古代エジプト ルクソール神殿
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ルクソール(Luxor)は、エジプトの都市で、ルクソール県の県都。古代エジプトの都テーベがあった場所で、現在も数多くの遺跡が残っている。市域はナイル川によって分断されている。

日が昇る方角であるナイル川の東岸には、カルナック神殿やルクソール神殿など生を象徴する建物が、日が沈む方向のナイル川西岸には死を象徴する、王家の谷や王妃の谷などがある。王家の谷にはツタンカーメン王の墓がある。
市内にある遺跡の多くが、古代都市テーベとその墓地遺跡 として世界遺産に登録されている。

◆ルクソール神殿
ルクソール神殿(英語: Luxor Temple)は、エジプトのルクソール(古代のテーベ)東岸にある古代エジプト時代の神殿複合体である。もともとカルナック神殿の中心を形成するアメン大神殿の付属神殿として、エジプト第18王朝(紀元前1550-1295年頃)ファラオのアメンホテプ3世(紀元前1390-1352年頃)によって中心部分が建立された。

神殿の後方には、アメンホテプ3世およびアレクサンドロス3世(紀元前332-323年)によって構築された祠堂がある。ローマ時代には、神殿およびその周辺は軍の要塞となり、その領域はローマ政府の基地であった。
アメン大神殿とはスフィンクスの参道で結ばれていた。神殿入口となる第1塔門の前には1対のラムセス2世(紀元前1279-1213年頃)の坐像、その手前にはオベリスク(高さ25メートル)が1本立っている。オベリスクは本来左右2本あったが、右側の1本(高さ22.55メートル)は1819年、フランスに贈られてパリに運ばれ、現在コンコルド広場にある。
◆◆アメンホテプ3世◆◆


アメンホテプ3世は、トトメス3世、トトメス4世の時代を経て絶頂に達した王国を継承した。在位期間も長く、40年近くに及んだ。アメン神を崇敬すること篤く、テーベにカルナックのアメン神殿と直結する分神殿としてルクソール神殿を建設している。このほか、同地に広大な自身の葬祭殿も建設している。葬祭殿は後に後代の王たちによって破壊されたが、メムノンの巨像と呼ばれる彼の坐像は破壊されずに残り、現在でも形をとどめている。

◆ラムセス2世

年代には諸説あるが、24歳で即位し、66年間統治し、90歳で没したとされる。その間、第1王妃ネフェルタリのほか、何人もの王妃や側室との間に、賢者として名高いカエムワセト、後継者となるメルエンプタハなど111人の息子と69人の娘を設け、娘の中には父親であるラムセス2世と親子婚を行った者もいたと伝えられる。もっとも、この大半は養子であり王の息子の称号を与えられただけだという説もある。しかし、非常に大柄(約180cm)であり専用の強弓は王その人以外誰も引くことができなかったと言われる優れた戦士であった王が多くの子を残さなかったとは考えにくく、やはり彼らは王の実子であると考える者もいる。
治世第5年の紀元前1286年、総勢2万の兵を率いてカデシュの戦いに親征し、ムワタリ2世率いるヒッタイトと戦った。エジプトは偽情報に踊らされた結果有力な軍団を壊滅させられるなど苦戦しつつも、ラムセス2世の武勇によって勝利を収めたが、ヒッタイト勢力をパレスチナから駆逐するには到らなかった。両者ともに相手を退けるに到らず、長年戦争を続けたのち、ラムセス2世の第21年(紀元前1269年)、エジプトとヒッタイトは平和条約(en:Egyptian–Hittite peace treaty)を結んで休戦し、ラムセス2世はヒッタイト王女を王妃に迎えた。これは世界史で最初の平和条約と呼ばれる。条約文はヒッタイトの首都ハットゥシャの粘土板やエジプトの神殿の壁面でも発見された。またカデシュの戦いにおけるラムセス2世の勝利の喧伝は、エジプト軍の軍制改革の妨げとなり後に災いを残すことになる。ラムセス2世はこの戦いの栄光を自賛するため宮廷書記ペンタウルに詩を作らせ、カルナック神殿からアブ・シンベルに至るまでの大神殿の壁に詩を彫らせた。
ラムセス2世はまた、ナイル第1滝を越えてヌビアに遠征した。ラムセス2世は戦勝の記念碑を多く築き、現在もっとも記念碑の多く残るファラオとなっている。ヌビアは後にエジプトに同化され、本家エジプトの衰退を救う形で王朝を立てることになる。
カイサリアのエウセビウスなどキリスト教教会史家の間には、ラムセス2世を『出エジプト記』に登場するイスラエル人を奴隷から解放するようにモーセが要求したファラオと同一視する者がある(次代のファラオのメルエンプタハとする説もある)。
ラムセス2世は、紀元前1290年に首都をテーベからナイル川のデルタ地帯の東に作ったペル・ラムセスに遷都した。また、テーベ、ルクソール、カルナックの神殿を整備した。テーベには葬祭用の巨大な「永遠の城」ラメセウスを建てさせた。そして、ヌビアにも多くの記念建造物を建てさせている。
ラムセス2世はアブ・シンベル神殿を造営した。これはアスワン・ハイ・ダムの建設に伴って移転され、これを機に世界遺産の制度が制定された。現在アブ・シンベル神殿は世界遺産に登録されている。他にも「カルナック神殿」や「ラムセス2世葬祭殿(ラムセウム)」等多数の建造物を残している。
◆アレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)

