シルクロード(絹の道)とシルクロード観光スポット
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シルクロード(絹の道、Silk Road, Seidenstraße, 絲綢之路, 丝绸之路)は、中国と地中海世界の間の歴史的な交易路を指す呼称である。
絹が中国側の最も重要な交易品であったことから名付けられた。
その一部は2014年に初めて「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」としてユネスコの世界遺産に登録された。






「シルクロード」という名称は、19世紀にドイツの地理学者リヒトホーフェンが、その著書『China(支那)』(1巻、1877年)においてザイデンシュトラーセン(ドイツ語:Seidenstraßen;「絹の道」の複数形)として使用したのが最初であるが、リヒトホーフェンは古来中国で「西域」と呼ばれていた東トルキスタン(現在の中国新疆ウイグル自治区)を東西に横断する交易路、いわゆる「オアシスの道(オアシスロード)」を経由するルートを指してシルクロードと呼んだのである。


シルクロードの中国側起点は長安(陝西省西安市)、欧州側起点はシリアのアンティオキアとする説があるが、中国側は洛陽、欧州側はローマと見る説などもある。日本がシルクロードの東端だったとするような考え方もあり、特定の国家や組織が経営していたわけではないのであるから、そもそもどこが起点などと明確に定められる性質のものではない。
現在の日本でこの言葉が使われるときは、特にローマ帝国と秦・漢帝国、あるいは大唐帝国の時代の東西交易が念頭に置かれることが多いが、広くは近代(大航海時代)以前のユーラシア世界の全域にわたって行われた国際交易を指し、南北の交易路や海上の交易路をも含める。つまり、北方の「草原の道(ステップロード)」から南方の「海の道(シーロード)」までを含めて「シルクロード」と呼ばれるようになっているわけである。


「草原の道」
中国から北上して、モンゴルやカザフスタンの草原(ステップ地帯)を通り、アラル海やカスピ海の北側から黒海に至る、最も古いとみなされている交易路。この地に住むスキタイや匈奴、突厥といった多くの遊牧民(騎馬民族)が、東西の文化交流の役割をも担った。
モンゴルのツァヒアギーン・エルベグドルジ大統領が同名の中露蒙経済回廊を提唱していることでも知られている。

「オアシスの道」
東トルキスタンを横切って東西を結ぶ隊商路「オアシスの道」が、リヒトホーフェンが名付けたところの「シルクロード」である。長安を発って、今日の蘭州市のあたりで黄河を渡り、河西回廊を経て敦煌に至る。
ここから先の主要なルートは次の3本である。西トルキスタン(現在のウズベキスタン、トルクメニスタンなどを含む地域)以西は多数のルートに分岐している。このルート上に住んでいたソグド人が、シルクロード交易を支配していたといわれている。東トルキスタンの興亡史については、「西域」「楼蘭」「ホータン王国」「中国の歴史」などを参照のこと。


- ◆西域南道
- 敦煌からホータン、ヤルカンドなどタクラマカン砂漠南縁のオアシスを辿ってパミール高原に達するルートで、漠南路とも呼ばれる。オアシスの道の中では最も古く、紀元前2世紀頃の前漢の時代には確立していたとされる。
このルートは、敦煌を出てからロプノールの北側を通り、楼蘭を経由して砂漠の南縁に下る方法と、当初からロプノールの南側、アルチン山脈の北麓に沿って進む方法とがあったが、4世紀頃にロプノールが干上がって楼蘭が衰退すると、水の補給などができなくなり、前者のルートは往来が困難になった。 ▲玄奘三蔵
距離的には最短であるにもかかわらず、極めて危険で過酷なルートであるが、7世紀に玄奘三蔵はインドからの帰途このルートを通っており、楼蘭の廃墟に立ち寄ったと『大唐西域記』に記されているので、前者のルートも全く通行できない状態ではなかったものとみられる。 ▲マルコ・ポーロ
13世紀に元の都を訪れたマルコ・ポーロは、カシュガルから後者のルートを辿って敦煌に達したとされている。- 現在のG315国道は、部分的にほぼこの道に沿って建設されており、カシュガルからホータンまでは、2011年に喀和線が開通している。
◆天山南路(西域北道)
- 敦煌からコルラ、クチャを経て、天山山脈の南麓に沿ってカシュガルからパミール高原に至るルートで、漠北路ともいう。西域南道とほぼ同じ頃までさかのぼり、最も重要な隊商路として使用されていた。
このルートは、楼蘭を経由してコルラに出る方法と、敦煌または少し手前の安西からいったん北上し、ハミから西進してトルファンを通り、コルラに出る方法とがあったが、楼蘭が衰退して水が得られなくなると、前者は通行が困難になった。 - 現在トルファンとカシュガルを結んでいる南疆線は、概ね後者のルートに沿って敷設されており、1971年に工事が始まり、1999年に開通した。G314国道も部分的にほぼこの道に沿っている。

- ◆天山北路
- 敦煌または少し手前の安西から北上し、ハミまたはトルファンで天山南路と分かれてウルムチを通り、天山山脈の北麓沿いにイリ川流域を経てサマルカンドに至るルートで、紀元後に開かれたといわれる。砂漠を行く上記ふたつのルートに比べれば、水や食料の調達が容易であり、平均標高5000mとされるパミール高原を越える必要もない。
- 現在のG312国道や蘭新線、北疆線は、部分的にほぼこの道に沿っている。

