中国の歴史・概略
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中国の歴史、あるいは中国史とは、中国または中国大陸における歴史のこと。
中国の黄河文明は古代の世界四大文明の一つに数えられ、また、黄河文明よりもさらにさかのぼる長江文明が存在した。以降、現代までの中国の歴史を記す。
なお、その対象は、中国大陸の地域史であり、漢民族の歴史ではない。

【王朝・政権の変遷】
◆中国の歴史の概略
【先史人類史】
中国に現れた最初期の人類としては、元謀原人や藍田原人、そして北京原人が主である。
文明の萌芽
中国大陸では、古くから文明が発達した。中国文明と呼ばれるものは、大きく分けて黄河文明と長江文明の2つがある。黄河文明は、畑作が中心、長江文明は稲作が中心であった。黄河文明が、歴史時代の殷(商)や周などにつながっていき、中国大陸の歴史の中軸となった。長江文明は次第に、中央集権国家を創出した黄河文明に同化吸収されていった。
【長江文明】
長江文明は稲作発祥地として中国の発展の基盤となった。
- 玉蟾岩遺跡…湖南省(長江中流)。紀元前14000年 - 紀元前12000年?の稲モミが見つかっているが、栽培したものかは確定できない。
- 仙人洞・吊桶環遺跡…江西省(長江中流)。紀元前12000年ごろ?の栽培した稲が見つかっており、それまで他から伝播してきたと考えられていた中国の農耕が中国独自でかつ最も古いものの一つだと確かめられた。
- 彭頭山文化…湖南省(長江中流)。紀元前7000年 - 紀元前5000年。散播農法が行われており、中国における最古の水稲とされる。
- 大渓文化…四川省(長江上流)。紀元前4500年? - 紀元前3300年?。彩文紅陶(紋様を付けた紅い土器)が特徴で、後期には黒陶・灰陶が登場。灌漑農法が確立され、住居地が水の補給のための水辺から大規模に農耕を行う事の出来る平野部へ移動した。
- 屈家嶺文化…湖北省。紀元前3000年 - 紀元前2500年。大渓文化を引き継いで、ろくろを使用した黒陶が特徴。河南地方の黄河文明にも影響を与えたと考えられる。
- 石家河文化…屈家嶺文化から発展し、湖北省天門県石家河に大規模な都城を作った紀元前2500年頃を境として屈家嶺と区別する。この都城は南北1.3km、東西1.1kmという大きさで、上述の黄河流域の部族と抗争したのはこの頃と考えられる。
- 河姆渡文化 …紀元前5000年 - 紀元前4000年、下流域では最古の稲作。狩猟や漁労も合わせて行われ、ブタの家畜化なども行われた。
- 良渚文化…浙江省(銭塘江流域)。紀元前5260年- 紀元前4200年(以前は文化形態から大汶口文化中期ごろにはじまったとされていたが、1977年出土木材の年輪分析で改められた)青銅器以前の文明。多数の玉器の他に、絹が出土している。分業や階層化も行われたと見られ、殉死者を伴う墓が発見されている。黄河文明の山東竜山文化とは相互に関係があったと見られ、同時期に衰退したことは何らかの共通の原因があると見られている。
- 三星堆遺跡…紀元前2600年 - 紀元前850年。大量の青銅器が出土し、前述の他に目が飛び出た仮面・縦目の仮面・黄金の杖などがあり、また子安貝や象牙なども集められており、権力の階層があったことがうかがい知れる。青銅器については原始的な部分が無いままに高度な青銅器を作っているため他の地域、おそらくは黄河流域からの技術の流入と考えられる。長江文明と同じく文字は発見されていないが、「巴蜀文字」と呼ばれる文字らしきものがあり、一部にこれをインダス文字と結びつける説もある。

【黄河文明】
黄河文明は、その後の中国の歴史の主軸となる。
- 裴李崗文化…紀元前7000?~紀元前5000?。一般的な「新石器時代」のはじまり。定住し、農業も行われていた。河南省(黄河中流)。土器は赤褐色