また、コリントス同盟(ヘラス同盟)の盟主、エジプトのファラオも兼ねた。ヘーラクレースとアキレウスを祖に持つとされ、ギリシアにおける最高の家系的栄誉と共に生まれた。ギリシア語ではアレクサンドロス大王であるが、英語風に読んでアレクサンダー大王またはアレキサンダー大王とすることも多い。その他にはイスカンダルなどと呼ばれている。
◆ハトシェプスト
ハトシェプスト(ラテン文字表記:Hatshepsut)は、古代エジプト第18王朝第5代のファラオ(在位:紀元前1479年頃 - 紀元前1458年頃)。

父はトトメス1世、母はイアフメス。夫はトトメス2世、娘はネフェルウラー。
夫であるトトメス2世は妾腹の息子トトメス3世を次の王にせよと遺言したが、トトメス3世は幼かったため、以後22年間にわたり共治王を務めた。実際には在位中、彼女が絶対的権力を保有していた。公的な場では男装し、あごに付け髭をつけていたと伝えられる。ハトシェプストの意味は「最も高貴なる女性」である。

即位名はマアトカラー、意味は「真実とラー神の魂」である。即位については、トトメス3世を無視してプロパガンダを用いファラオの地位まで登りつめるほどの野心家であったと見るか、夫の遺言を守るために幼い継子が成人するまでの「つなぎ」を果たそうとしたと見るか、諸説ある。
治世は穏健で、戦争を好まずに平和外交によってエジプトを繁栄させた。しかし、それは同時にエジプトの国威の低下を招くことになるのだが、トトメスの軍事的功績の基盤を作り上げたという見方もある。死後、その事跡はトトメス3世によって抹消されたという解釈が一般的だが、ザヒ・ハワスは、ハトシェプストとトトメス3世の仲は良好で、事跡を抹消したのは女性であるハトシェプストがファラオとして君臨したことを快く思わない者たちではないか、と発言している。なお『旧約聖書』「出エジプト記」でモーセをナイル川で拾って育てた義母は彼女とも言われている。
◆トトメス3世
トトメス3世(Thutmose III)は、古代エジプト第18王朝6代目のファラオ(在位:紀元前1479年頃 - 紀元前1425年頃)。