「海の道」
中国の南から海に乗り出し、東シナ海、南シナ海、インド洋を経てインドへ、さらにアラビア半島へと至る海路は「海のシルクロード」とも呼ばれる。海のシルクロードの起点は福建省泉州市。 ▲青い線が海の道
すでにプトレマイオス朝の時代からエジプトは紅海の港からインドと通商を行っており、エジプトを征服した古代ローマ(共和政ローマ、ローマ帝国)はこの貿易路も継承して、南インドのサータヴァーハナ朝との交易のために港湾都市アリカメドゥ(現ポンディシェリ近郊のポドゥケー遺跡)などいくつかの商業拠点を築き(『エリュトゥラー海案内記』も参照)、絹を求めて中国にまで達したことは中国の史書にも記されている。
このルートでセイロン(獅子国)やインド、ペルシアの商人も中国に赴いたのである。しかし、陸のシルクロードが諸国の戦争でしばしば中断を余儀なくされたのと同様、海のシルクロードも荒天や海賊の出没、各国の制海権の争奪などによって撹乱され、必ずしも安定した交易路とはいえなかった。7世紀以降はペルシアの交通路を継承したイスラム商人(アラブ人、ペルシア人等の西アジア出身のイスラム教徒商人)が絹を求めて大挙中国を訪れ、広州などに居留地を築く。中国のイスラム教徒居留地は、唐末に広州大虐殺や黄巣の乱によって大打撃を受け、一時後退した。
宋代になると再び中国各地(泉州市、福州市など)に進出し、元代まで続いた。元のクビライ・ハーンは東シナ海、南シナ海からジャワ海、インド洋を結ぶこの貿易路で制海権を握るために日本(元寇)や東南アジアに遠征軍を次々とおくった。
明は朝貢貿易しか認めない海禁政策を取り、鄭和艦隊で知られるように、海上交易路を海賊から保護した。鄭和はアフリカのマリンディまで航海している。

その後インド洋は、オスマン帝国・マムルーク朝・ヴェネツィア共和国が制海権を握っていたが、16世紀に喜望峰経由でポルトガルが進出し、1509年のディーウ沖海戦で敗れたため、イスラム商人の交易ルートは衰えた。
1622年、イングランド王国・サファヴィー朝ペルシア連合軍が勝利した(ホルムズ占領)のを皮切りに、1650年にはヤアーリバ朝(現オマーン)がインド洋の制海権を握り、ポルトガルとスペインの商人が追放された。また中近世以降は、中国から大量の陶磁器が交易商品となったので「陶磁の道」とも称された。
19世紀に、1809年ペルシャ湾戦役の結果、イギリスが制海権を握った。
中華人民共和国は真珠の首飾り戦略から制海権を握ることを目指しているとされ、この貿易路を「21世紀海上シルクロード」と呼称している。
◆シルクロードと日本日本には、奈良の正倉院に中国製やペルシア製の宝物が数多く残っており、天平時代に遣唐使に随行してペルシア人の李密翳(り・みつえい)が日本に来朝したことに関する記録なども残されている。

当時の日本は唐代の東西交通路の東端に連なっていたと認識されており、摂津国の住吉津(現在の大阪市住吉区)は「シルクロードの日本の玄関」、飛鳥京や平城京は「シルクロードの東の終着点」と呼ぶことがある。なお、ユーラシア交易と直接的な関係はないが、幕末から明治にかけて、日本の主要な輸出品であった絹を横浜港に運ぶ交易路が存在し、その集積地があった八王子から横浜にかけての道が「絹の道」や「シルクロード」と呼ばれることもある。
シルクロードに関しては近年の日本における学校教育でも取り上げられていたが、歴史やヘディンの著書などに関心を持つ一部の人たち以外には、さほど興味を引く存在ではなかった。しかし、中華人民共和国との文化交流が進む過程でNHKが中国中央電視台とともに1980年に共同制作した『NHK特集 シルクロード-絲綢之路-』によって、喜多郎のノスタルジックなテーマ音楽とともに、一躍シルクロードの名が広く知れ渡ることとなった。
日本ではシルクロードという語は独特のエキゾチシズムやノスタルジアと結びついており、西安や新疆、ウズベキスタン、イラン、トルコなどへの海外旅行情報やツアーの広告には必ずと言ってよいほど「シルクロード」という言葉が記されている。
この80年代の「シルクロードブーム」を受け、1988年に日中両政府は日中友好環境保護センターの設立を決定した。また、シルクロードの世界遺産登録をユネスコに中国政府とともに働きかけた平山郁夫は平山郁夫シルクロード美術館を設立している。
平山郁夫シルクロード美術館公式サイト
◆シルクロードの観光

◆シルクロード観光ルート
◆◆◆河西回廊◆◆◆
甘粛省(かんしゅくしょう)の蘭州を流れる黄河の西を指す「河西回廊(かせいかいろう)」。
蘭州・武威(ぶい)・張掖(ちょうえき)・酒泉(しゅせん)・嘉峪関(かよくかん)など、砂漠の中に栄えたオアシス都市が結ぶ文化や宗教を運んだロマンの道。
西安 シルクロード始まりの街
【兵馬俑坑】
兵馬俑は、始皇帝の陵墓を守るために製作された兵士や軍馬の等身大の素焼き陶器。全部で約8,000体もある兵馬は髪形や服装など実際の兵士をモデルとして、丁寧に彩色され、それぞれ姿勢や表情が異なっている様は壮観。
【大雁塔】
大雁塔は652年の創建で四角7層、高さ64m。もともと玄奘三蔵がインドから持ち帰ったサンスクリット経典や仏像を保管するために造られたと言われている。頂部からは西安市内を一望できる、西安のシンボル。
蘭州 甘粛省最大の都市
【炳霊寺石窟】
炳霊寺石窟は黄河の岸壁に沿って作られた石窟。モーターボートにのり、石窟見学へ。黄河と石窟の奇観が溶け合い、いかにも中国らしい景色を楽しむことが出来る。 武威 文化と歴史の行きかう街
【雷台漢墓】
武威では、西域の高僧・鳩摩羅什が滞在するなど文化の中心としても栄えた。その中で最もすばらしい造形物が雷台漢墓の銅奔馬であり、そのレプリカが保管されている。

