ペルシャの風 (1) ペルセポリス
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【ペルセポリス】
ペルセポリス(Persepolis)はアケメネス朝ペルシア帝国の都。ダレイオス1世(ダーラヤーウ1世)が建設した宮殿群であった。遺跡はイランのファールス地方(当時の地名はパールサ地方)にあり、ペルセポリスの名はギリシャ語の記録に由来する。ペルシア語でなんと呼ばれていたのかは未だ不明である。紀元前331年、アレクサンドロス大王の攻撃によって破壊され、廃墟となった。
現在知られている限りペルセポリスの名がはじめて歴史に登場するのは、古代ギリシアの歴史家クレイタルコスの著した『アレクサンドロス伝』であったといわれている。この書が後世多くの学者によって引用されたためにペルセポリスの名もアケメネス朝の王都の名として広く知られるようになった。即ちペルセポリスの名が記録されるのは、既に破壊された後のことである。ペルセポリスという名称は「ペルシアの都」と、「都市を破壊する」[1]を掛けた一種の言葉遊びであったとも言われている。
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【ペルセポリスの歴史】
ダレイオス1世がペルセポリスの建設に着手したのは紀元前520年のことであった。これはダレイオス1世即位時の大反乱(詳細はアケメネス朝を参照)の鎮圧直後のことであり、当初帝国の中心として構想された都市であったといわれている。ペルセポリスはクーヒ・ラハマト(慈悲の丘)の山裾に自然の岩盤を利用して建設された。
クセノフォンの記録によればアケメネス朝の王は春3ヶ月間をスサ、夏2ヶ月間をエクバタナ、冬7ヶ月間をバビロンで過ごしたとあり、ペルセポリスは儀式用の都市であったのではないかという説もある。しかし、少なくても創建当初にはペルセポリスで実際に行政活動が行われていたことは宮殿跡から発見されたエラム語[2]の文書でわかる。エラム語の行政文書は、少なくても紀元前509年から紀元前457年までの物が発見されている。
都市の建設も、ダレイオス1世の治世からクセルクセス1世(フシャヤールシャ1世 前486年-前465年)、アルタクセルクセス1世(アルタフシャサ1世 前465年-前424年)の治世前半まで継続して行われており、ペルセポリスで行政活動が行われていた時期と、建設活動が行われていた時期がほぼ重なっていることがわかる。一方でこれらの行政記録から、ダレイオス1世時代から既に王がこの都市に滞在することはほとんど無かったこともしられており、帝国の中心としては圧倒的にスサの方が重要性の高い都市であった。多くの学者の説によれば、ペルセポリスの主要な用途は帝国の新年祭を執り行う場であり、諸民族からの貢納を受け取り、アケメネス朝の王権が神から与えられたことを確認する聖域であったと言われている。また、天文観測所としての機能も持っていたといわれており、暦の制定に重要な役割を持ったと考えられている。
時代を経るごとにペルセポリスが実際の政治から遠ざかっていったことは、王城内部にアルタクセルクセス2世やアルタクセルクセス3世の墓が作られていることからも推察され、更に新年祭などの儀礼行為も次第にスサやバビロンに場所を移すようになってペルセポリスでは行われなくなったと言われている。にも関わらず、ペルセポリスはアケメネス朝の滅亡の時まで首都と見なされていた。これはアケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス大王に纏わる諸記録からも明らかであり、またペルセポリス攻略の際に彼は12万タラントン[3]の黄金を手に入れている。これは彼がスサで獲得した黄金の3倍にも上る量であり、これだけの財宝が保存されていたことは、アケメネス朝最末期においてもペルセポリスが重要な都市であったことを証明する。だからこそアレクサンドロス大王もわざわざこの都市を訪れ、そして破壊していったのである。
紀元前331にアレクサンドロス大王によって破壊されて以後、この都市は今日に至るまで廃墟であるが、その壮大な遺構は残され、イスラーム時代の記録にはマルアブ・スレイマン(ソロモンの遊技場)、ハザール・ストゥーン(千の柱)、チヒル・ミナール(40の尖塔)などと言う名で言及されており、現在のイランではタハテ・ジャムジード(ジャムジードの玉座[4])の名で知られている。
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