパレスチナ・シリア地方へと進出したものの、紀元前605年、カルケミシュの戦いで新バビロニアのネブカドネザル2世に敗れてこの進出は頓挫した。サイス朝時代のエジプトはシリアをめぐって新バビロニアとその後も小競り合いを繰り返しながらも、上記のオリエント4大国のひとつとして大きな勢力を持ったが、紀元前550年にメディアを滅ぼしたアケメネス朝のキュロス2世が急速に勢力を伸ばし、リディアおよび新バビロニアが滅ぼされるとそれに圧倒され、紀元前525年にはプサメティコス3世がアケメネス朝のカンビュセス2世に敗れ、エジプトはペルシアによって征服された。
ペルシアのエジプト支配は121年間に及び、これを第27王朝と呼ぶが、歴代のペルシア王の多くはエジプトの文化に干渉しなかった。しかしダレイオス2世の死後、王位継承争いによってペルシアの統治が緩むと、サイスに勢力を持っていたアミルタイオスが反乱を起こし、紀元前404年にはペルシアからふたたび独立を達成した。これが第28王朝である。
第28王朝はアミルタイオス一代で滅び、次いで紀元前397年から紀元前378年にかけては第29王朝が、紀元前378年からは第30王朝が立てられ、約60年間にわたってエジプトは独立を維持したが、東方を統一する大帝国であるアケメネス朝はつねにエジプトの再征服を狙っており、それにおびえながらの不安定な政情が続いた。そして紀元前341年、アケメネス朝のアルタクセルクセス3世の軍勢に最後のエジプト人ファラオであるネクタネボ2世が敗れ、エジプトはペルシアに再征服された。アルタクセルクセス3世はエジプトの信仰を弾圧し、圧政を敷いた。
◆◆プトレマイオス朝
ペルシアのこの圧政は10年間しか継続せず、紀元前332年、マケドニア王のアレクサンドロス3世がエジプトへと侵攻し、占領された。アレクサンドロスがペルシアを滅ぼすとエジプトもそのままアレクサンドロス帝国の一地方となったが、紀元前323年にアレクサンドロス3世が死去すると後継者たちによってディアドコイ戦争が勃発し、王国は分裂した。
この混乱の中でディアドコイの一人であるプトレマイオスがこの地に拠って勢力を拡大し、紀元前305年にはプトレマイオス1世として即位することで、古代エジプト最後の王朝であるプトレマイオス朝が建国された。
この王朝はセレウコス朝シリア王国、アンティゴノス朝マケドニア王国と並ぶヘレニズム3王国のひとつであり、国王および王朝の中枢はギリシャ人によって占められていた。
プトレマイオス1世は首都をアレクサンドロスによって建設された海港都市であるアレクサンドリアに置き、国制を整え、またムセイオンおよびアレクサンドリア図書館を建設して学術を振興するなどの善政を敷いた。
◆プトレマイオス1世ソーテール
プトレマイオス1世ソーテール(Πτολεμαίος Α' Σωτήρ、紀元前367年 - 紀元前282年、在位:紀元前305年 - 紀元前282年)は、エジプトのヘレニズム国家プトレマイオス朝の初代ファラオである。アレクサンドロス3世(大王)に仕え、アレクサンドロスの死後はディアドコイの一人としてエジプトに拠った。

ディアドコイ戦争で、プトレマイオスは当初、アンティパトロス等と組んでペルディッカス派に対抗し、これに勝利した。 紀元前322年、大王の死後の実権を握ろうとしたペルディッカスと対立したプトレマイオスは、武将アリダイオス及び当時のバビロン太守アルコンと共謀し、ペルディッカスが帝国の首都バビロンからマケドニア本国へ移送中だった大王の遺体を奪取し、大王の遺体を自国の首都アレクサンドリアにミイラとして埋葬した。紀元前321年末か紀元前320年初頭、ペルディッカスがプトレマイオスを討伐せんとエジプトに遠征してくると、プトレマイオスはこれを迎え撃った。ペルシウムでペルディッカスがナイル川の渡河に失敗すると、失望したペルディッカス配下の将軍達(ペイトン、アンティゲネス、セレウコス)が反乱を起こしてペルディッカスを暗殺したため、棚ぼた式にその地位が確固たるものになった。