【西夏博物館】
仏教の経典や西夏時代の文物が展示されている。最も有名なのは西夏文碑。石碑の片側が西夏文字、反対側が漢字で刻まれている。
張掖 シルクロード交易の中心地
【万寿寺木塔】
万寿寺木塔は582年に創建された高さ33mの木塔。現在は1925年に再建されたものだが、木組みの塔で、1本も釘を使っていない当時の建築技術もうかがい知れる貴重な塔。
嘉峪関 河西回廊の喉元
【嘉峪関】
嘉峪関は明代に築かれた「万里の長城」の西端にあたり、そこからはるか地平線まで延びる城壁を見るとその壮大さを感じることができる。
敦煌 シルクロードの東西の交差点
敦煌はタリム盆地、ゴビ、ツァイダム盆地に祁連山脈に囲まれたシルクロードのオアシス都市。
紀元前には月氏や匈奴に支配され、前漢代には西域への軍事拠点として、西涼、北魏には河西四郡のひとつ「沙州」として栄えた。砂漠の大画廊として有名な「莫高窟」、かつての関所跡「玉門関」、「陽関」など数多くの見所が残されている。
【莫高窟】
莫高窟は1987年年に世界遺産に登録された、中国三大石窟一つ。5世紀から1000年以上にわたり造営が続けられ、現在492の窟が確認されています。壁画の面積は4万5,000平方メートル、並べると30kmにもなると言われ、『沙漠の大画廊』とも呼ばれています。
【鳴沙山と月牙泉】
鳴沙山から月牙泉まで、ラクダに乗って砂漠を散策することもできるので、シルクロードならではの“月下の沙漠を歩く隊商”を体験することができる。月牙泉は、鳴沙山の谷間に湧き出た泉で、枯れたことがないオアシスと言われ、三日月(中国語で“月牙”)の形をしていることから名付けられた。

【玉門関】
敦煌市内から西北に80km。東西24m、南北264m、高さ9,7m。西・北面に門が設けられている。前漢の武帝の時代に西域北道への関所として、長城とともに築かれた。
「玉門関」の名前は、新疆ウイグル自治区のホータンで産出された「玉石」がここを通り、中国へ入ってきたことに由来し、スタインが「玉門都尉」と記載された木簡を発掘したことから史書に記載された遺跡であることが特定された。漢代に西域に汗血馬をもとめた李行利が遠征に失敗し、玉門関まで戻ってきた際に武帝が怒りのあまり門を閉じたというエピソードは有名。
【陽関】
敦煌市内から西北に75km。玉門関の南(陽)に位置することから陽関と呼ばれる。
西域南道への関所として築かれ、唐代の詩人・王維が「君に勧む 更に尽くせ 一杯の酒 西のかたの陽関を出ずれば故人なからん」と謳っている。かつての門の跡はなく、漢代の烽火台が残されている。
【漢代の長城】
西は玉門関の西方から疎勒河の南岸に沿って延々と築かれた漢代の長城。
2000年にわたって風触されたため現在残された部分は少なく、玉門関付近で最も保存状態の良い長城を見ることができる。砂と葦や紅柳、胡柳を層にして固め、間に烽火台がつくられた。
【西千仏洞】
敦煌市内から西南に35km。党河の北側に北朝から西夏代まで19の石窟が現存している。
壁画と塑像は莫高窟と同系列だが、破損が多く保存状態は莫高窟に劣る。
【楡林窟】
瓜州(旧:安西)市内から南に70km。開削年代ははっきりしていないが、25窟の「光化三年」との記載から唐代の開削とされている。
東崖に30窟、西崖に11窟の計41窟の石窟に仏陀・菩薩・仏教説話、供養人・官僚・庶民などの現実世界を反映させた壁画、100体余りの彩色塑像が残されている。
楼蘭 シルクロードの幻の王国
西域北道、西域南道の分岐点
「楼蘭」の名前が始めて歴史上に現れたのは、司馬遷の「史記」の「匈奴伝」。 紀元前176年、匈奴の冒頓単于が前漢の文帝に送った親書に「楼蘭以下二十六国を完全支配下に収めた」と記したことを伝えている。今から二千年以上も前のことである。
西域北道、西域南道の分岐点に位置していた楼蘭は、砂漠の中のオアシス都市として繁栄を極め、紀元前七十七年に漢に降伏し「ピチャン」と国名を変えた後も漢の「西域三十六国」を治める軍事拠点として栄えた。
中国の僧・法顕が仏典を求めてインドへ旅する途中、ちょうど400年前にこの楼蘭へ立ち寄り、当時は小乗仏教を篤く信仰し、4000人もの僧侶がいたことを伝えています。しかしその250年後、玄奘三蔵がインドから唐へと帰国する途中、644年に至った時には全くの廃墟となっていた。
「城郭あれど、人煙なし」。「大唐西域記」において玄奘はこのように簡潔に記している。これ以後、楼蘭は歴史から全く消え去り、幻の王国となった。
楼蘭を再び蘇らせたのは、地理上の「空白地帯」へと向かった各国の探険家たちだった。1901年に楼蘭はヘディンによって発見され、その後もスタイン、大谷探検隊によって調査された。当事の旅は、ラクダのキャラバン隊を組み、方位磁石を持って、時にはカラ・ブランと呼ばれる砂嵐に何日も閉じ込められ、時にはルートを失い水も枯渇して荒涼とした砂漠の中をすすむという厳しい旅だった。「砂漠の中はしばしば悪鬼、熱風現れ、これに遭えばみな死んで、一人も無事なものがいない。空には飛ぶ鳥もなく、地には走る獣もいない。見渡す限りの砂漠で行路を求めようとしても拠り所がなく、ただ死人の枯骨を標識とするのみである・・・」これは、法顕が楼蘭周辺について触れたくだりだが、20世紀初頭の探検家たちも同様に命がけの過酷な旅であったことが偲ばれる。
楼蘭遺跡へのルート
楼蘭遺跡へのルートは、コルラからや米蘭遺跡からなどいくつかルートがある。
その中でも、西域へと通じる漢代に築かれた玉門関を出発し、楼蘭へ行くルートは、かつてシルクロードへと出発した商人や求法僧も辿った道である。道中には、砂ばかりの砂漠ではなく、変化に富んだ景観をみることができる。
【玉門関】
漢の西端に位置した関所跡。ここから西は漢の支配の及ばない西域。冒険旅行のスタート地点。 【魔鬼城】
玉門関の西北約100km。ヤルダン地形広がる景勝地。2003年に「敦煌ヤルダン国家地質公園」としてオープンした。
【白龍堆】
白い岩塩の塊が点在するアルカリ地形。何千年もの歳月をかけて風によって侵食された独特の景観。石灰質の地層が表面に表れ、まるで白い龍が横たわっているようだと言われたことから「白龍堆」と呼ばれている。