父王トトメス2世によって後継者に指名されていたが、幼くして父王が亡くなったため、継母ハトシェプストが即位、全権を掌握することになる。治世の前半は、ハトシェプストの補佐という形でしか政治を行えず、大半の時間を軍隊で過ごしたと伝わる。この時期の経験から高い軍事的能力を身につけ、ハトシェプストの退位後となる治世の後半はハトシェプスト時代の外交を改めて周辺諸国に遠征し、国威を回復、エジプト史上最大の帝国を築いた。ことにメギドの戦いでの大勝で名高い。その積極的な外征と軍事的偉業から、「エジプトのナポレオン」と呼ばれることも多い。
実権を掌握してからはハトシェプストの存在を抹殺しており、ハトシェプストの名前や肖像を軒並み削り取った。これには「恨みによるもの」とした説と「女王の前例を残さないよう、即位した事実を抹消する為」とした説がある。
神殿の構成
- a. アメン神殿 (Temple of Amun) - アメンホテプ3世
- b. アメンホテプ3世の中庭 (Sun court) - 第2中庭
- c. 三柱神の聖舟祠堂 (Barque stop 〈トトメス3世とハトシェプスト〉 and Shrine of the Theban triade 〈ラムセス2世〉)
- d. 列柱廊 (Colonnade) - ツタンカーメンとホルエムヘブ
- e. ラムセス2世の中庭 (Great Court) - 第1中庭
- f. キオスク (Kiosk) - シャバコ(シャバカ、Shabaka)
- A. 至聖所 (Sanctuary of Amun) - アメンホテプ3世
- B. 聖舟祠堂 (Barque shrine) - アメンホテプ3世とアレクサンドロス大王
- C. 「誕生の間」 (“Birth room”) - (中心軸:第2前室)
- D. ローマ時代の内陣 (Roman sanctuary) - 第1前室
- E. 列柱室 (Hypostyl hall)
- F. 第3塔門 (3rd pylon)
- G. 大列柱廊 (Processional colonnade) - アメンホテプ3世
- H. 第2塔門 (2nd pylon)
- I. 第1塔門 (1st pylon) - ラムセス2世
- K. オベリスク (Obelisks) - ラムセス2世
構造物
ルクソール神殿は、エジプト南西部のジェベル・エル=シルシラ (Gebel el-Silsila) 地域からの砂岩で建造された。ジェベル・エル=シルシラ地域からの砂岩は、ヌビア砂岩と呼ばれる。この砂岩は、過去から現在に至る復旧作業ばかりでなく、上エジプトにおける記念建造物の建設のために使用された。

オベリスク
他のエジプト建造物と共通して使われた一般的手法として、象徴的表現すなわち錯視的表現があった。ルクソール神殿の入口に隣接する2本のオベリスク(西側の少し小さい1本は現在パリのコンコルド広場〈Place de la Concorde〉にある)は同じ高さではなかったが、そうであるような錯覚を作り出していた。神殿の配置と一体になり、それらは等しい高さであるように見えるが、錯視的表現を用いてそれが後方の壁のため同じ大きさに見えるよう、相対的な距離を増すように形作った。象徴的に、壁からの高さと距離を強調し、すでにあった従来の通路を整備した視覚的かつ空間的効果であった。

▼パリのコンコルド広場の中心部には、このルクソール神殿から運んできたオベリスク (Luxor Obelisk) である「クレオパトラの針」が置かれている。

▼スフィンクス参道

▼ラムセス2世の中庭

▼アメンホテプ3世の中庭

▼ローマ時代の壁龕
(塞がれた至聖所に通じる入口)

発掘
中世よりルクソールのイスラム教徒の集団が、丘の南端、神殿およびその周辺に定住していた。ルクソールの町の住民がそれまでルクソール神殿の周りやその上に築いた建物によって、何世紀にもわたる瓦礫が、高さおよそ15メートル(48-50フィート)の築山としてその場所に堆積していた。
ルクソール神殿は、ガストン・マスペロ教授が、作業を開始する任務を与えられた後、1884年より発掘が始められていった。その発掘は1960年まで散発的に行われた。長期にわたって、長い年月堆積した廃物が、現代集落の半分をアラビア人の実際の中核部分としていた中庭や列柱廊など現在の神殿の4分の3を埋没させていた。現在においては、13世紀頃のイスラームの聖者エル=ハッジャージ(エル・ハガック)のために建立されたアブ・エル=ハッジャージ (Abu el-Haggag) のモスクが、ラムセス2世の中庭におよんでいる。