同年、事後の体制を決めるべくトリパラディソスの軍会が開催され、諸将が招集された。プトレマイオスはここで、ペイトンとアリダイオスを帝国摂政に推薦したが、ピリッポス3世(大王の異母兄。知的障害があった)の王妃エウリュディケ2世に反対され、アンティパトロスが帝国摂政に就任した。またフリュギア太守アンティゴノスがここで帝国軍総司令官に任命され、ペルディッカス派諸将の討伐にあたることになった。
帝国摂政となったアンティパトロスだったが、間もなく病に侵され、老将ポリュペルコンを後継者に指名して死んだ。しかし、アンティパトロスの息子カッサンドロスが自身の摂政位の継承を主張し、ポリュペルコンとの間で争いとなった。プトレマイオスはアンティゴノスとともにカッサンドロスを支持した。最終的にポリュペルコンは敗れ、零落した。
ペルディッカス派討伐のため転戦を重ねていたアンティゴノスは、続くポリュペルコン派との戦いでも勝利を積み重ね、勢力の拡大を遂げていった。紀元前316年、当初はペルディッカスと、後にはポリュペルコンと結んで、アンティゴノスと敵対し続けたカッパドキア太守エウメネスが遂にアンティゴノスによって滅ぼされた。これにより、アンティゴノスはディアドコイ最大の勢力として台頭するようになったが、その強大な権勢は他のディアドコイとの対立を生んだ。プトレマイオスもまた、アンティゴノスと対立し、以降、東地中海周辺で激しい攻防を繰り広げることになる。
紀元前315年にバビロン太守セレウコスがアンティゴノスによってバビロンから追われると、プトレマイオスは彼を匿った。両者は紀元前312年にシリアへ出撃し、ガザの戦いでアンティゴノスの子デメトリオスを破った。アンティゴノス自らがシリアに出陣してくると、プトレマイオスはセレウコスに兵を譲って東方への帰還を助け、彼をバビロン太守に返り咲かせた。アンティゴノスはひとまずプトレマイオスと休戦し、セレウコス討伐に傾注することとなったが(バビロニア戦争)、その隙にプトレマイオスは東地中海沿岸で勢力を伸ばした。これを受け、アンティゴノスは再び主敵をプトレマイオスに定めた。
アンティゴノスとの戦いにおいて自身の優位と正当性を得ようとしたプトレマイオスは、寡婦となっていた大王の同母妹クレオパトラ (en) に求婚した。クレオパトラはこれに応えてエジプトに渡航しようとしたが、それを察知したアンティゴノスに暗殺されてしまい、プトレマイオスの望みは叶わなかった。
紀元前306年、サラミス海戦でデメトリオスが、プトレマイオスの艦隊を大敗させると、アンティゴノスはデメトリオスと共に王となることを宣言した。翌紀元前305年、プトレマイオスもこれに対抗して王を名乗り、ロードス包囲戦でもアンティゴノス・デメトリオス父子は優位に戦いを進め、勢力を固めていく。これに対し、プトレマイオスはセレウコス、カッサンドロス、リュシマコスと結び、反アンティゴノス同盟の一角を担った。アンティゴノスはこれを粉砕せんとしたが、紀元前301年にイプソスの戦いにおいてセレウコス・リュシマコスの連合軍に敗れ、戦死した。イプソスの戦いの後、セレウコスの勢力が強大化すると、プトレマイオスは娘のアルシノエをリュシマコスと結婚させて同盟関係を結び、これに対峙した。このように、プトレマイオスはディアドコイ戦争を巧みに生き残ることに成功したのである。