- 老官台文化…紀元前6000?~紀元前5000?。土器作りや粟作りが行われていた。陝西省(黄河上流)。土器は赤色。
- 北辛文化…紀元前6000?~紀元前5000?。土器は黄褐色。山東省(黄河下流)
- 磁山文化…紀元前6000?~紀元前5000?。土器は赤褐色。河北省(黄河下流)
- 仰韶文化…紀元前4800?~紀元前2500?。前期黄河文明における最大の文化。陝西省から河南省にかけて存在。このころは母系社会で、農村の階層化も始まった。文化後期になると、社会の階層化、分業化が進んだ。土器は赤色。
- 後岡文化…紀元前5000?~紀元前4000?。北辛文化が発展。河南省。
- 大汶口文化…紀元前4300?~紀元前2400?。土器は前期は赤色(彩陶)、後期は黒色(黒陶)。なお、この区分は黄河文明全体に見られる。山東省。
- 馬家窯文化…紀元前3100?~紀元前2700?。彩陶中心。仰韶文化が西へ伝播し発展した。甘粛省。
- 龍山文化…紀元前2500?~紀元前2000?。大汶口文化から発展。後期黄河文明最大の文化。土器は黒色(黒陶)。山東省。
- 喇家遺跡…紀元前2000年頃の遺跡。水害で埋まり、麺類や楽器などが発見された。青海省。
- 二里頭文化…紀元前2000?~紀元前1600?。遺跡の中心部には二つの宮殿がある。河南省。

【遼河文明】
- 興隆窪文化…内モンゴル自治区赤峰市(遼河流域)。紀元前6200年頃-紀元前5400年頃の遺跡。土器や環濠集落が見つかり、龍をかたどった中国でも最も初期の玉製品が発見されている。
- 新楽遺跡…遼寧省(遼河流域)。紀元前5200年?ごろの定住集落。母系社会が定着し、農業も行われていた。
- 趙宝溝文化 …紀元前5400年頃-紀元前4500年頃
- 紅山文化…内モンゴル自治区赤峰市(遼河流域)。紀元前4700年頃-紀元前2900年頃の農業遺跡。龍をかたどった玉器や、大規模な祭祀遺跡を建設した。
- 夏家店下層文化 …紀元前2000年頃-紀元前1500年頃
- 夏家店上層文化 …紀元前1100年頃-紀元前500年頃
夏(公天下から家天下へ)
史記では伝説と目される三皇五帝の時代に続いて、最初の王朝国家としての夏朝が始まった。また夏は有るか、無いか、という論戦もある。
殷・商(漢字の始まり)
殷(代表的な遺跡殷墟が有名であるため日本では一般に殷と呼ばれるが、商の地が殷王朝の故郷とされており、商が自称であるという説もあるため、中国では商と呼ぶほうが一般的である。殷商とも呼ぶ。)が実在の確認されている最古の王朝である。殷では、王が占いによって政治を行っていた(神権政治)。殷は以前は山東で興ったとされたが、近年は河北付近に興ったとする見方が有力で、黄河文明で生まれた村のうち強大になり発展した都市国家の盟主であったと考えられる。
周(天子の天下と華夷秩序の形成)
紀元前11世紀頃に殷を滅ぼした周は、各地の有力者や王族を諸侯として封建制をおこなった。しかし、周王朝は徐々に弱体化し、異民族に攻められ、紀元前770年には成周へ遷都した。その後、史記周本紀によれば犬戎の侵入により西周が滅び、洛陽に東周が再興されるが、平勢隆郎の検討によれば幽王が殺害されたあと短期間携王が西、平王が東に並立し、紀元前759年平王が携王を滅ぼしたと考えられる。平王のもとで周は洛陽にあり、西周の故地には秦が入る。これ以降を春秋時代と呼ぶ。春秋時代には、周王朝の権威はまだ残っていたが、紀元前403年から始まるとされる戦国時代には、周王朝の権威は無視されるようになる。
春秋戦国
春秋戦国時代は、諸侯が争う戦乱の時代であった。
春秋時代
春秋時代は都市国家の盟主どうしの戦いだった。しかし春秋末期最強の都市国家晋が三分割されたころから様子が変わる。その当時の晋の有力な家臣六家が相争い、最初力が抜きん出ていた智氏が弱小な趙氏を攻めたものの、趙氏が農村を経済的ではなく封建的によく支配し城を守りきり、疲弊した智氏を魏氏、韓氏が攻め滅ぼしたことで最終的に晋は趙、魏、韓の三氏に分割され滅亡した。このこともあってそれまで人口多くてもせいぜい5万人程度だった都市国家が富国強兵に努め、商工業が発達し、貨幣も使用し始めやがて領土国家に変貌しその国都となった旧都市国家は30万人規模の都市に変貌する。また鉄器が普及したことも相まって、農業生産も増大した。