【龍城】
ロプノールの北岸の高台に位置するヤルダン群。ヤルダンの大きさは6mから12m。 【土根遺跡】
ロプノールの北岸に位置する食糧貯蔵地、屯田地。1930年に中国人考古学者・黄によって発掘された。 【ロプノール湖 塩の採掘場】
中国随一の採塩所。
楼蘭遺跡
【大仏塔】
原形はスタインの計測により17m。風化で頂上部が破損、修復されている。仏塔の前は、高級住宅のあとで長さ218m、4室に分かれていたとされている。ここからは、漢文書、カロシュティ文書が発掘されており、行政官の住居とされている。
【三間房】
日干しレンガをつみかさねた3つの小部屋が残ることから三間房と呼ばれている。ここからは大量の漢文書が発見され、役所跡とされている。有名な大谷探検隊発掘の「李柏文書」はここから発掘されたといわれている。
【楼蘭の住居跡】
乾燥した砂漠の中では、胡柳の木も腐ることなく残っている。 一般人の住居跡では、今も猶かつてを偲ばせる胡楊の柱など見ることができる。
◆◆◆西域シルクロード◆◆◆
ウルムチ(烏魯木齊)
シルクロード天山山脈の北麓のオアシス
西域最大の都市ウルムチは、新疆ウイグル自治区の首府。天山山脈の北麓、ジュンガル盆地の南端に位置する標高924mの都市。
人口208万人、漢民族のほかにもウイグル族、回族、カザフ族、モンゴル族など49の少数民族が暮らしています。現在、ソウル、イスラマバードや中央アジア諸国とも国際航路が結ばれ、国際都市としても発展してきたシルクロード探訪の拠点となる町。
ウルムチは美しい牧場を意味し、古くから遊牧が営まれた。
【天池】
ウルムチ市内から北東に110km。ウイグル語で「聖なる山」を表すボゴダ峰(5,445m)の中腹の標高1,980mにある高山湖。
万年雪のボゴダ峰の白と湖のエメラルドグリーンのコントラストが非常に美しく、「中国のスイス」とも呼ばれ中国全土からの観光客で賑わっている。喧騒のウルムチ市内とは打って変わったみずみずしい夏のリゾートとして人気がある観光スポット。
天池では馬や遊覧船に乗ったり、カザフ族の民族衣装を着ることも出来る。
【ウイグル自治区博物館】
2005年9月20日に再オープンした地上2階建て、広さ17,288㎡、4万点を越える文物を所蔵する新疆ウイグル自治区最大の博物館。
少数民族の衣服や住居など展示する「民俗陳列庁」、石器時代から現在まで文物を時代に沿って展示する「歴史陳列庁」がある。「ミイラ陳列庁」では、楼蘭美人を呼ばれる紀元前1200年前のタクラマカン砂漠のハミ出土のミイラも展示されています。

【風力発電所】
新疆ウイグル自治区では、あちこちで風力発電所が見られ、ウルムチからトルファンに向かう道の途中にも大規模な風力発電所地帯がある。この地域は山に挟まれ年間を通じて強い風が吹く場所として有名で、風車は400台以上もある。
新疆ウイグル自治区では石油の埋蔵が確認されていますが、中国はエネルギー不足の解消のため、風力発電とその開発にも力を入れている。
トルファン(吐魯番)
シルクロードにひときわ輝く宝石
シルクロードのオアシス都市で最も海抜の低い盆地で、天山山脈の雪溶け水に潤された葡萄の実る町。火焔山、高昌故城、ベゼクリク千仏洞など観光名所がたくさん点在している。ウルムチから所要2時間30分とアクセスの良さと見所の多さから観光客に人気がある町。トルファン盆地は夏の暑さでも有名。中心街から少し出るとウイグル族の葡萄農家が点在している。
【ベゼクリク千仏洞】
トルファンから東へ59km、火焔山北麓の河岸の断崖に掘られた石窟寺院。ベゼクリクは「装飾された家」の意味。残存する壁画は今も色鮮やかで古代の西域人の風俗や特徴などがよくうかがえる。
麹氏高昌国の6世紀からつくり始められ、元代まで続けられました。最盛期は9世紀の高昌ウイグル王国の時代。現存する83の窟は多くはこの時代に造られましたが、現在見学可能な窟は6窟。20世紀始めにドイツのルコック調査隊が壁画を本国に持ち帰ったために、仏像や壁画はその一部のみしか残っていない。

【高昌故城】
トルファン市内から南東へ45kmにある高昌国の王城跡。紀元前1世紀の漢代から13世紀にモンゴル軍により滅ぼされるまでの間、新疆における政治・経済・文化の中心地の一つだった。
大きさは東西1,600m、南北1,500mのほぼ正方形で、内部は宮城、内城、外城の三つの部分から構成され、現存する遺跡には日乾しレンガが使われている。仏塔跡には仏巌も残っており、かつて玄奘三蔵がインドへ仏典を求める旅の途中に、国王・麹文泰の勧めで説法をしたという伝説が偲ばれる。遺跡中心部へは約3km、馬車か電動カートで訪問する。
【火焔山】
トルファン盆地の中部にあり、平均海抜は約500m、全長は約100km、幅は平均10km。最高峰は勝金口近くの851m。極度の乾燥地帯で、夏には地表から立ち上がる陽炎によって燃え上がる炎のように見えるので「火焔山」とよばれるようになった。「西遊記」では孫悟空が鉄扇公主と戦う舞台とても有名。
2006年7月31日午後3時ごろ火焔山の地表気温が70度近くまで達したとのニュースが報じられたことがある。