プトレマイオスには、アンティパトロスの娘エウリュディケとの間に長男プトレマイオス・ケラウノスがいたが、ケラウノスと対立したプトレマイオスはこれを後継者とせずにエジプトから追放した(ケラウノスはアルシノエのもとに身を寄せ、後にセレウコスを暗殺しマケドニア王位を簒奪する)。紀元前288年に後妻のベレニケ1世が産んだ息子プトレマイオス2世ピラデルポス(ケラウノスの異母弟)を後継者とし、共同統治者とした。
ディアドコイの多くが暗殺や戦死、獄死といった非業の死を遂げる中で、プトレマイオスは天寿をまっとうした数少ないディアドコイの一人でもあった。
続くプトレマイオス2世およびプトレマイオス3世の時代にも繁栄が続いたが、その後は暗愚な王と政局の混乱が続き、またシリアをめぐるセレウコス朝との6回にわたるシリア戦争などの打ち続く戦争によって国力は疲弊していった。紀元前80年にはプトレマイオス11世が殺されたことで王家の直系が断絶し、以後は勢力を増していく共和政ローマの影響力が増大していくこととなった。
紀元前51年に即位したクレオパトラ7世はガイウス・ユリウス・カエサルやマルクス・アントニウスといったローマの有力者たちと誼を通じることでエジプトの存続を図ったが、紀元前31年にオクタウィアヌス率いるローマ軍にアクティウムの海戦で敗北し、紀元前30年にアレクサンドリアが陥落。

これによりエジプトの独立王朝時代は終焉し、以後はローマの皇帝属州アエギュプトゥスとなった。
◆クレオパトラ7世フィロパトル
クレオパトラ7世フィロパトル(ギリシア語: Κλεοπάτρα Ζ' Φιλοπάτωρ, ラテン語: Cleopatra VII Philopator, 紀元前69年 - 紀元前30年8月12日)は、古代エジプト、プトレマイオス朝最後のファラオ(女王)。

現在、世間一般に美女「クレオパトラ」として浸透しているのは、クレオパトラ7世のことである。クレオパトラの父はプトレマイオス12世(アウレテス)、母はクレオパトラ5世であり、兄弟姉妹はクレオパトラ6世(姉)、ベレニケ4世(姉)、アルシノエ4世(妹)、プトレマイオス13世、プトレマイオス14世(共に弟)が知られる。「クレオパトラ」の名はギリシア語で「父親の栄光」を意味する。
「絶世の美女」として知られ、人をそらさない魅力的な話術と、小鳥のような美しい声であったと伝えられる。ただし、クレオパトラの肖像は治世当時、アントニウスが発行したとされている硬貨に横顔が残されているのみであり、この評価は後世の作り話だとの説があるが、妹のアルシノエ4世の復元図から姉のクレオパトラも美しかったとする説もある。クレオパトラは後世ダンテの抒情詩『神曲』では愛欲の罪により地獄で苦しむ設定となっている。
紀元前30年8月1日、アントニウスはクレオパトラ7世が自分を裏切ったと思い込んでいたところに届けられたクレオパトラ7世死去の報告(ただし、これは誤報)に接して自殺を図る。それを知ったクレオパトラ7世の指示により、アントニウスは瀕死の状態でクレオパトラ7世のところにつれてこられたが、息を引き取った。
8月29日、オクタウィアヌスは捕虜となったクレオパトラ7世が自殺することを警戒し、厳重な監視下に置いていたが、クレオパトラ7世自身はオクタウィアヌスに屈することを拒んで自殺した。贈答品のイチジクに忍ばせていたコブラに身体(乳房か腕)を噛ませて自殺したとも伝えられている。オクタウィアヌスは彼女の「アントニウスと共に葬られたい」との遺言を聞き入れた。

▲プトレマイオス朝の最後の女王クレオパトラの死