諸子百家
また、このような戦乱の世をどのように過ごすべきかという思想がさまざまな人たちによって作られた。このような思想を説いた人たちを諸子百家(陰陽家、儒家、墨家、法家、名家、道家、兵家等が代表的)という。
戦国時代
晋の分裂以後を一般に戦国時代という。
秦・漢帝国
秦
現在の陝西省あたりにあった秦は、戦国時代に着々と勢力を伸ばした。勢力を伸ばした背景には、厳格な法律で人々を統治しようとする法家の思想を採用して、富国強兵に努めたことにあった。秦王政は、他の6つの列強を次々と滅ぼし、紀元前221年には史上はじめての中国統一を成し遂げた。秦王政は、自らの偉業をたたえ、王を超える称号として皇帝を用い、自ら始皇帝と名乗った。
始皇帝は、法家の李斯を登用し、中央集権化を推し進めた。このとき、中央から派遣した役人が全国の各地方を支配する郡県制が施行された。また、文字・貨幣・度量衡の統一も行われた。さらに、当時モンゴル高原に勢力をもっていた遊牧民族の匈奴を防ぐために万里の長城を建設させた。さらに、軍隊を派遣して、匈奴の南下を抑えた。また、嶺南地方(現在の広東省)にも軍を派遣し、この地にいた百越諸族を制圧した。しかし、このような中央集権化や土木事業・軍事作戦は人々に多大な負担を与えた。そのため、紀元前210年に始皇帝が死ぬと、翌年には陳勝・呉広の乱という農民反乱がおきた。これに刺激され各地で反乱がおき、ついに秦は紀元前206年に滅びた。
楚漢戦争
秦が滅びたあと、劉邦と項羽が覇権をめぐって争った(楚漢戦争)が、紀元前202年には、劉邦が項羽を破り、漢の皇帝となった。
漢(漢民族の形成と西への拡張)
前漢
劉邦は、始皇帝が急速な中央集権化を推し進めて失敗したことから、一部の地域には親戚や臣下を王として治めさせ、ほかの地域を中央が直接管理できるようにした。これを郡国制という。しかし、紀元前154年には、各地の王が中央に対して呉楚七国の乱と呼ばれる反乱を起こした。この反乱は鎮圧され、結果として、中央集権化が進んだ。紀元前141年に即位した武帝は、国内の安定もあり、対外発展を推し進めた。武帝は匈奴を撃退し、シルクロードを通じた西方との貿易を直接行えるようにした。また、朝鮮半島北部、ベトナム北中部にも侵攻した。これらの地域はその後も強く中国文化の影響を受けることとなった。また、武帝は董仲舒の意見を聞いて、儒教を統治の基本とした。これ以降、中国の王朝は基本的に儒教を統治の基本としていく。一方で文帝の頃より貨幣経済が広汎に浸透しており、度重なる軍事行動と相まって、農民の生活を苦しめた。漢の宮廷では貨幣の浸透が農民に不利益であることがしばしば論じられており、農民の救済策が検討され、富商を中心に増税をおこなうなど大土地所有を抑制しようと努力した。また儒教の国教化に関連して儒教の教義論争がしばしば宮廷の重大問題とされるようになった。ちなみに、このころイエス・キリストが生まれ、以降は紀元後となる。
後漢
8年には、王莽が皇帝の位を奪って、一旦漢を滅ぼした。王莽は当初儒教主義的な徳治政治をおこなったが、相次ぐ貨幣の改鋳や頻繁な地名、官名の変更など理想主義的で恣意的な政策をおこなったため徐々に民心を失い、辺境異民族が頻繁に侵入し、赤眉の乱など漢の復興を求める反乱が起き、内乱状態に陥った。結局、漢の皇族の血を引く劉秀によって漢王朝が復興された。この劉秀が建てた漢を後漢という。王朝初期には雲南に進出し、また班超によって西域経営がおこなわれ、シルクロードをおさえた。初期の後漢王朝は豪族連合的な政権であったが、章帝の時代までは中央集権化につとめ、安定した政治が行われた。しかし安帝時代以後外戚や宦官の権力の増大と官僚の党派対立に悩まされるようになった。