【アスターナ古墳】
トルファン市内から南東へ36km。6~7世紀に栄えた麹氏高昌国時代の唐代の西州の墓地群。家族ごとに埋葬されていて、石で境界線が定められている。
どの墓も地中に傾斜した墓道と土洞の墓室からなり、内部からは大量の陶器、文書、絹織物、泥人形など約3000が出土した。全体で500基に及ぶ墳墓が発掘されているが、現在見学可能な墓は以下の3基のみ。210号(夫婦のミイラが現存している)、215号(新疆地方では見られない鴨や花の壁画が描かれているので、おそらく南方地方の商人の墓と考えられる)、216号(金人、石人、木人などの儒教の教えが描かれている)。

【交河故城】
トルファン市内から西へ16㎞。前漢時代の車師前国の都で屯田地として辺境防衛の重要地であった都市遺跡。 唐代になると都は高昌国に移るが、引き続き安西都護府とよばれる軍事基地が設置された。
現存する遺跡は高さ30mの断崖上の台地に位置しており、南北1km、東西300mの規模がある。遺跡入口には展示室があり、交河故城の模型が置かれている。遺跡見学前に見ておくと全体の様子がよく理解できる。遺跡内には日陰がほとんどないので帽子や水を忘れずに。

【蘇公塔】
蘇公塔はトルファン東南郊外にあり、1777年当時の王スレイマンが父のために建設したもの。塔の高さは37m(44mという説もあり)、塔の底部直径は10mある。レンガ造りの塔は波紋様、花びら紋様など15種類の紋様があり、新疆のイスラム建築として他にない美しさを持っている。公園内は花が植えられ整備され、周辺には葡萄畑が広がっている。 【カレーズ】
カレーズとはペルシャ語で「地下水」を意味するように、今から2000年ほど前に西アジアから伝わった技術。
天山山脈の雪解け水を堰き止めて、縦井戸と地下水道をつないでオアシスまで引き込み、生活水や畑の灌漑水として利用している。縦井戸の深さはオアシス近くでは3m程度だが、山に近い場所では70m位の深さにもなる。長さは通常3~4km程度だが、10kmほどのものもある。
砂漠地帯ではカレーズの縦穴の地表に突き出ている様子が見られる他、トルファン郊外のカレーズ民俗園ではカレーズの仕組みが理解できるよう展示されている。
【トルファンの葡萄】
トルファンの葡萄栽培の歴史は2000年前に遡るともいわれ、その収穫は新疆一。品種は何百もあり、その中でも良質なものとして白葡萄、馬乃子、紅葡萄など十数種が上げられる。 葡萄溝は火焔山西側の峡谷にあり、長さ8km、幅500~2000mにわたり、広大な葡萄園が広がっている。夏の間は葡萄の収穫、そして干し葡萄を作る作業が見られる。町から少し足を伸ばすと葡萄栽培をするウイグルの農家があり、民家の入り口を除くと奥から葡萄園へつながり、2階には葡萄を乾かす乾燥室を持った家もたくさんある。ワインも有名。トルファンの滞在中に一度は試してみたい。

ピチャン(鄯善)とハミ(哈密)
天山山脈の西に位置する町。
町の規模は大きくはないが、中国で最長の上海からイリまで続く国道312号線上に位置し、ウルムチから敦煌までの移動途中に立ち寄ることができる。
【ピチャン】
ウイグル族、漢民族、回族など19の民族が住むトルファン盆地の56%を占めるピチャン。
有名な楼蘭王国が紀元前77年に改名したあとの地名も「ピチャン」だったが、現在のこの地をピチャンと呼ぶようになったのは17世紀以降。
トルファンから90km、ウルムチから280km離れており、かつては東西貿易の通貨地点として栄えた。見所は多くないが、葡萄やハミ瓜の生産地として有名。 郊外の沙山公園では、クムターグ砂漠の北端の砂丘を見学することができる。

【ハミ】
ハミは甘粛省と接する東部の町。天山北路の要衝として栄え、メロンの様なハミウリの産地として有名ですが、実際は、このハミウリはハミではなくピチャンの名産品。
清朝にウイグル族の政権として約200年の間この地を統治したハミ王国の王墓群・ハミ王陵や唐代のイスラム教伝道師ケイスを祀ったケイス廟、ハミ周辺で出土した文物やミイラなどを展示したハミ地区博物館がある。



◆◆◆天山南路◆◆◆
クチャ(庫車)
亀茲国(きじこく)と呼ばれ東西貿易の中継地
後漢時代には「西域都護府」が、唐代には「安西都護府」が置かれたシルクロードのオアシス都市。かつては亀茲国(きじこく)と呼ばれ東西貿易の中継地として繁栄していた。
クチャ周辺には多くの仏教遺跡が残り、名僧・鳩摩羅什ゆかりの地、西域の代表的音楽の亀茲楽発祥の地でもあります。北に天山山脈をのぞみ、南はタクラマカン砂漠と接し、現在は天山南路の幹線道路上に位置している。
【キジル千仏洞】
キジル千仏洞は、中国で最も早く開かれた敦煌・莫高窟に匹敵する石窟寺院。クチャ西北75kmの拝城県に位置し、ムザト川沿いに3.2kmにわたって開削され、現在、236窟が確認されている。 3世紀頃から作られ始め、8世紀末ごろに放棄されたと言われている。そのうち172窟が仏殿で64窟が僧房窟。塑像は破棄されてしまい、ほとんど残っていませんが、現存する壁画の素晴らしさは新疆一。壁画の題材は、釈迦の誕生から涅槃までの仏伝図、釈尊の生前の物語(本生物語)と古代西域の各民族の人々の風俗画など。そのなかでも38窟(音楽洞)で見られる西域の楽器郡は、日本の正倉院にも伝来したものであることが判る。

【スバシ故城】
クチャから北へ23km。天山山脈のチュルタク山麓のクチャ川を挟んで東寺と西寺が残っている(通常は西寺のみ見学可能)。
魏晋時期に創建され、唐代には亀茲国最大の寺院、玄奘が記した「大唐西域記」に登場する「昭怙麓大寺」と言われている。仏塔跡や講堂跡などが現存しているが、木簡、銀貨、仏像などの出土品より亀茲国の繁栄ぶりが偲ばれる。

【クズルガハ烽火台】
クズルガハ土塔はクチャの北15kmの旧領上にある烽火台の遺跡。クズルガハとはウイグル語で「赤い嘴のカラス」という意味。
この烽火台は漢代の軍事建築物で15kmおきに造られ、非常時の際に都へ急を知らせるための施設だった。現存する塔の高さは約16m。
【クムトラ千仏洞】
ムザト川の下流にあり「下の千仏洞」とも呼ばれている。
現在112の洞窟が存在し、大部分は唐代のものだが、南北朝時代まで遡る石窟もある。クムトラ千仏洞の壁画は西方の文化や中原地方の文化の影響だけでなく、その地方独特の技術的特徴を帯びている。内壁や外壁には僧侶の名前や言葉が古代文字で大量に記されており、これらはクチャ(亀茲)の歴史文化を研究する上で貴重な資料となっている。

カシュガル(喀什)
中央アジアと中国を結ぶ要衝
古くからシルクロードの貿易地であり、中央アジアと中国を結ぶ要衝として発展してきた。
漢代には西域三十六国のひとつインド・ヨーロッパ語族系の白色人種が住む疏勒国の国都として栄え、唐代に安西都護府の支配化に入った。当時この地を訪れた玄奘の記録では仏教が盛んであったと記されている。9世紀には天山山脈北方よりウイグル族が侵入して混血したことで、この地の言語はトルコ語化する。そして10世紀にはパミー ル高原を越えてカラハン朝の勢力が及び、イスラム教に改宗する住民が多くなった。
ウイグル族が人口の80%を占める民族色豊かな町カシュガルは、現在でもカラコルムハイウェイでパキスタン北部と新蔵公路で西チベットと結ばれる交通の要衝である地位は変わりない。
【エイティガル・モスク】
カシュガル市の中央広場にある新疆自治区最大のイスラム教寺院。創建は明代の15世紀、現在の規模になったのは1872年の清代です。正門の左右には高さ18mのミナレットがそびえ、毎朝アザーンが聞こえる他、毎週金曜日の礼拝時には多くのイスラム教信者で賑わう。

【ウィグル旧市街と職人街】
エイティガール寺院の裏手には、職人街があり、道路の両側には工房を兼ねた店が建ち並ぶ。靴・帽子・木工細工・楽器・金属製品など、少数民族の人達の生活に必要なもののほとんどが職人の手によって作られていく様子を見ることができる。

【香妃墓】
17世紀にカシュガルを支配したアパク・ホージャ一族の墓を納めた廟とモスク。
香妃はアパク・ホージャの孫でヤルカンド生まれ、26歳の時に清朝の乾隆帝に召され、北京の宮廷で28年間過ごした後亡くなった。 「香妃」という名前は、香水もつけないのに彼女の身体からはいつも砂ナツメの花のかぐわしい香りが漂っていたという言い伝えからつけられた。彼女の遺体は河北省の清東陵に眠っているが、カシュガルの人々の間では、亡くなった後3年半かけてカシュガルに運ばれたと言い伝えられている。緑のタイルで飾られた廟内には58の墓があり、72人のホージャ一族の棺が置かれている。


【バザール】
カシュガルでは毎週・日曜日に開かれる新疆最大のバザールの「日曜バザール」と平日も開かれる常設のバザールがある。日用雑貨から干し葡萄や棗などのドライ・フルーツ、香辛料や衣料品などを購入することができる。


【ウイグル料理】
ウイグル族はイスラム教徒のため豚肉を食べないので羊肉料理が主になる。大きさや厚さが様々な「ナン」や手打ちの麺に具をかけて食べる「ラグメン」、ピラフの様な炊き込みご飯「ポロ」やシシカバブなど新疆ならではの食事を楽める。




◆◆◆西域南路◆◆◆
タクラマカン砂漠の南、崑崙山脈の北に位置するキャラバン隊や商人が往来した西域南道沿いにはかつてのオアシス都市の遺跡が今なお残されている。
西域南路沿いの都市
【インジージャ】
カシュガルから南に車で約1時間半のところにある刃物作りで有名な町。人々は刃物を買いに中国全土からこの町にやって来る。 町のいたるところに刃物を売るお店がある。
キーホルダーになっている小さなナイフから、柄の部分に奇麗な飾りが施されているもの、動物の肉を捌くための大きな包丁まで様々な種類の刃物が売られている。

【ヤルカンド】
漢代にはオアシス都市国家である莎車国があった町。マルコ・ポーロ(1254-1324)の東方見聞録にも登場し、また16~17世紀にかけて栄えたヤルカンド・ハン国時代には都が置かれていた。
現在の人口はカシュガル地区では一番多い約65万人。人口の大多数がウイグル族で、町のモスクからは敬虔なイスラム教徒のお祈りの声が聞こえてくる。

【ホータン】
ホータンはタクラマカン砂漠と、その南を東西に延びる崑崙山脈とに挟まれたシルクロード上のオアシス都市。ホータン王国(ウテン国)は西暦56年から1006年の間に存在した仏教王国で、法顕や玄奘などの中国僧も訪れている。その後11世紀始めにイスラムの侵攻を受けてその支配下に入ってから住民もイスラム化してきた。
またホータン北方のタクラマカン砂漠にあるダンダンウィリク遺跡で、ホータン王に嫁いで来た中国の王女が、髪の中に蚕の卵を隠していたと見られる壁画が発見されていることから、中国以外で絹が生産された初めての場所とされている。
【新疆ウイグル自治区の綿花】
新疆ウイグル自治区では1990年代から綿花の栽培に力をいれてきた。現在、国内最大の綿花生産地になり、栽培面積、生産量など中国一になっている。
10月から11月にかけての秋は綿花の収穫時期。最盛期には子供たちも学校をお休みして収穫の手伝いをする。