黄巾の乱
後漢末期の184年には、黄巾の乱と呼ばれる農民反乱がおきた。これ以降、隋が589年に中国を再統一するまで、一時期を除いて中国は分裂を続けた。この隋の再統一までの分裂の時代を魏晋南北朝時代という。また、この時期には日本や朝鮮など中国周辺の諸民族が独自の国家を形成し始めた時期でもある。
三国時代
黄巾の乱が鎮圧されたあと、豪族が各地に独自政権を立てた。中でも有力であったのが、後漢王朝の皇帝を擁していた曹操である。しかし、中国統一を目指していた曹操は、208年に赤壁の戦いで、江南の豪族孫権に敗れた。結局、曹操の死後、220年に曹操の子の曹丕が後漢の皇帝から皇帝の位を譲られ、魏を建国した。これに対して、221年には、現在の四川省に割拠していた劉備が皇帝となり、蜀を建国した。さらに、江南の孫権も229年に皇帝と称して、呉を建国した。この魏・呉・蜀の三国が並立した時代を三国時代という。
曹魏
三国の中で、もっとも有力であったのは魏であった。魏は後漢の半分以上の領土を継承したが、戦乱で荒廃した地域に積極的な屯田をおこない、支配地域の国力の回復につとめた。魏では官吏登用法として、九品官人法がおこなわれた。
晋による統一
三国は基本的に魏と呉・蜀同盟との争いを軸としてしばしば交戦したが、蜀がまず263年に魏に滅ぼされ(蜀漢の滅亡)、その魏も有力な臣下であった司馬炎に265年に皇帝の位を譲るという形で滅亡した。司馬炎は皇帝となって国号を晋と命名し、さらに280年に呉を滅ぼし、中国統一を達成した(西晋)。
しかし、300年から帝位をめぐって各地の皇族が戦争を起こした(八王の乱)。
魏晋南北朝時代(少数民族の侵入)
五胡十六国
この時、五胡と呼ばれる異民族を軍隊として用いたため、これらの民族が非常に強い力を持つようになった。316年には、五胡の1つである匈奴が晋をいったん滅ぼした(永嘉の乱)。これ以降、中国の北方は、五胡の建てた国々が支配し、南方は江南に避難した晋王朝(南に移ったあとの晋を東晋という)が支配した。この時期は、戦乱を憎み、宗教に頼る向きがあった。代表的な宗教が仏教と道教であり、この2つの宗教は時には激しく対立することがあった。
東晋と南朝
江南を中心とする中国の南方では、異民族を恐れて、中国の北方から人々が多く移住してきた。これらの人々によって、江南の開発が進んだ。それに伴い、貴族が大土地所有を行うということが一般的になり、貴族が国の政治を左右した。一部の貴族の権力は、しばしば皇帝権力よりも強かった。これらの貴族階層の者により散文、書画等の六朝文化と呼ばれる文化が発展した。東晋滅亡後、宋・斉・梁・陳という4つの王朝が江南地方を支配したが、貴族が強い力を握ることは変わらなかった。梁の武帝は仏教の保護に努めた。
北朝
北方では、鮮卑族の王朝である北魏が台頭し、439年には、華北を統一した。471年に即位した孝文帝は漢化政策を推し進めた。また、土地を国家が民衆に割り振る均田制を始め、律令制の基礎付けをした。しかし、このような漢化政策に反対するものがいたこともあり、北魏は、西魏と東魏に分裂した。西魏は北周へと、東魏は北斉へと王朝が交代した。577年には北周が北斉を滅ぼしたが、581年に、鮮卑系の隋が北周にとって代わった。589年に、隋は陳を滅ぼし、中国統一を達成した。
魏晋南北朝表も参照。
隋・唐帝国
このころ日本と交流がさかんになる。
隋
隋の文帝は、均田制・租庸調制・府兵制などを進め、中央集権化を目指した。また同時に九品中正法を廃止し、試験によって実力を測る科挙を採用した。しかし、文帝の後を継いだ煬帝は江南・華北を結ぶ大運河を建設したり、度重なる遠征を行ったために財政が逼迫し、民衆の負担が増大した。三回目の高句麗遠征に合わせて農民反乱が起き、618年に隋は滅亡した。日本の聖徳太子から遣隋使(小野妹子)が送られた。
唐
初唐
隋に代わって、中国を支配したのが、唐である。唐は基本的に隋の支配システムを受け継ぎ、626年に即位した太宗は租庸調制を整備し、律令制を完成させた。唐の都の長安は、当時世界最大級の都市であり、各国の商人などが集まった。長安は、西方にはシルクロードによってイスラム帝国や東ローマ帝国などと結ばれ、ゾロアスター教・景教・マニ教をはじめとする各地の宗教が流入した。また、文化史上も唐時代の詩は最高のものとされる。
武周
唐太宗の死後着々と力を付けた太宗とその子の高宗の皇后武則天はついに690年政権を簒奪し、中国史上唯一の女皇帝に即位し、国号を周とした。
盛唐から晩唐へ
712年に玄宗は唐を再興させて国内の安定を目指したが、すでに律令制は制度疲労を起こしていた。また、周辺諸民族の統治に失敗したため、辺境に強大な軍事力を持った節度使を置く必要がでてきた。節度使は軍権以外にも、後に民政権・財政権も持ち始め、755年には、節度使の安禄山たちが安史の乱と呼ばれる反乱を起こした。この反乱は郭子儀や僕固懐恩、ウイグル帝国の太子の葉護らの活躍で何とか鎮圧されたが、反乱軍の投降者の勢力を無視できず、投降者を節度使に任じたことなどからさらに各地で土地の私有(荘園)が進み、土地の国有を前提とする均田制が行えなくなっていった。結局政府は土地の私有を認めざるを得なくなり、律令制度は崩壊した。875年から884年には黄巣の乱と呼ばれる農民反乱がおき、唐王朝の権威は失墜し、各地の節度使はますます権力を強めて907年には、節度使の1人である朱全忠が唐を滅ぼした。
五代十国
唐の滅亡後、各地で節度使があい争った。この時代を五代十国時代という。この戦乱を静めたのが、960年に皇帝となって宋を建国した趙匡胤である。ただし、宋が完全に中国統一を達成したのは趙匡胤の死後の976年である。
混乱と繁栄の宋元帝国
北宋と遼・西夏
北宋
北宋初の皇帝趙匡胤は、節度使が強い権力をもっていたことで戦乱が起きていたことを考え、軍隊は文官が率いるという文治主義をとっ た。また、これらの文官は、科挙によって登用された。宋からは、科挙の最終試験は皇帝自らが行うものとされ、科挙で登用された官吏と皇帝の結びつきは深まった。また、多くの国家機関を皇帝直属のものとし、中央集権・皇帝権力強化を進めた。科挙を受験した人々は大体が、地主層であった。これらの地主層を士大夫と呼び、のちの清代まで、この層が皇帝権力を支え、官吏を輩出し続けた。
遼・西夏
唐は、その強大な力によって、周辺諸民族を影響下においていたが、唐の衰退によってこれらの諸民族は自立し、独自文化を発達させた。また、宋は文治主義を採用していたため、戦いに不慣れな文官が軍隊を統制したので、軍事力が弱く、周辺諸民族との戦いにも負け続けた。なかでも、契丹族の遼・タングート族の西夏は、中国本土にも侵入し、宋を圧迫した。これらの民族は、魏晋南北朝時代の五胡と違い、中国文化を唯一絶対なものとせず、独自文化を保持し続けた。このような王朝を征服王朝という。後代の元や清も征服王朝であり、以降、中国文化はこれらの周辺諸民族の影響を強く受けるようになった。
庶民文化の発達と程朱理学
文化的には、経済発展に伴って庶民文化が発達した。また、士大夫の中では新しい学問をもとめる動きが出て、儒教の一派として朱子学が生まれた。
南宋と金・蒙古
南宋
1127年には、金の圧迫を受け、宋は、江南に移った。これ以前の宋を北宋、以降を南宋という。南宋時代には、江南の経済が急速に発展した。また、すでに唐代の終わりから、陸上の東西交易は衰退していたが、この時期には、ムスリム商人を中心とした海上の東西交易が発達した。当時の宋の特産品であった陶磁器から、この交易路は陶磁の道と呼ばれる。南宋の首都にして海上貿易の中心港だった杭州は経済都市として栄え、元時代に中国を訪れたマルコ・ポーロは杭州を「世界一繁栄し、世界一豊かな都市」と評している。
モンゴルの起源と世界最大の帝国