【尼雅(ニヤ)とニヤ遺跡】
民豊の町は小さく町自体に見所はないが、郊外には漢代の西域三十六国のひとつ「精絶国」の遺跡・ニヤ遺跡が残る他、タクラマカン砂漠を縦断する「砂漠公路」への基点となる。
ニヤ遺跡は、民豊の北約100キロのタクラマカン砂漠の中にある。遺跡は南北に25km、東西に7kmに渡り散在しています。高さ6mの仏塔をはじめ、住居址、古代橋、果樹園、工房跡、墓地などが残っている。ニヤ遺跡は1901年、イギリスの探検家スタインによって発見された。多数のカロシュティー文書が出土され、後漢の時代には楼蘭の属国であったことや、3世紀にはこの都市が放棄されたことや、インド・ガンダーラ地方のタキシラからの移住民がいたことなどがわかっている。
【チェルチェン】
崑崙山脈、アルチン山脈の北麓、チェルチェン河の水源とするオアシス都市。
チェルチェン県は面積14万平方kmと中国の中でも2番目の大きさの県。広い県だが、45%は山地、17%は砂漠。ウイグル族が多く住んでいて、全人口の約77%を占める。


【チャルクリク(若羌)県】
甘粛省、青海省と接する面積20万平方kmと中国で最大の大きさの県。 ロプノール、楼蘭遺跡や米蘭遺跡もチャルクリク県の砂漠内に位置する。 【米蘭遺跡】
チャルクリクから北東に80km。楼蘭王国の都城址とも言われている。イギリスの探検家スタインによって1907年に発見され、唐代の都城址や寺院跡、仏塔、住居跡などが現在も残されている。米蘭を最も有名にした有翼天使像の壁画は、ヘレニズム文化の影響が見られ、キリスト教の天使像の起源だとも言われている。寺院からはギリシャ・ローマ風のフレスコ画やガンダーラ美術に通じる仏伝図なども発見され、東西の文物が行き来する中継点であったことがわかる。




ホータン(和田)
タクラマカン砂漠と崑崙山脈に挟まれたオアシス都市
ホータンはタクラマカン砂漠と、その南を東西に延びる崑崙山脈とに挟まれたシルクロード上のオアシス都市。ホータン王国(ウテン国)は西暦56年から1006年の間に存在した仏教王国で、法顕や玄奘などの中国僧も訪れている。その後11世紀始めにイスラムの侵攻を受けてその支配下に入ってから住民もイスラム化してきた。
またホータン北方のタクラマカン砂漠にあるダンダンウィリク遺跡で、ホータン王に嫁いで来た中国の王女が、髪の中に蚕の卵を隠していたと見られる壁画が発見されていることから、中国以外で絹が生産された初めての場所とされている。
【マリクワト遺跡】
ホータン市の南25km。漢代から唐代にかけてのウテン国の都跡で、南北1.5km、東西800mの規模をもつ遺跡。
地上には陶器片が散乱していますが、日乾しレンガで建てられた遺跡はあまり現存していなく、伽藍跡と考えられる建物が確認できるにすぎない。
遺跡の周囲はゴビ砂漠が広がっているので、遺跡の入り口からはロバ車に乗り換えて訪れる。


【白玉河の玉】
市内の東側にはユルンカシュ(白玉河)、西側にはカラカシュ(墨玉河)が流れ、ホータンの北で合流してホータン河となる。
白玉河では南の崑崙山脈から雪解け水とともに運ばれてくる白玉が発見されている。中国人は古来より玉を珍重し、印章(玉璽)、祭儀用の器、楽器、装飾品などに使われてきた。白玉探しはマリクワット遺跡近くを流れる白玉河で体験できる。


【ホータンの絹】
ホータンは2000年以上前から養蚕が盛んな地である。7世紀に玄奘が書いた大唐西域記の中でホータンの伝説について記している。
昔、ホータンは貧しい街でした。ホータンの王は、国の発展について考える。そして、シルクロードを行き交う隊商が、絹織物を運んでいることに気がついた。ホータンの王は、遥か東の絹の技術を持つ国の女性と婚約する。王は彼女に、「絹の技術を教えてもらえないでしょうか?」と密かに頼み、彼女は悩んだ末、国の禁を破って、ひそかに蚕と桑の種を持ち出し、ホータンへその技術を伝えたといわれている。


ニヤ(尼雅)タクラマカン砂漠と崑崙山脈に挟まれたオアシス都市
タクラマカン砂漠、崑崙山脈の間に位置する西域南道沿いに栄えたオアシス都市。
民豊(ニヤ)の町から約100kmの砂漠の中に位置し、東西7km、南北25km、175平方キロメートルの範囲に仏塔を中心として、寺院や住居、果樹園、貯水池、墓地跡が残る。
「漢書・西域伝」に記載されている「精絶国」の一部とされていて、紀元前1世紀に栄え、尼雅河の流れが変わってしまったため紀元4世紀には滅びたとされている。

【尼雅遺跡】尼雅遺跡は1901年スタインによって発見された。その後、1906年、1913年、1931年と計4回に渡り調査が行われ、多くの遺構・遺物が発見された。中でも大量のインドの古代文字・カロシュティー文書発見は非常に重要で、これにより古代の西域南道諸国の実態があきらかになった。その後、1980年に中国とNHK取材班との共同で遺跡が取材に訪れ、その後、日中共同調査隊によって1988年から1997年まで調査研究が行われた。







◆◆◆タクラマカン砂漠◆◆◆
タリム盆地に広がる砂漠で、面積は約30万平方kmと世界で2番目の大きさ。
タクラマカンとはウイグル語で「死」や「無限」などを意味する合成語で、昔は一度入ったら出られない死の砂漠と捉えられていた。
しかし1980年代から石油や天然ガスの油田の調査が始まり、今では中国のエネルギーを支える存在として注目が集まっている。


砂漠公路
天山南路の輪台と西域南道のニヤを結ぶタクラマカン砂漠を縦断する道路。
油田開発の一環として1991年から作られたこの道路は97年に一般人にも開放された。
全長は約500kmで広大なタクラマカン砂漠を感じることが出来る。最近では緑化計画を推し進めており、道路に沿って人工的にタマリスクなどの植物を植え4kmごとにあるポンプ小屋から毎日地下水を供給している。
また砂漠を横断するように流れるタリム河の近くには胡楊の木がたくさん見られ、秋にはきれいに黄葉した姿も見ることが出来る。