13世紀初頭にモンゴル高原で、成吉思汗(チンギス・カン)が、モンゴルの諸部族を統一し、ユーラシア大陸各地へと、征服運動を開始した。モンゴルは、東ヨーロッパ、ロシア、小アジア、メソポタミア、ペルシャ、アフガニスタン、西蔵(チベット)にいたる広大な領域を支配し、この帝国はモンゴル帝国(蒙古帝国)と呼ばれる。

モンゴル帝国は各地に王族や漢人有力者を分封した。モンゴル帝国の5代目の君主(ハーン)にクビライ(忽必烈)が即位すると、これに反発する者たちが、反乱を起こした。結局、モンゴル帝国西部に対する大ハーン直轄支配は消滅し、大ハーンの政権は中国に軸足を置くようになった。もっとも、西方が離反しても、帝国としての緩やかな連合は保たれ、ユーラシアには平和が訪れていた。1271年にクビライは元を国号として中国支配をすすめた。
南宋とモンゴルの関係
中国もまたモンゴル帝国の征服活動の例外ではなかった。当時、黄河が南流し、山東半島の南に流れていたため、漢民族は北方民族の攻勢を防げなかった。華北は満州系の女真族による金が、南部を南宋が支配していたが、金は1234年、南宋は1279年にモンゴル帝国に滅ぼされた。中国南部を支配していた南宋を1279年に元朝が滅ぼしたのはすでに見たとおりである。
元(モンゴル人の時代)
モンゴル人の中華支配
モンゴルの元朝の中国支配は、伝統的な中国王朝とは大きく異なっていた。モンゴル人は中国の伝統的な統治機構を採用せず、遊牧民の政治の仕組みを中国に移入したからである。元の支配階級の人々は、すでに西方の優れた文化に触れていたため、中国文化を無批判に取り入れることはなかった。それは政治においても同様だったのである。
それに伴い、伝統的な統治機構を担ってきた、儒教的な教養を身に付けた士大夫層は冷遇され、政権から遠ざけられた。そのため、彼らは曲や小説などの娯楽性の強い文学作品の執筆に携わった。この時代の曲は元曲と呼ばれ、中国文学史上重要なものとされる。また、モンゴル帝国がユーラシア大陸を広く支配したために、この時期は東西交易が前代に増して盛んになった。
元朝は、宮廷費用などを浪費しており、そのため塩の専売策や紙幣の濫発で収入を増やそうとした。しかし、これは経済を混乱させるだけであった。
漢民族の復興
モンゴル人の統治の下、庶民の生活は困窮だった。こうした中、各地で反乱が発生した。中でも最大規模のものは1351年に勃発した皇漢起義であった。紅巾党の中から頭角をあらわした朱元璋は、1368年に南京で皇帝に即位して明を建国した。同年、朱元璋は元朝の国都の大都を陥落させ、元の政府はモンゴル高原へと撤退した。撤退後の元朝のことを北元といい、明と北元はしばしば争った。明側は1388年に北元は滅んだと称しているが、実質的にはその後も両者の争いは続いた。
明・清帝国
明(最後の漢民族王朝)
鄭和の大航海
洪武帝(朱元璋)の死後、孫の建文帝が即位したが、洪武帝の四男である朱棣が反乱(靖難の変)を起こし、朱棣が永楽帝として皇帝になった。永楽帝は、モンゴルを攻撃するなど、積極的に対外進出を進めた。また、鄭和を南洋に派遣して、諸国に朝貢を求めた。この時の船が近年の研究によって長さ170m余、幅50m余という巨艦で、その約70年後の大航海時代の船の5倍から10倍近い船であったことが分かっている。
また、永楽帝によって現在に至るまで世界最大の宮殿である紫禁城が北京に築かれた。
永楽帝の死後、財政事情もあって、明は海禁政策をとり、貿易を著しく制限することとなる。このとき永楽帝を引き継いで、鄭和のようにずっと積極的に海外へ進出していれば、ヨーロッパのアジア・アフリカ支配も実現しなかっただろうと多くの歴史家は推測する。その後、モンゴルが再び勢力を強めはじめ、1449年には皇帝がモンゴルの捕虜になるという事件(土木の変)まで起きた。
陽明心学
銀経済の発展と北虜南倭
明代の後期には、メキシコや日本から大量の銀が中国に流入し、貨幣として基本的に銀が使われるようになった。そのため、政府も一条鞭法と呼ばれる税を銀で払わせる税法を始めた。また、清朝に入ると、人頭税を廃止し土地課税のみとする地丁銀制が始まった。また明清両代ともに商品経済が盛んになり、農業生産も向上した。中国南部沿岸には、倭寇と呼ばれる海上の無法者たちが襲撃を重ねていた。これは、海禁政策で貿易が自由にできなくなっていたためである。倭寇とモンゴルを併称して「北虜南倭」というが、北虜南倭は明を強く苦しめた。
明の滅亡
また、皇帝による贅沢や多額の軍事費用の負担は民衆に重税となって圧し掛かってきた。これに対し、各地で反乱がおき、その中で頭角をあらわした李自成が1644年に明を滅ぼした。
南明・鄭氏の抵抗
明の滅亡後、明の皇帝一族と遺臣によって南明が華中・華南で立てられたが、華北から南進してきた清朝によって短期間で滅ぼされた。南明の滅亡後も 鄭成功が台湾で東寧王国を建てて清朝に抵抗したが、こちらも短命に終わった。
清(最後の中華王朝)
満洲人の起源と中華支配
17世紀初頭には、満州でヌルハチが満州族を統一した。その子のホンタイジは満州と蒙古を征服し、1636年には蒙古人から元朝の玉璽を譲られ、清朝を建国した。李自成が明を滅ぼすと、清朝の軍隊は万里の長城を越えて中国本土へ進出し、李自成の軍隊を打ち破り旧明の遺臣を取り込みながら中国全土を支配下に置いた。
康乾盛世
17世紀後半から18世紀にかけて、康熙帝・雍正帝・乾隆帝という3人の賢帝の下で、清朝の支配領域は中国本土と中国東北地方・モンゴルのほかに、台湾・東トルキスタン・チベットにまで及んだ。
この清の支配領域が大幅に広がった時期は、『四庫全書』の編纂など文化事業も盛んになった。しかし、これは学者をこのような事業に動員して、異民族支配に反抗する暇をなくそうとした面もあった。
アヘン戦争と中国半植民地化の危機
18世紀が終わるまでには、清とヨーロッパとの貿易はイギリスがほぼ独占していた。但し、当時イギリスの物産で中国に売れるものはほとんどなく、逆に中国の安いお茶はイギリスの労働者階級を中心に大きな需要があったこともあり、イギリスは貿易赤字に苦しんだ。そこで、イギリスは麻薬であるアヘンを中国に輸出し始めた。結果、イギリスは大幅な貿易黒字に転じ、中国にはアヘン中毒者が蔓延した。この蔓延を重く見た清朝政府は、1839年に林則徐に命じてアヘン貿易を取り締まらせた。しかし、これに反発したイギリス政府は清に対して翌1840年宣戦布告した。アヘン戦争と呼ばれるこの戦争では、工業化をとげ、近代兵器を持っていたイギリス軍が勝利した。これ以降、イギリスを初めとするヨーロッパの列強は清に対し、治外法権の承認、関税自主権の喪失、片務的最恵国待遇の承認、開港、租借地の設置といった不平等条約を締結させ、中国の半植民地化が進んだ。また、不平等条約締結の過程で清は、外満州やトルキスタン、香港島・九龍半島、マカオ等の自国支配地域を列強に割譲させられた。
国内的には、太平天国の乱などの反乱もしばしば起きた。これに対し、同治帝(在位1861年 - 1875年)の治世の下で、ヨーロッパの技術の取り入れ(洋務運動)が行われた。
日清戦争と光緒新政
1894年から翌1895年にかけて清と日本との間で行われた日清戦争にも清は敗退した。これは洋務運動の失敗を意味するものであった。この戦争の結果、伊藤博文・陸奥宗光の日本と李鴻章を代表とする清朝との間で下関条約が結ばれ、清は台湾を日本へ割譲した他、李氏朝鮮の独立を認めた。これにより、中国の歴代王朝が長年続けてきた冊封体制が崩壊した。
その後、清朝は改革を進めようとしたものの、沿岸地域を租借地とされるなどのイギリス・フランス・ロシア・ドイツ・アメリカ合衆国・日本による半植民地化の動きは止まらなかった。
清王朝の終焉
辛亥革命