南疆鉄道
もともとは新疆西部の開発や石油などの天然資源の運搬を目的として1970年代前半トルファンから工事を始め1984年にコルラ、1999年にはカシュガルまで開通した鉄道。
新疆ウイグル自治区の中心都市ウルムチと中国最西端カシュガルを結んでいるため、市民の重要な足となっている。
天山南路に沿うようにして走る列車の車窓からは天山山脈の雄大な山並みや、荒涼とした大地に生活する人々の様子などを見ることが出来る。
南疆鉄道は普通の椅子の座席から、寝台車「軟臥」まで選べる。「軟臥」は4つの寝台がひとつの個室になっていて、中にはテーブルがあり、湯が入ったポットや清潔な枕や布団までついている。各車両の間には洗面台やトイレがあり、定期的に服務員が掃除をする。
また、食堂車両も付いていて、羊肉や野菜が中心の清真(イスラム教)食堂だが、メニューの種類は豊富で、お酒を飲むことも出来る。 大声でお喋りを楽しんでいたり、大きな荷物を抱えカップラーメンをおいしそうに食べている現地の人々との交流や、車窓の景色を眺めているだけであっという間に目的地に着く。

崑崙山脈
コングール山やムスターグ・アタ山も崑崙山脈の山を有するパミール高原からタクラマカン砂漠の南辺に続く長さ約3,000kmの山脈。黄河の源流で、玉を産出し、仙人が住む山として中国では古代から知られている。

胡楊
ヤナギ科の落葉高木。ポプラの仲間で和名を「コトカケヤナギ」と言います。胡楊の葉は他の植物と違い、「針のような細い葉」と「卵円形」のものと成長過程で、その形態を変えるおもしろい植物。
中国では新疆が主要な自生地で、タクラマカン砂漠周辺で見ることができる。乾燥や塩分、強風にも強く、建築材・家具や紙の原料としても利用されている。 10月は胡楊の黄葉のシーズン。黄色に色ずいた胡楊に砂漠の景観はまるで絵画の様。

ダンダンウィリク(丹丹烏里克)幻の古代仏教都市
タクラマカン砂漠の奥深くに残るダンダンウィリクは、シルクロード学の原点ともなった古代仏教都市の遺跡。古代ウテン王国の重要な町として唐代には「傑謝」と呼ばれ、東西約2km、南北約10㎞の範囲内に寺院や住居跡など数多くの遺構が分布し、8世紀に放棄されたものと推測されている。スウェーデンの探険家ヘディンにより1896年に発見され、1900年にイギリスの探検家スタインが発掘調査を行ったが、あまりにも砂漠の奥地に位置するため、本格的な調査はさらに100年以上の月日を待たなければならなかった。タクラマカン砂漠の奥深くに位置するダンダンウィリク遺跡までは、砂漠専用車など特別な車でも行くことが出来ない。ラクダに乗って約2日間。テントや食料、飲料水など全てラクダに乗せて、キャラバン隊を組んで進むことになる。

2002年より日本の佛教大学、新疆ウイグル自治区文物局、新疆文物考古研究所による「日中共同ダンダンウィリク遺跡学術研究プロジェクト」が開始され、4回にわたる本格的な調査が行われた。次々と出土した壁画は内容・量・質ともに優れ、アジア古代美術史の研究に欠かせない非常に価値の高いものばかりである。特に2002年に発掘された「西域のモナリザ」と名付けられた壁画には法隆寺金堂旧壁画を思わせる「鉄線描」の様式が見られるとされている。
7世紀にホータンを中心に開花した佛教美術、そしてはるか日本へと至る仏教東漸の鍵を握る貴重な遺跡として、今後のさらなる全貌解明が待たれる。






ダンダンウィリク遺跡
ダンダンウィリク遺跡はスタインの報告書「古代のホータン」によってD1からD19まで建物跡として17箇所登録されている。また、「日中共同ダンダンウィリク遺跡学術研究プロジェクト」に於いては、スタイン発掘の建物跡との区別のため「策勒(CHIRA)県ダンダンウィリク」を略して「CD1、2」と名付け遺構が整理調査されている。









◆◆◆古のシルクロード◆◆◆
パミール高原・カラクリ湖へ新疆西部はパミール高原の一部分。カラクリ湖やスバシ峠へは、カシュガルから日帰りで、タシクルガンへはパキスタンへと通じる中パ公路の中継点として訪れることができる。
古のシルクロードをタシクルガンへ
カシュガルを出発し、キャラバン隊がすすんだ道を標高を徐々にあげていくと、タシクルガンへ到着する。道の両側に広がる山々や草原など広大な大自然の景観を楽しむことができる。
現在の道路は舗装されているが、まれに夏前の鉄砲水で道路が壊れてしまうことがある。

カラクリ湖
カシュガルから南西に約200km、標高約3,600mのところに位置する湖。近くの山の氷河が融けて出来た湖で、走ったりするとすぐ息苦しくなり、高山病には注意が必要。
近くにはカザフ族やキルギス族など多くの民族が住んでいて、湖畔にあるパオで食事を取ることや馬に乗ることも出来る。
快晴の日にはコングール峰(7,719m)とムスターグ・アタ峰(7,546m)が湖に綺麗に移る姿も見ることが出来る。



タシクルガン
パミール高原の東部、崑崙山脈の北部、タリム盆地の西部に位置し、タジキスタン、パキスタン、アフガニスタンと国境を接するタシクルガン・タジク自治県の中心地。
パキスタンとの国境地点クンジェラブ峠までの距離は約200km。タジク、ウイグル、キルギス族が居住し、中国のほかの町とはまた違った雰囲気。
クンジェラブ峠へ
タシクルガンの町に中国の出入国手続きをする管理局がある。この入国管理局からクンジェラブ峠までの間は、この区間を通ることができるバスで移動する。
クンジェラブ峠を越えるとパキスタン。パキスタン側はスストの町に入国管理局がある。
参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
参考資料: クラブツーリズム『世界遺産シルクロードの魅力』
参考資料: 西遊旅行『シルクロードみどころMAP』