1911年10月の武昌での軍隊蜂起をきっかけに辛亥革命が起こり、華中、華南を中心とした各省が清からの独立を宣言した。11月袁世凱が清国内閣総理大臣に就任し、革命軍の鎮圧にあたった。12月革命軍側が、南京を占領する。同月、清国政府と独立各省との間に停戦が成立した。翌1912年1月1日、革命派の首領の孫文によって南京で中華民国の樹立が宣言された。これにより、中国は北京の清国政府と南京の中華民国政府の南北両政府並立状態となる。清朝政府の袁世凱及び南京政府の臨時参議院の意向により、北京にいた清朝皇帝・溥儀(宣統帝)は2月12日に退位し、清朝と共に中華帝国は終焉した。3月10日には、南京政府の合意の元で袁世凱が中華民国臨時大総統に就任した。
少数民族の動向
辛亥革命により清国が消滅すると、その旧領を巡って中華民国(中国)と西蔵(チベット)・外蒙古(モンゴル)・新疆(東トルキスタン)の各勢力の間で対立が発生した。
中華民国は、清の継承国として滅亡時点の旧清領全域の領有権を主張した。これに対して、西蔵・外蒙古・新疆は、自分たちは清朝の皇帝に服属していたのであって中国という国家に帰属するものではなく、服属先の清帝退位後は中国と対等の国家であると主張してそれぞれ自領域の独立を目指す動きを強めた。
チベットの独立運動
当時のチベットの中心地だったポタラ宮では、ダライ・ラマを補佐していたパンチェン・ラマが親中的であったために、イギリスに接近するダライ・ラマに反発し、1925年に中国へ亡命した。1933年にダライ・ラマ13世が死去すると、中国の統治下にあったチベット東北部のアムド地方(青海省)で生まれたダライ・ラマ14世の即位式典に国民政府の使節団が列席したが、式典が終了した後も蒙蔵委員会駐蔵弁事處を自称してラサに留まった。1936年には、長征中の中国共産党の紅軍がカム地方東部(西康省)に滞留中、同地のチベット人に「チベット人民共和国」(博巴人民共和国)を組織させたが、紅軍の退出とともに、ほどなく消滅した。
モンゴルの独立成功
1913年、モンゴルではボグド・ハーンによって、チベットではダライ・ラマ13世よって中国からの独立が宣言され、両者はモンゴル・チベット相互承認条約を締結する等国際的承認を求め、これを認めない中華民国とは戦火を交えた。この状況は、モンゴル域への勢力浸透をはかるロシア、チベット域への進出をねらうイギリスの介入を許し、モンゴルについては蒙・露・中華民国でキャフタ協定を調印・批准して一応の解決ができた。だが、チベットについては、西・英がシムラ条約を調印・批准したものの中華民国調印を拒否した為に問題の解決には至らなかった。
この問題は最終的に、モンゴルについては外蒙古部分のみの独立を1946年に国民政府が承認することによって、チベットについては1951年締結の十七ヶ条協定によってチベットの独立否定とチベット人の自治権確保をガンデンポタンと中華人民共和国が確認した事によって、一応の決着をみた。
東トルキスタンの動乱
東トルキスタン(新疆)では、19世紀中に統治機構の中国化が達成されていた。即ち、旗人の3将軍による軍政と地元ムスリムによるベク官人制に代わり、新疆省を頂点として省内を府、州、県に行政区画した各地方に漢人科挙官僚を派遣して統治する体制である。そのため、辛亥革命時、東トルキスタンでは地元ムスリムがチベットやモンゴルと歩調をあわせて自身の独立国家を形成しようとする動きはみられず、新疆省の当局者達は速やかに新共和国へ合流する姿勢を示した。
この地では、楊増新が自立的な政権を維持し、またソビエト連邦と独自に難民や貿易の問題について交渉した。楊増新の暗殺後は金樹仁が実権が握ったが、彼は重税を課して腐敗した政治を行った為、1931年には大規模な内乱状態に陥った。その後金樹仁の部下であった盛世才が実権を握るようになり、彼はソ連に倣った政策を打ち出して徐々に権力を強化した。一方で、ウイグル人が主体となって1933年~1934年と1944年~1946年に東トルキスタン共和国の独立が宣言されたが、いずれも新疆省内の一部地域を支配するに止まった。












